祈りと沈黙の果てに
負傷者の救護は事故の直後から続いた。
骨折、裂傷、火傷、窒息による意識障害。
医師の数は限られており、応急処置の多くを担ったのはイリスだった。
「この者は骨折、板と布で固定を!」
「血が止まらない……縛りをきつくして!」
「火傷は冷やすの! 水と清潔な布を!」
的確な声が飛ぶたびに、混乱していた救護所に秩序が戻っていく。
後に語り草となるほどの救命活動だった。
彼女の知識と判断がなければ、負傷者の半数以上が命を落としていたとさえ言われる。
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――崩落事故の後。
救助の末に生き残った者たちの歓声は、やがて静かな沈黙に変わった。
死者、十四名。
負傷者、百を超える。
名簿に並んだ数字はただの記録にすぎない。
だが、その一つ一つには確かな顔があり、家族があり、帰りを待つ者がいた。
あの日から数日、葬儀の鐘が絶えることなく鳴り響いた。
王子の布告により、死者の家族には国庫から補償金が送られることが決まった。
額は決して十分ではなく、愛する人を取り戻せるものでもなかった。
それでも、国が公式に「犠牲を認めた」という事実は人々の心を大きく揺さぶった。
「……これで孫たちが飢えることはない」
老いた母は震える声でそう言い、差し出された金袋を胸に抱いた。
しかし、その目からは涙が止まらなかった。
亡き息子の名を呼ぶ声は、補償金では埋められぬ空白を突きつける。
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数日の後、国の命令が正式に下された。
鉱山は国の直轄地とし、管理権を剥奪されたグロース伯爵は、王都に送られることになった。
「私は……私は悪くない! これは事故だ! 事故なのだ!」
護送の馬車に押し込まれる伯爵の声は、誰の心も動かさなかった。
かつて彼に従っていた兵士たちも、視線を逸らすばかり。
民衆の間にあったのは怒りでも憎しみでもなく、ただ冷え切った沈黙だけだった。
――もはや、彼に耳を傾ける者はひとりもいなかった。
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その日の夜、王子の命令がひとつ下された。
「この鉱山で見聞きしたことは、すべて口外無用とする。
特に“少女”の素性については、一切触れることを禁ずる。
名も、身分も、誰の口からも出してはならぬ。」
その声は、命令というより、庇護の響きを帯びていた。
あの場で“女”だと露見したのは――イリス・グランディア。
貴族でありながら、民の中に身を置き、命を救った少女。
その名が広まれば、王家と貴族の均衡は崩れ、
彼女自身も、政治の渦に呑まれてしまうだろう。
それを避けるため、王子は自らの名で緘口令を布いたのだ。
騎士たちは無言で頭を垂れた。
誰もが理解していた。
――それは“沈黙による恩赦”であり、王の庇護の証だった。
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夕暮れの空の下、焼け焦げた坑道の前には、まだ消えぬ血の跡が残っていた。
だが、その傍らでは、命を取り戻した者たちが互いに支え合いながら歩き出していた。
人々の記憶に刻まれたのは、伯爵の冷笑ではなく――
泥にまみれながら命を繋いだひとりの少女の姿だった。
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事故から数日後。
国直轄となった鉱山には、新たな布告が掲げられた。
「以後、鉱山の労働はすべて王国の名において管理する。
賃金は銀貨一枚とし、労働時間を制限する。
安全を軽んじた者は、貴族といえど厳罰に処す。」
それは王子の名で読み上げられた命令だった。
労働者たちの間にざわめきが広がる。
「本当に?」
「俺たちが……見捨てられないで済むのか」
泥と汗にまみれた顔に、久しく見なかった希望の色が灯る。
現場には新たに監督官が置かれ、労働者の安全を守るための規則が次々と整えられていった。
誰もがまだ疑いを拭えなかったが、それでも「変化」が訪れたことは確かだった。
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イリスは人々の輪の中に立ち、静かにその光景を見つめていた。
十年の孤独と封じられた日々を経て――
今、自分が民を導く一助となっている。
「……これで、少しは報われるのかな」
小さな独白は、誰にも届かないはずだった。
しかし、その横から静かな声が返ってきた。
「報われるさ。君は、ずっと見守られていた」
イリスははっと振り向く。
そこに立っていたのは、王子だった。
彼の瞳はまっすぐにイリスを捉えている。
その光は、十年前に図書館の薄暗がりで聞いた“あの声”と重なった。
「……まさか」
イリスの胸が震える。
王子は一歩近づき、声を落とす。
「君がどれだけの孤独を耐え、知識を積み上げてきたか……ずっと知っていた」
十年間、声だけが寄り添ってくれた存在。
顔を見てしまえば甘えてしまうと、あの時背を向けた相手。
その正体が、今まさに目の前に立つ――。
「……あの声は、あなた……?」
「そうだ。君を見捨てることなど、私にはできなかった」
イリスの瞳に熱が滲む。
王子の声が胸に染み渡り、十年の孤独が今ようやく報われていく。
その瞬間、群衆のざわめきも遠のき、ただ二人だけの時間が流れていた。
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その翌朝。
治療所の前に、陽が差し込んでいた。
イリスは包帯を巻いた頬に手を当て、深く息をつく。
「……行かなくちゃ」
背後では、マルタとオズが言い争っている。
「まだ療養中ですよ!」
「お前、頬青いままだぞ!」
イリスは微笑んで振り返った。
「大丈夫。もう“イオリ”として動くわ」
そう言って帽子をかぶると、
治療所を後にし、朝靄の中へと歩き出した。
その背は、痛みを抱えながらもまっすぐで――
誰よりも強く、清らかだった。
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第2章 完




