狂人令嬢、元老院に立つ
王城の空気が、朝だというのに重く沈んでいた。
それは、王妃毒殺未遂の衝撃ではない。
もっと別の――
“得体の知れない何かが近づいてくる” という、不吉な予感だった。
イリス・グランディアは、ひとり歩いていた。
その歩みは静かで、軽やかで、
まるで舞踏会のフロアを優雅に進む淑女のようだった。
なのに――
背筋を這い上がるような寒気が兵士たちを襲う。
理由は分からない。
ただ、誰も口を開けず、誰も目を合わせられなかった。
「イ、イリス様……本日は――」
「おはようございます。
元老院を拝見しにまいりましたの」
微笑んでいるのに“笑っていなかった”。
目が、底なしの湖のように静かで深い。
その目の奥に潜むのは――
理性か、怒りか、狂気か。
兵士たちは反射的に背筋を伸ばし、
気づけば道を開けていた。
扉が開く。
そこは王国の頭脳――元老院。
しかし今日、
その部屋を支配するのは老人たちではなかった。
一歩、イリスが踏み込む。
それだけで空気が“変質”する。
老人たちの背中に、冷たい何かが走った。
「イリス嬢……何用だ。
ここが貴族令嬢の来る場所では――」
「承知しておりますわ」
イリスは円卓の中央に歩み寄り、
深く、美しく礼をする。
しかしその動作は、
礼儀ではなく“宣戦布告”のようだった。
「皆さまの“隠していること”。
本日は、それを学びにまいりましたの」
ざわっ。
円卓の老人たちの血の気が引く。
イリスは滑らかに議事録を手に取ると、
まるで紅茶の香りを確かめるようにページをめくった。
「この記述……面白いですわね。
ここが改ざんされている痕跡がございます」
「な……っ!?
い、一般の者が知るはず――!」
イリスはゆっくり微笑んだ。
その笑みは、刃より鋭く、美しかった。
「わたくし、“狂人令嬢”と呼ばれていた時期がございますの。
ご存じありませんでした?」
空気が止まった。
イリスは一歩前へ。
ヒールの音が、まるで刃のように卓上を切り裂く。
「知識を得るためなら眠りも惜しまない。
真実を知るためなら法律など紙くず。
必要とあらば王族専用の書庫にだって迷い込みますわ」
元老院全員、息を呑む。
「わたくしは普通ではありません。
えぇ、昔から」
微笑みながらイリスは言う。
だがその声の奥には――
“狂気”がゆっくりと泡立っていた。
(こいつら……)
(ここに座っているだけで、国を腐らせている)
(わたくしが、この場にいる人間を全員殺せば――
この国は少しは浄化されるのかしら)
自分の胸に生まれた“残酷な答え”に気づいた瞬間、
イリスは小さく笑った。
はは……。
周囲が震えた。
老人たちは椅子を握りしめ、
その小さな笑いに背筋を凍らせた。
イリスは自分のこめかみを軽く押さえる。
(いけないいけない……支配されるところだったわ)
(わたしは知識を得た。
この人々より優れている。
だから――心まで染まってはならない)
イリスはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は狂気を飲み込み、
“完全なる理性の光”だけが残っていた。
「では――議事を始めましょう」
静かだ。
しかしその静けさは、
全員を跪かせるほどの圧。
「この国の闇を暴くのは、
王でも元老院でもありませんわ」
イリスは宣言した。
「――わたくしです」
元老院が震え、沈黙し、
その沈黙すらイリスの足元に跪くようだった。
彼女こそ、この国の“狂気の救世主”。
狂人令嬢イリス・グランディア。
ここに――
国の歴史を狂わせる少女が誕生した。




