理不尽の種火
ある日――。
鉱山の空気がざわついた。
坑道から出てきた労働者たちが顔を見合わせ、ざわざわと声を潜める。
土埃にまみれた現場には、まるで場違いなほどきらびやかな馬車が止まっていた。
磨き抜かれた装飾、白馬の嘶き。
誰もが息を呑む中、その扉が開かれる。
重厚な外套を纏った男が姿を現した。
この鉱山を領する貴族――グロース伯爵。
労働者たちを“駒”としか見ていない冷酷な支配者。
その隣に立つのは、まだ十代半ばほどの少女。
金の髪を結い上げ、宝石を散りばめたドレスに身を包んだその姿は、光のない坑道でひときわ輝いて見える。
――リリアナ。
彼女は地に足をつけるなり、顔をしかめてハンカチを鼻先に押し当てた。
「やだ……! こんな臭くて汚い場所、なんで来なきゃいけないの?」
伯爵が鼻を鳴らし、退屈そうに言う。
「仕方あるまい、娘よ。王都に報告するための視察だ」
リリアナは嫌悪を隠そうともせず、近くにいた労働者を睨みつけた。
汗に濡れ、泥にまみれた男たちが固まる。
「……平民如きが、私の視界に入るな!
ねぇお父様、こんなところ、息が詰まりそう。すぐに終わらせてちょうだい」
リリアナは鼻をつまみ、軽蔑の眼差しを労働者たちに投げる。
伯爵は薄く笑い、杖を地面に突いた。
「よいか、貴様ら。鉱石の納品が遅れていると報告を受けている。もっと働け。もっと掘れ。お前たちの怠惰が、我ら貴族の足を引っ張るのだ」
沈黙が落ちる。誰も逆らえず、ただ頭を垂れるしかない。
そのとき――リリアナの口からさらなる毒が落ちた。
「……ふん、平民如きが私に近づくな。
汗臭い身体で近寄られたら……貴族の私が穢れるじゃない」
その一言で、場の空気がぴんと張り詰めた。
誰も声を上げない。だが、労働者たちの拳は震え、歯ぎしりが小さく響く。
「……っ!」
ガルドが堪えきれず、一歩前に出た。
真っ直ぐにリリアナを睨みつけ、今にも食ってかかりそうな勢い。
イオリは即座に腕を伸ばし、ガルドの肩を押さえた。
「バカ、やめろ!」
低い声で耳元に囁く。
「今ここで逆らったら、お前だけじゃなく、みんなが潰される……!」
ガルドは悔しそうに唇を噛み、拳を握り締めたまま後ずさる。
「……チッ」
その様子を面白がるように、リリアナはくすりと笑った。
「ねぇお父様、やっぱり平民って獣と同じね。吠えることしかできない」
「はっはっは! 全くだ」
伯爵は豪快に笑い、労働者たちを見下ろした。
「だからこそ使う価値がある。吠えても逆らえぬ鎖付きの犬は、便利だろう?」
笑い声が土埃に響く中――労働者たちの胸に燃える怒りは、誰もが共有するものになっていた。
それはまだ表に出せぬ炎。
だが、確かに燻り続ける炎だった。
馬車の車輪が軋み、土埃を巻き上げながら遠ざかっていく。
煌びやかな後ろ姿が見えなくなると同時に、鉱山に再び重苦しい沈黙が落ちた。
誰も声を出さない。
ただ――労働者たちの拳は固く握られ、歯ぎしりが小さく響いていた。
イオリはその光景を、帽子の影からじっと見つめる。
(……リリアナ)
遠い昔かつて“友”と呼んだ幼馴染の少女。
その口から放たれる、平民を切り捨てる言葉。
胸の奥に、忘れかけていた因縁の炎が再び灯るのを、イオリははっきりと感じていた。
イオリはその光景を胸に刻む。
拳をぎゅっと握りしめた彼の胸には、幼馴染への因縁と、未来への誓いが同時に燃えていた。
(必ず……この理不尽を覆す。無価値を価値に変えるのは、今この時代に生きる私の役目だ)




