無知でいるということ
石造りの廊下に、かすかな声が響いた。
「セイラン様ーー
明日は処刑の日ですよー
まだ生きていますかーー?」
鉄格子に背を預けながら、
イリスは明るい声で呼びかける。
その声は湿った空気の中で不気味なほど澄んでいた。
隣の牢から、ひどく弱った返事が返ってくる。
「……い、一応……」
声はか細く、擦れている。
だが、その声が聞こえた瞬間――
イリスの唇が柔らかく弧を描いた。
「その感じですと大丈夫ですね。
生きているのは立派なことですわ」
「……イリス……
君は、どうしてそんなに平然としていられるんだ……?」
イリスは鉄枷の重さを指先で弄びながら、
涼しい声で続けた。
「さぁ?ところでどうでした?
無知でいるというのは」
セイランはしばらく沈黙し、
重い呼吸のあと、呟いた。
「……最悪だ」
イリスは喉を震わせて笑った。
「ふふっ、ですよね。
でも今回のことで学べましたね」
牢獄に似つかわしくない穏やかな声で、静かに告げる。
「――知ろうとすること。
学ぼうとする大切さを」
壁の向こうで、セイランが苦笑する気配がした。
「……私は、知っているつもりだったんだ。
学んだ気でいた。
だけど……真実は何も見えていなかった」
イリスは目を伏せる。
その横顔は暗闇の中で、
どこか祈るように美しかった。
「まぁ……あなたが単身で元老院に乗り込んだときは
本当に感動しましたけれど」
セイランが息を飲む。
「でも……
わたしの計画は狂いましたね。
謝ってください」
「……す、すまない」
「よろしいですわ」
イリスは優雅に微笑む。
鉄格子の向こうの闇の中でも、
その微笑はどこか光を帯びていた。
「それに、巻き込んでしまったのはわたしの責任です。
ごめんなさいね、セイラン様」
「いや……君が謝ることじゃない。
だけど……君の言葉、ずっと胸に刺さっていた」
イリスは壁に指を滑らせる。
「わたしね、昔ここにいたんです。
悔しさ、悲しさ、怒り、絶望……
全部この場所で学びました」
ぽたり……ぽたり……
天井から滴る水音だけが、二人の間を満たす。
「でもね、あの時のわたしは“無知”でした。
だから殺された」
セイランの呼吸が止まる。
「……殺された……?」
イリスはまるでお茶会で昔話を語るように微笑んだ。
「でも今は、知識があります。
無知ではありません。
だから今回は負けません
私が死んでも種を蒔いたから」
少し間を置いてから、静かに呟く。
「――処刑される日は、どんな空なんでしょうね」
セイランは牢の壁にもたれ、目を閉じた。
「……君が何を言っているのか、全部は分からない。
けれど……その時の君が、とても痛くて辛い思いをしたのは分かる」
イリスの声がわずかに震えた。
「えぇ、とても痛かったです
忘れられないぐらいに」
それは、
どこまでも静かで、
どこまでも強い声だった。
二人を隔てる鉄格子と石壁。
だがそのわずかな距離の中で、
二人の心は奇妙に寄り添っていた。
絶望の底で、
イリスは笑う。
学びの痛みの中で、
セイランは涙を飲む。
処刑前夜の牢獄は、
その二つの呼吸だけで温かさを持ちはじめていた。




