幻の令嬢と侯爵の刃
昼下がりの商館。
机の上で書類を広げていたオズが、信じられないものを見るように顔を上げた。
「……はぁ? お前、社交界に出るだと?」
イリスは椅子に腰をかけ、当然のようにティーカップを傾けている。
「ええ。私はね――歩く宣伝広告塔になるのよ」
「いや待て! お前、今まで一度も顔出したことねぇだろ!」
「だからいいのよ。インパクトは鮮度。社交界の連中に“幻の令嬢”が現れたって噂させるの」
オズは頭を抱え、深いため息をつく。
「……本当に貴族かよ」
「違うわ。貴族という名の営業担当よ」
にやりと笑うイリスに、マルタが「お嬢様……」と頭を抱えていた。
⸻
そして当日。
伯爵家の馬車が王都の舞踏会場へ横付けされると、空気が一変した。
ドレスに身を包んだイリスが降り立つ。
髪は造作で生み出したトリートメントで絹のように輝き、ほんのりと花の香りが漂う香水を纏い、唇には鮮烈な赤――造作による口紅が彩っていた。
もともと整った顔立ちに加え、努力で磨いた健康的な肌の艶。
その姿に、会場の男たちの目が一斉に――
――ズキューン。
「だ、誰だ……?」
「イリス・グランディアだと……!? “本の狂人”って呼ばれていたあの娘か?」
「いや、図書館で見かけた時はあんな……いや、あんなはずが……」
さざめきは瞬く間に広がり、社交界の話題はすべてイリスに集中した。
彼女は完璧な微笑みを浮かべ、軽やかに応対する。
「まぁ、ごきげんよう」
「ええ、日々のタンパク質のおかげですわ」
――まるで歩く宣伝広告塔。まさしく狙い通り。
⸻
だが、空気は突如として変わった。
人々が左右に割れる。
奥から現れたのは、威圧感をまとった一人の男――ディルク侯爵。
「ほぅ……君がイリス嬢か」
低い声が響く。会場のざわめきがすっと引いた。
イリスは裾を摘み、完璧な礼を見せる。
「初めまして、ディルク侯爵」
「君が身に纏っているその香り……ずいぶんと珍しい。どこで手に入れた?」
侯爵の目は笑っていない。獲物を測る猛禽のような鋭さだった。
会場の視線が二人に集中する。
空気が重くなる中、イリスは――ふっと口角を吊り上げた。
「さぁ……どうかしらね?」
その微笑は、挑発にも似た不敵さを含んでいた。
会場に再びざわめきが走る。
誰もが思った。
――“本の狂人”と呼ばれた令嬢は、ただの飾りではない。
⸻
煌びやかな舞踏会場の只中。
音楽も会話も、一瞬その熱を失ったかのように静まっていた。
――ディルク侯爵とイリスが向かい合っている。
イリスは完璧な微笑みを崩さず、背筋を伸ばしていた。
侯爵の目は笑っていない。だが、その唇は皮肉げに吊り上がっている。
「……良い香りだな」
低く響く声が、周囲の空気を震わせた。
「石鹸か? いや……髪にも艶がある。トリートメントか? ずいぶん珍しいものをお使いのようだ」
イリスは一礼し、穏やかに返す。
「まぁ。侯爵様はお詳しいのですね。……私はただ、日々を心地よく過ごせるように心がけているだけですわ」
侯爵の瞳がさらに鋭くなる。
「心地よく、か。だが、その“珍しいもの”は一体どこで手に入れられた?」
周囲に集まったご令嬢方が息を呑む。
これはただの世間話ではない。侯爵はイリスを試している――誰の後ろ盾でここに立っているのか、暴こうとしているのだ。
イリスは涼しい顔で微笑み、カップを口元に運んだ。
「そうですねぇ……どこだったかしら」
と、その時。侯爵の口元に獰猛な笑みが浮かぶ。
「噂で聞いたのだ。最近、オズワルド商会なる小さな店から、不思議な品が流れていると」
場の空気がぴりりと張り詰める。
イリスはその名を聞いた瞬間、胸の奥で心臓が大きく跳ねた。
だが表情には微塵も出さない。ただ柔らかな笑みを湛え、軽く扇を揺らす。
「まぁ、そうなんですの? 侯爵様はずいぶん博識でいらっしゃるのね。私なんて……ただ与えられたものを楽しんでいるだけですわ」
わざとらしいほどの上品な調子。
ディルク侯爵はじっと彼女を見据え、瞳の奥で獲物を追うように光らせている。
一歩も引かないイリスの眼差しもまた、決して笑ってはいなかった。
――火花が散る。
互いに視線を逸らさぬまま、ただ言葉と沈黙で相手を測る。
やがて侯爵はゆっくりと笑った。
「……なるほど。面白い娘だ」
「恐れ入りますわ」
礼を交わす声は穏やか。
だが空気を吸い込む周囲の誰もが――その一瞬、二人の間に剣が交わされたのを確かに感じ取っていた。
⸻
夜の帳が下りた商館。扉を押し開けると、まだ香水の余韻を引きずったままのイリスが、息を切らせて駆け込んできた。オズは思わずその姿を二度見するが、すぐに表情を引き締めた。
「おい……お前、社交界で何やってきたんだよ。まるで別人だぞ」
オズの声に、イリスは肩をすくめて床に片足を載せる。燭台の光が彼女の目を冷たく照らす。
「照れてる場合じゃないわよ、オズ。
侯爵があなたの名を出してきた。あいつ、私たちを確実に潰しに来るわ」
オズの笑みが引きつる。顎に手をやり、舌打ちする音が小さく響いた。
「……向こうが動くって話だろ? 侯爵だぞ。手を出されたら、どれだけの“反撃”が返ってくるか想像つくか?」
オズの声音には焦りが混じる。だが同時に、商人としての腹の括りも感じられた。彼はゆっくりと机の上の帳簿を指で撫でながら続ける。
「ディルクってのは金と影響力を握ってる。官吏にも顔が利く。いきなり殴りかかったら、こっちは法で抑え込まれる。場合によっちゃ店ごと吹っ飛ばされるぞ」
イリスは肩をすくめた。燭台の炎が彼女の横顔を紙のように薄く浮かび上がらせる。
「だから正々堂々、同じ土俵でやるって言ってるのよ。武力なら武力で。圧なら圧で。やり方は一つじゃない――見せつけて、奪って、潰して、って順序でいいの」
オズが眉を寄せた。「見せつけて、奪って、潰すって……具体的には?」
イリスは立ち上がり、窓の外に広がる夜の街を指差した。低い声で静かに、しかし確信を持って言った。
「まずは“見せつけ”る。社交界で我々の商品が火を噴けば、彼らの鼻が高くなる。次に“奪う”──彼らの客、彼らの市場、彼らの情報網を一点ずつ切り崩す。最後に“潰す”のは、力を行使する段になった時だけ。圧だけで倒せるなら、武力なんていらないわ」
オズはしばらく黙り込んだ後、にやりと笑った。怖れと興奮が入り混じった笑みだった。
「お前……計画的だな。商人の本能に訴える女だ。いいだろう。俺が前で踊る分、裏でお前が刃を研げ。だが、安全策も必要だ。証拠、味方、撤退路。全部用意しないと命がいくつあっても足りねぇ」
イリスは机に手をつき、真剣な目でオズを見返した。
「証拠は揃ってる。商人組合の帳簿、処刑記録の不整合、侯爵の不自然な取引履歴……全部手元にある。あとは“出所”を突き止めて、一撃を叩き込むだけ」
オズの指が帳簿をなぞる。爪が白くなるほど強く押しつけ、やがて小さく笑った。
「……怖ぇ女だな。だがいい。俺が前で踊る。お前は裏で刃を研げ」
「味方と逃げ道も用意するのよ」イリスはすかさず言う。
オズは頷き、拳を握った。
「証拠、味方、撤退路……全部揃えてやる。侯爵が本気で来るなら、こっちも本気で返す」
二人の視線が交差する。
「やるわよ、オズ。潰せるもんなら潰してみなさい。同じ土俵でなら――必ず勝てる」
「任せろ。イリス・グランディア。お前の“狂気”、今度は誇りに変えてやる」
その瞬間、商館の空気がぎゅっと引き締まった。
外では夜風が灯火を揺らしていたが、二人の瞳はもう揺れなかった。




