狂人令嬢の逆襲
翌朝――。
侍女のマルタに時間をかけて髪を結われ、肌を磨かれ、ドレスを整えられた私は、もう“イオリ”ではなかった。
鏡に映るのは、伯爵令嬢イリス。十年ぶりに家に戻った娘の姿だった。
正門の奥に、馬車の轍が止まる。
扉が開き、重厚な靴音が石畳に響いた。
お父様とお母様。
凛とした二人の姿を前に、私は裾を持ち上げ、深く一礼する。
「お帰りなさいませ。そして……お久しぶりですわ、お父様、お母様」
二人の目がわずかに見開かれる。
その顔には驚きと――すぐに覆い隠された冷たい影が差していた。
父は片眉をぴくりと動かし、虫を見るような目を向ける。
母は香を焚きしめた袖で鼻を覆い、吐息に侮蔑を混ぜた。
「……もう戻ってこないのかと思っていた」
父の低い声。
私はゆっくりと顔を上げ、唇に笑みを浮かべた。
「こうして――五体満足で帰宅いたしました」
母は扇をぱちりと閉じ、吐き捨てるように言う。
「お前は昔、こう言ったはずだ。“無知な私が貴族社会に出れば、父や母の家名を汚してしまいます”と!
……なのに十六にもなって婚姻も決まっていない。恥を知りなさい。何をしに戻ったの?」
空気がぴんと張り詰める。
使用人たちは息を潜め、視線を床に落とした。
銀盆を持つ女中の手が震え、金属音を立ててしまう。
私は静かに肩をすくめ、クスクスと笑った。
「あら、それなら――その汚名を取り返さなければいけませんね。
それに、私は十六歳になってもまだ“自由の身”。素晴らしいことでしょう?」
父母の眉がぴくりと動く。狂人を見るような、そんな目。
けれど私は一歩、彼らに近づいた。
「この十年で得た知識を使うために、私はここへ帰ってきました。
――半年後、この屋敷に金貨千枚を用意いたします」
宣言の言葉が広間に落ちた瞬間、誰もが息を呑んだ。
女中が銀盆を取り落とし、硬い音が石床に響く。
廊下の下働きの子が思わず声を上げ、慌てて口を塞ぐ。
父母の表情は氷のように固まり、ただ沈黙が続く。
私は微笑みを崩さない。
「その時、あなた方に認めさせます。……私が本当に“帰ってきた”ことを」
広間に漂う空気は重いのに、胸の奥には不思議な高揚があった。
⸻
部屋に戻るなり、私は大きく息を吐き出した。
マルタが心配そうに湯気の立つお茶を差し出す。
「……大丈夫ですか?」
「全く!」私は椅子にどさりと腰を下ろした。
「もう、あの目にムカついてさ。つい大きいこと言っちゃったのよ」
目を閉じれば思い出す。
――父の軽蔑。母の失望。
“狂人”を見るような視線。
(……絶対に見返してやる)
「金貨千枚なんて……お貴族様が二、三年は優雅に暮らせる額よ」
思わず頭を抱えた。
――金貨はこの国で最も高価な貨幣。
銅貨一枚で庶民が食事を買え、銀貨一枚で数日暮らせる。
金貨一枚は庶民の一年分の生活費に相当すると言われる。
その千倍。途方もない額だ。
「でも、やるしかないのよ!」
拳を握りしめる。
「ねぇ、マルタ。あなた、商人で“腕のいいところ”知らない?」
マルタは目を瞬かせ、そして小さく頷いた。
「……はい。まだ若いですが、頭の切れる商人が街におります」
「よし、決まり!」
私は立ち上がり、にやりと笑った。
「行きましょう。明日、その商人に会いに」
胸の奥で炎が燃える。
半年後――金貨千枚を携え、この屋敷の扉を叩くのは、必ず私だ。




