牢獄にて、女王は微笑む
石造りの牢獄は、
相変わらず湿っていた。
壁には薄い苔が張りつき、
天井から落ちる水滴が、ぽたり……ぽたり……と
規則正しく沈黙を刻んでいる。
その音が、まるで処刑台へ向かうときの
鼓動のように思えて――イリスは微かに笑った。
粗末な藁の上に座り、
鉄枷に拘束された両手を見下ろす。
赤黒く腫れ、感覚も薄れた指先。
(……全部、懐かしいわ)
あぁ、そうだった。
その記憶がよみがえるたびに、
胸の奥で奇妙な温もりが広がる。
「ふふ……」
自然と笑みが漏れる。
その瞬間、牢の前に影が落ちた。
「――何が可笑しい? イリス・グランディア」
聞き慣れた、しかし血の温度を感じさせない声。
イリスが静かに顔を上げると、
鉄格子の向こうにヴァルトが立っていた。
月光に照らされたアクアマリンの瞳。
その美しさの裏側に、確かな狂気が潜んでいる。
「まぁ、ヴァルト殿下。
こんな湿気と悪臭に満ちた場所まで
わざわざ会いに来てくださるなんて……ご親切ですわね」
イリスの声は、牢の中でも変わらず優雅だった。
「どうだ? 牢獄の気分は」
「懐かしさを覚えますわ」
楽しげに返す。
ヴァルトは眉をひそめ、
口の端を歪めた。
「湿気で頭でもやられたか?」
「さて? それより――一つ伺ってもよろしいかしら」
イリスは、鉄枷をつけたまま首をかしげる。
「処刑される前に、知っておきたくて。
どうやって国王になりすましていたのです?」
ヴァルトの瞳が妖しく光った。
「教えてやろう。
アルシア皇国には……“人の姿を奪う”術がある」
「まぁ。魔法のようですわね」
イリスは軽やかに茶化す。
「ふん。お前だって造作魔法が使えるだろう。
我らから見れば貴族の遊びと変わらんがな」
「光栄ですわ」
その軽さが、逆に不気味だった。
ヴァルトは鉄格子に手をかけ、
低く囁いた。
「……ここから出たくはないか?」
イリスはわずかに目を細めた。
「出してくださるのですか?」
「条件付きだがな。
――アルシア皇国へ来ればよい」
牢の冷たい空気が揺れた。
イリスは、ため息をつくように微笑む。
「あら。無理なお願いですこと」
「惜しいな。
その頭脳があれば、いくらでも我が皇国の民を救える」
「代わりに、オルディアの民を犠牲にするというのなら――」
イリスは微笑んだまま言う。
「お断りいたしますわ」
その表情は、
牢屋の中にいる者のものではなかった。
それは――
王城全体を見下ろすような、圧倒的な“高み”の笑み。
ヴァルトの瞳が僅かに揺れる。
「……交渉決裂だな」
「あら、残念ですわね」
「処刑台で会おう。イリス・グランディア」
「えぇ。お互い、悔いのないように」
イリスの不敵な笑みに、
ヴァルトは一瞬だけ眉をひそめた。
その違和感を振り払うように
踵を返す。
足音が遠ざかり、
静寂が戻る。
イリスは薄闇の中で、
再び微笑んだ。
冷たく、美しく――
まるで処刑台に向かう女神のように。
(……いいわ。
あなたたちは知らないのでしょうね)
(牢屋に入れられたところで――
わたくしは、何一つ絶望なんてしておりませんのよ)
そう、彼女は種を蒔いた。
絶望のど真ん中で、未来の種を。
「さぁ――始めましょうか」
イリスの瞳が、ひっそりと光った。
まるで闇そのものを刺し貫く
狂気と理性の光。
牢獄に閉じ込められてなお、
彼女はこの物語の主導権を手放していなかった。




