貴婦人を虜にする罠
翌日。
イリスとオズワルドは商館の奥、重厚な机を挟んで向かい合っていた。
机の上には、白い陶器に入れられたハンドクリームと香り石鹸。試作品ではなく、商品として仕上げたものだった。
イリスは細い指先で容器を回しながら、こともなげに言った。
「まずは試供品よ。これを貴族のご婦人たちに配るの。絶対に食いつくわ」
「……ふぅん」オズは半眼で笑う。
「で、その後どうすんだ?」
イリスは、いたずらっぽく唇を吊り上げた。
「もちろん――金貨三枚で売るの」
「三枚!?」オズの眉が跳ね上がる。
「強気だなぁ。庶民なら一生分の暮らしができる額だぜ?」
「そうよ。だから最初は“断る”はず。だけどね……」イリスは身を乗り出し、机に肘をついて声を落とした。
「……他にないのよ、この魅力は。必ず戻ってくる。高い金を払ってでも」
一瞬の沈黙。
オズは無意識に笑い声を漏らした。
「はっ。怖ぇな、お嬢」
イリスは指を一本立て、すっとオズの目の前に突きつける。
「あなたと私で市場を独占するの。分け前は――私が金貨一枚。あなたは金貨二枚」
「はぁ?」オズは思わず声を荒げた。
「普通は一枚半ずつだろ?公平ってもんが――」
「何言ってんの?」イリスはあっさり遮る。
「お貴族様相手に頭を下げて、笑顔を作って、機嫌を取るのよ?それなりの対価は必要でしょう?私が裏で支えるから、あなたは前で踊りなさい」
オズは言葉を失い、そしてじっとイリスを見た。
その真剣な目に、ふと茶化すように声を低める。
「……おい、本当に貴族なのか?」
イリスは肩をすくめ、クスクスと笑った。
「正確には――図書館に十年引きこもってた変人よ」
一瞬の間。
そして――
「ぶははははっ!」
オズが腹を抱えて笑い出した。
「なんなんだよ、この令嬢は!あー、腹が痛ぇ……!」
イリスはわざとらしくむっとした顔を見せ、けれど瞳は笑っていた。
「笑ってないで働きなさい、オズ」
「へいへい、お嬢。……いや、相棒さんよ」
その瞬間、二人の間に漂っていた緊張が、初めて柔らかくほどけた。
翌朝、商館の奥でイリスはオズの机に肘をつき、低い声で囁いた。
「ねぇ、オズ。あなた、確か何軒か貴族と顔が利くんでしょう?」
オズはくるりと椅子を回し、顎に指をあてて笑う。
「なんでそんなこと、知ってるんだよ?」
イリスは小さく肩をすくめ、目を細めた。
「図書館の本にも、商人組合の資料にも書いてあるの。取引先の名簿くらい、読めば分かるわ」
オズはそこで一瞬だけ顔を曇らせたが、すぐに商人の笑みに戻す。
「ふむ。確かに数件、定期で荷を入れてる屋敷がある。だが――」
イリスは手のひらをぱっと開く。小瓶が音もなく光を放つように見えた。
「そこで、よ。あなたがいつも通う“荷物”と一緒に、そっと“試供品”を入れておけばいいの。『今回、これを販売する予定です。まずは無料でお渡しします』――と、あくまで“胡散臭く”言っておいてちょうだい」
オズが眉を上げる。
「胡散臭く、だと?」
「ええ。わざと『無料』を強調して“ただで配る”ふりをするの。貴族の心理って単純よ。『無料』に手を出すと、その後で『こんなに良いものを知らずにいたかしら』ってなって、買わない理由が消える」
オズはふふ、と笑った。商人の顔に光る計算高さ。
「なるほど。で、言い方はどうするんだ?」
イリスはひと息で続ける。
「まずは入れ物。小さな金縁の箱に小瓶を納める。箱の中に“使用説明”を一枚、上品に折りたたんで忍ばせる。内容はこう——『当店では近日、貴族向け限定品を出します。まずは品質を評価いただくために、御試供として一瓶お送りいたします。お気に召した際は、御一報くださいませ。数量限定、先着順でのご案内となります』」
オズが目を細める。舌打ちとも嘲笑ともつかぬ音を漏らす。
「限定、先着順……なるほど、焦燥を煽るわけだな」
「そうよ」イリスはにっこりと笑った。
「それと――言い方よ。決して『ただで差し上げます』なんて平凡な言い方をしない。『ご審査用に』とか『お目にかけたく存じます』のように、地位をくすぐる言葉で渡すの。貴族は“評価される喜び”に弱いの」
オズはテーブルに拳を打ち、笑いをこらえきれずに口を開く。
「お前……怖ぇな。だが、面白ぇ。全部俺に任せろ。明日の朝一番で旅の荷に混ぜてやる」
──そして数日後。
重厚な馬車に積まれた荷はいつもの通りに宛先へ向かった。だがその中には、見慣れぬ小さな金縁の箱が一つ、そっと忍ばせられている。箱の蓋を開けば、香りがふわりと立ち上り、優雅な紙の説明が丁寧に折られていた。
王侯の館で、執事が荷を解く。やがて片隅の客間に箱が運ばれ、若い令嬢がその金縁を指で転がす。説明文を読み上げる声は、驚きと好奇心で震えていた。
「――『ご審査用に一瓶お贈り申し上げます』だって。どこの店かしら?」
「ふむ、だれかの贈り物かもしれませんね。まずは使ってみましょう」
やわらかな泡を手にとり、膏薬をほんの指先に伸ばす。驚くほどに、荒れが整い、肌が柔らかくなる。香りがひととき、記憶をくすぐる。令嬢は鏡の前で手を組み、指先をじっと見つめる。頬が赤くなる。
最初は顔を歪めて断った夫人も、その夜、ひっそりと洗面所で匂い石鹸を試す。湯気の向こう、瞳がとろんとして戻ってきた。
「まあ……こんなに肌に馴染むものは初めて」
翌朝、館のあちこちでそっと囁きが広がる。
「昨夜の石鹸、気に入りましたか?」
「ええ、あれは……いただいたの?」
「いいえ、どうやら新しい店の“審査品”らしいわ。ただで貰っただけで申し訳ないわね、でも……」
疑う者がいても、手にした心地よさが理性を溶かしていく。やがて一人が匙を投げるように言う。
「買うわ。値段は?」
「三枚って言うのよ」
「三枚!? 高いわね……でも、私の手がこれほど柔らかくなるなら舞踏会で恥をかかないわ」
「それに“限定”だって。欲しくなってきたわ」
鷹揚な笑みでワインを傾けていた侯爵も、テーブルの端でそれを聞きつけると、ふと箸を止めた。紳士たちの会話に滑り込むことは稀だが、己の身嗜みには余念がない。妻の一言で彼も吊られるように注文のことを口にする。
──こうして、試供品は“火”になった。
イリスは静かに遠くの窓辺に立ち、商館から上がる噂の広がりを想像していた。マルタがそっと近づく。
「うまくいってます……!」
イリスは微笑む。瞳の奥に確かな炎が灯っていた。
「ふふ。彼らの心臓は、こうして鷲掴みにするのよ」
オズは後日、満面の笑みで分け前の帳簿を持ってやってきた。だがその顔にも、イリスに対する尊敬と一抹の恐れが滲んでいた。二人は眼差しを交わし、遠くに見える社交界の灯火を見やった。
――作戦は始まった。市場はこれから、彼らの掌の上で踊る。




