崩れるもの、救うもの
「黙って聞いていれば——あの小娘を、取り押さえろ!」
兵士の号令が飛ぶ。鎖の音と同時に、数人の兵がイリスめがけて動き出した。泥が跳ね、空気は瞬時に殺気を帯びる。
だがそのとき、遠くからはっきりした声が響いた。馬のひづめが地を叩き、王子一行が馬上で姿を現す。
「待て——グランディア家のイリス嬢だ」
その一言に、誰もがぎくりとした。兵士たちの動きが止まる。馬車の土埃の向こう、グロース伯爵の頰がほんの少し青ざめたが伯爵の声が響く。
「だが、グランディア家は娘を勘当したはずだ!」
その言葉に、王子の眼差しが鋭く光った。
「勘当? そんなものは家の都合にすぎない」
場が凍りつく。
王子は一歩、馬を進める。
「国が認めない限り、イリス嬢は——グランディア家の誇り高き娘だ」
ざわめく人々。伯爵の顔は怒りに歪む。
そのとき、イリスが一歩前に出た。
腫れた頬、震える拳。
けれどその瞳は燃えるように真っ直ぐだった。
「……私の立場なんて、どうだっていい!」
その声に場が揺れる。
「貴族だろうと、勘当だろうと……そんなことはどうでもいい!
ここにいるのは人間だ! 血の通った、この国の民だ!
助けるのか、それとも見捨てるのか——答えろ!」
彼女の叫びは、崩れた坑道に反響し、泣き叫ぶ労働者の声と混ざり合った。
誰もが息を呑む。
王子の眼差しが鋭く揺れ、伯爵は一瞬、言葉を失った。
坑道に響いたイリスの叫びに、兵士も労働者も息を呑んだ。
そのとき、王子は馬から降り、泥を踏みしめて一歩前に進んだ。
「よく言った、イリス嬢」
その声は堂々と、しかし温かく響いた。
「民の命を軽んじるなど、この国にあってはならぬ! ——皆、聞け!」
騎士たちが姿勢を正す。労働者たちが顔を上げる。
「お前たちは駒ではない! 誰一人、捨ててよい命など存在しない!
この鉱山を支える民がいてこそ、王国は繁栄するのだ。
ならば、我が剣と我が権威をもって、今ここで命を救う!」
その言葉に空気が震えた。
泣き叫んでいた労働者たちの目に、希望の火がともる。
伯爵が顔を引きつらせる。「殿下、それは……!」
「黙れ、グロース!」王子の声が鋭く叩きつけられる。
「国の名において命ずる。今より全員、人命救助にあたれ!」
――歓声が上がる。
だが、歓声はすぐに「仕事」に変わった。王子の声が号令となり、泥と瓦礫に塗れた群衆が一斉に動き出す。
イリスは瞬時に状況を見渡し、指示を出した。
「まずは二次崩落を防ぐ! 残土を袋に詰めて土嚢を作れ! 石は大きさ別に分けて、支えに回すんだ! 誰かロープと太い木を持ってきて!」
それは、図書館で擦り切れるまで読んだ「実用書」と、前世で覚えた細かい手仕事の記憶の融合だった。言葉は現代の言い回しではなく、この国の言葉に噛み砕いて伝えられたが、指示は明快だった。周囲の誰もが迷いなく従う。王子の威光が、その命令を後押ししていたのも確かだ。
騎士が馬から下り、泥まみれでロープを引き寄せる。囚人の腕が縄を結び、労働者の若者が麻袋を叩いて土を詰める。兵士たちも、命令に従って重い石を運ぶ手を止めることはできなかった。伯爵は馬上で唇を噛んだまま黙している。
イリスは腰に巻いた布を引き出すと、ざっくりとした地図――いや、即席の設計図を地面に描いた。線と丸印、矢印だけの粗い図だが、そこに書かれたものは論理であり、救命の設計だった。
「ここに支柱を立てる。二つの支点でこの大岩を受ければ、上の圧力が分散する。滑車を二組作って、ロープを引けば人力でも引き上げられる。てこの原理を使うんだ。わかった?」
「てこ、てこって何だ!?」若い労働者が声を上げると、イリスは一瞬だけ柔らかく笑った。
「簡単よ。支点を作れば、力は倍になる。さあ早くやって!」
王子はイリスの背中を見て、低い声で周囲に命じた。
「騎士団は安全確保と搬送を。民は現場で指示に従え。グロース伯爵、貴公の者も使わせる。命は貴賤を問わぬ——これは命令だ」
伯爵が何か言い返す素振りを見せたが、王子の剣先が彼の顔に向いた。言葉は出なかった。代わりに、伯爵の取り巻きが重い足取りで動き出す。
シャベルとロープ、太い丸太。人海戦術で作られた臨時の滑車が、誰の手でも回せるように組み上がっていく。木の桟が重ねられ、石が一つずつ慎重に積まれて支えになっていく。土嚢は次々と出来上がり、壁のように積まれていく。汗と泥で滑る手を、誰もが必死に噛み締めた。
――坑道の奥からは、かすかな声が聞こえる。確かな、生きている声だ。
「助けてくれ……ここにいる……」
イリスの胸の中で何かが弾けた。声は、ガルドのものだとわかった。あの低い、かつて隣で槍を振った男の声。彼女は呆然と立ちつくす時間など与えられない。引き続き指示を出し、手を動かす。
「滑車、こっちに! 反対側はゆっくり引け! 板で楔を作って岩を少しずつ浮かせるのよ!」
ロープがきしみ、木製の滑車が軋む音が坑道に響く。力を合わせた引きがかかった瞬間、辺りの粉塵が舞い、石の一部がゆっくりと持ち上がった。人々の息が詰まる。
「今だ! その隙間から腕を伸ばして!」イリスが叫ぶと、王子と数人の騎士が手を差し入れ、瓦礫の隙間をこじ開ける。
血と土と汗の中、擦り切れた鎖に絡まった手が、ひとつ、ひとつ現れる。最初に見えたのは、ガルドの手の甲だった。骨ばった指、燃え尽きたような皮膚。だが、確かに握られていたのは生の温度だった。
「ガルド!」イリスは声を張り上げ、その手を強く掴んだ。泥の中から引き抜かれた彼は、瞳を半開きにしてこちらを見た。唇の端に血が滲んでいるが、意識はあった。彼の目がイリスを認めた瞬間、ぶわっと、周囲の空気が弾けたように安堵の声が上がる。
王子が手早く指示を続ける。騎士が担架を作り、労働者たちが順にガルドを載せて運び出した。ガルドの顔に、かすかな笑みが浮かぶ。彼の隣で、泥だらけの掌が熱く握り返してきたのは、イリスの手だった。
「――よかった、イオリ生きてたんだな」ガルドは弱々しく笑う。言葉は途切れがちだが、その声に力が戻る。
だがイリスは泣かなかった。涙は口の端だけに溜まっていた。彼女はただ、瓦礫の先に立つ伯爵の顔を見据えた。そこには、恥ずかしさと焦燥と、何よりも次に来る報復の影があった。王子はガルドを見下ろし、短く言った。
「本日、この鉱山での行為はすべて国の調査対象とする。グロース伯爵、説明を求める」
伯爵は唇を震わせる。既に周囲の視線は彼から逸れていた。泥と血の匂いの中で、民の声がひとつになっていた。イリスの指示は、人を動かし、命を救った。十年の孤独がここに報われた瞬間だった。
坑道の上で、空は静かに灰色を保っていた。だがその地面の上では、人の声が戻り、足音が力強く鳴り始めていた。イリスは震える手をガルドの掌に当て、かすかなぬくもりを確かめた。目の端で王子が彼女に目を向ける。短い会釈が交わされ、二人の間には言葉より重い信頼が生まれた。
そして、群衆の中のささやかな声が、大きなうねりになっていくのを、誰もが感じていた。




