狂人令嬢、光を暴く
数日後。
市場に妙な噂が走った。
「ほら、これがイリス嬢が使ってる石鹸らしいぜ」
「だが匂いが薄いぞ? 値段の割に安っぽいな……」
商館の扉を蹴飛ばすようにして、オズが駆け込んできた。
「イリス! やられたぞ」
机の上に叩きつけられたのは、見覚えのある金縁の小箱。
だが蓋を開けた瞬間、鼻につく安い香料と粗雑な作りが露わになった。
イリスは眉ひとつ動かさず、箱を手に取る。
「……コピー品ね」
「間違いねぇ。侯爵の息がかかった工房が動いてやがる。値段を下げて、市場を荒らすつもりだ」
オズは歯ぎしりし、拳を机に叩きつけた。
イリスはすっと立ち上がり、窓辺へ歩む。
「いいわ。なら――次は“見せつける”番」
マルタが不安そうに問いかける。
「お嬢様、どうなさるおつもりですか?」
イリスの口元に不敵な笑みが浮かんだ。
「社交界の真ん中で証明してあげるのよ。これが“本物”だって」
⸻
王の宮殿は、いつになく華やかだった。金糸の裾が揺れ、燭台の光が絹を滑るように反射する。王自らが主催する舞踏会──貴族たちが政略も噂もまとって集う場所に、イリスはひときわ落ち着いた足取りで現れた。彼女の肩には、白鳥のような気品と、どこか獣のようなしたたかさが同居している。
「皆様、ごきげんよう」
彼女の微笑みに、会場のざわめきが一瞬途切れた。前日まで“本の狂人”と囁かれていた少女は今、髪を艶やかに整え、肌は健康的に艶めき、香りはふんわりと花を漂わせる。だれもがその変貌に驚き、囁き合う。
しかしイリスが口を開いたとき、その声は軽やかさの裏に冷たい刃を秘めていた。
「最近、偽物が出回っているという噂を耳にしましたの。――とても心が痛みますわ、皆様の大切な肌に害が及ぶのは。」
会場が固まる。イリスは袖から小さな箱を取り出し、壇上に置かれた器具に近づいた。
「ですが、わたくしには“ある筋”から、本物と偽物を見分ける方法を教わっておりますの」
ブラックライトの青白い光が、瓶底の刻印を鮮やかに浮かび上がらせる。オズワルド商会の狼の紋が光を宿した瞬間、会場にどよめきが走った。続けて別の瓶を照らすと、何も浮かばない。安物の匂いが立ちのぼり、偽物であることが白日の下にさらされる。
「これが“偽物”ですの。匂いは似せられても、誠意までは偽れません」
イリスの言葉にざわめきが広がる。さらに彼女は書類の束を令嬢たちへ配り始めた。
「お暇でしたので、出所も少し調べてみましたの。皆様にもぜひ」
配られた記録には、侯爵家とつながる業者、不自然な取引の流れが整然と並んでいた。ざわめきは次第に重く変わり、空気が冷え込んでいく。
「そ、そんなもの信じられるか!」
ディルク侯爵が声を荒げる。顔は蒼白で、しかし必死に虚勢を張っていた。
「女のでっちあげだ! そんな紙切れ、いくらでも作れる!」
会場に動揺が広がる。だがイリスは微笑みを崩さず、扇をゆっくり閉じると、王の前に進み出た。
「では、商品の正当な出所を――お見せいたします」
その言葉と同時に、舞踏会場の扉が大きく開かれる。
現れたのは、背筋を伸ばした一人の青年。
「オズワルド・フェルネス。……父を詐欺に陥れられ、処刑された商人の息子にございます」
一斉に視線が彼に集まる。会場にざわめきが奔った。
王は重々しく言葉を投げる。
「証拠を見せよ」
オズは深々と頭を下げ、用意していた分厚い書類を差し出した。その手は震えてはいない。
王が一瞥し、数箇所をめくると、侯爵の家門の利益移転と裏取引の記録が明確に重なっていた。
「ここに書かれていることが真実ならば、爵位剥奪に加え相応の裁きを受けていただく」
国王の声が低く響く。
「ば、馬鹿な……!」侯爵は蒼白になり、イリスを睨みつける。だがその頬を冷たい汗が伝っていた。
イリスはそっと歩み寄り、侯爵の耳元で囁く。
「私を舐めるな……外道め」
侯爵の膝がわずかに震え、会場の空気が凍りつく。
次の瞬間、王が厳然と命じた。
「衛兵、ディルク侯爵を拘束せよ」
鎖がはめられる音が響き、侯爵は引き立てられていく。最後の叫びは屈辱の響きとなり、広間にこだました。
「くそがき──!」
オズワルドは背筋を伸ばし、複雑な表情を浮かべた。
誇りと安堵が入り混じり、彼の目はイリスを見ていた。
マルタは涙ぐみ、膝を震わせる。
会場は喧噪に包まれながらも、確かな正義の行使を見た者たちの静かな賞賛で満ちていた。
⸻
夜更け、屋敷の一室。
窓の外ではまだ舞踏会の余韻を語る人々のざわめきがかすかに届いている。
イリスはソファに身を投げ出し、両手で頭を抱えた。
「オズきいてーーー! もうみんなうるさいのー!
“見事だったわ”とか“さすがです”とか……あんな表立ってやるんじゃなかった……」
壁にもたれたオズは苦笑を浮かべ、肩をすくめる。
「だから言ったろ。俺が前で踊る。お前は裏で刃を研げって」
低い声が、穏やかな夜に落ちる。
「……それを表でぶん回したから、こうなったんだ」
「わかってるけどさー!!!」
イリスはクッションを手にとり、勢いよく投げつける。
それを片手で軽く受け止めたオズは、ため息をつきながらも口元に笑みを浮かべた。
「まったく……ほんとに手のかかる嬢さんだ」
そう言いながらも、その瞳は優しく彼女を見つめている。
イリスも頬を膨らませながら視線を向け、やがてふっと笑った。
「でも……あなたが横にいてくれるから、ここまでできたのよ」
オズの目が一瞬見開かれ、そして照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「……そういうことは、もう少し小声で言え」
「やだ。聞こえちゃった?」
イリスはにっこり笑い、肩をすくめた。
二人の笑い声が重なり、外のざわめきよりも温かく響いた。




