戻った私
――重たい。
胸にのしかかるのは、処刑人の刃が落ちた瞬間の衝撃か。
それとも、あの日ホームセンターで木材に押し潰された重みか。
私は跳ねるように目を開いた。
視界に広がるのは、見覚えのある天井。彫刻の入った木の梁、窓から差し込む柔らかな朝の光。懐かしいのに、あり得ない。だって私は、二度も死んだはずなのに。
震える手を見下ろす。――小さい。子どもの手だ。
中にいる“私”は確かに年を重ねているのに、外側はまだ幼い。胸に鋭い違和感が刺さった。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。視界が滲み、涙が勝手に溢れていく。
どうして? 私は誰? ここはどこ?
ふらつきながら鏡の前に立つ。そこに映った顔を見て、息が詰まった。
「……これって」
丸い頬、大きな瞳、幼さを残した柔らかな髪。
忘れられるはずがない。一度目の人生で処刑された、あの伯爵令嬢――幼い頃のイリスの顔だった。
「わたし……戻ってる?」
掠れた声が漏れる。
処刑台の記憶も、ホームセンターで必死に働いた記憶も全部鮮明にあるのに、鏡の中には子どもの自分が映っている。
込み上げる涙を拭いもせず、私は呟いた。
「……店長になれなかったなぁ」
思わず口にしたその言葉が、胸を締めつけた。
大学を卒業して、泥にまみれながら夢を追った。男社会で笑われても、歯を食いしばって努力した。
叶えたかった夢は途中で潰えた。けれど、あの日々は確かに私のもの。
「わたし……がんばったよね?」
答える人はいない。けれど声に出しただけで、涙は少しだけ温かくなった。
――二度死んだ私は、またここにいる。偶然なんかじゃない。きっと意味がある。
私は子どもの小さな手をぎゅっと握りしめる。
「……次は」
言葉にならない決意が、胸の奥で芽生えていた。
⸻
記憶が波のように押し寄せてくる。
私はイリス・グランディア。この国〈オルディア〉で伯爵家に生まれた娘。
鉱石に恵まれ、採掘と交易で栄える国。私の家はその中心に関わる一族だった。
本来なら来年、七歳の頃にお茶会に出るはずだった。そこで出会うはずのリリアナ。やがて幼馴染と呼ぶようになる子。
十歳を過ぎれば、侯爵家の跡取りクラウディオに見初められ、婚約が決まる。
政略と分かっていても、私はどこかで「心を通わせられるかもしれない」と信じていた。
……だが。
処刑台で最後に見たのは、私を裏切り、互いに抱き合う二人の姿だった。
胸がずきりと痛む。憎しみが喉にこみ上げる。
けれど、同時に前世で学んだ言葉がよぎる。――「人を呪わば穴二つ」。
恨みに溺れれば、私も同じ奈落に堕ちるだけだ。
「ならば、最初から……会わなければいい」
鏡の奥の自分に、呟きが跳ね返る。
お茶会に出なければ出会わない。出会わなければ裏切られない。単純だけれど、今の私にはそれが最善だ。
決意は即座に固まった。
――お茶会は、すべて断る。
けれど、ただ逃げるだけでは終わらせない。
私は知った。無知は罪だ。知らなかったから騙され、利用され、そして処刑された。
「二度と同じ過ちは繰り返さない」
脳裏に浮かぶのは、貴族専用の図書館。
かつては退屈で眠気を誘う場所だと思っていたが、今なら分かる。そこには知識という武器があり、未来を変える手がかりが詰まっている。
その夜、私は両親の前に座った。
普段ならお菓子の話ばかりする娘が、真剣な顔で背筋を伸ばす姿に、二人は驚いていた。
「……お父様、お母様。お願いがあります」
膝の上で両手を握りしめ、私は告げる。
「これから先、私はお茶会や社交会には出ません」
父の眉が動き、母は目を瞬いた。
「どうしてだ?」と低く問う父。
私は鏡に誓った決意をそのまま口にした。
「私は無知です。こんな無知な私が貴族社会に出れば、家名を汚してしまいます」
胸が震えた。子どもの口から出るにはあまりに大人びた言葉。でも、私は本気だった。
処刑台での無力感も、ホームセンターで学んだ努力の意味も、全部がここにある。
「だから私は学びます。どうか、図書館に通うことを許してください」
沈黙。張り詰めた空気。
やがて母が小さく微笑み、父は腕を組んで深く息を吐いた。
「……随分と大人びたことを言うようになったな」
「熱でもあるのかと思ったが……どうやら本気のようだな」
私はまっすぐ二人を見返す。小さな身体でも、心は決まっている。
無知は罪。だから学ぶ。
裏切られた痛みを、憎しみではなく知識へ変える。
その夜、私は小さな拳を強く握った。
――明日から、私の新しい人生が始まる。




