この国を壊して、救う
宴の喧噪が遠い夢のように消えた頃、
王城の図書館は、深い海底のような静けさに沈んでいた。
月明かりが高窓から薄く差し込み、
無数の書物の背表紙が淡く光を帯びている。
その中心で――
イリス・グランディアは、一冊の古書をぱらりとめくった。
涼しい顔で、まるで世界にひとりきりであるかのように。
ページがめくれる音だけが、広い空間にぽつりと落ちる。
そんな静寂を破ったのは、
深く低い声だった。
「そんな本を眺めても、何も出てこないよ」
イリスは、ゆるくまつげを持ち上げる。
――来た。
まるで待ち構えていた獣のように、
嬉しさすら隠さず、ゆっくりと振り向いた。
「まあ。ヴァルト殿下ではありませんか」
アクアマリンの瞳が、棚の影から現れる。
光の加減で銀青色にも見えるその瞳は、
イリスを捉えたまま瞬きすらしない。
彼は近づかない。
警戒と興味を等分に混ぜた距離に立ったまま言う。
「王城の図書館を漁ったって、俺のことは何も出てこない」
イリスは、口元だけを上品に持ち上げた。
「ええ。知っておりますわ」
すっと立ち上がり、
ゆっくり、一歩、また一歩――
ヴァルトへと近づいていく。
ドレスが静かに床をすべり、
二人の影が重なりそうな距離で、イリスは彼の顔を覗きこんだ。
「普通なら家系図に載っているはずなのに……あなたの名はない。
国民にも公表されない。
――“影の王族”なんて、聞いたことありませんわ」
ヴァルトの表情は変わらない。
けれど、瞳の奥がわずかに揺れた。
イリスの声が甘く落ちる。
「王族にはあり得ない、アクアマリンの瞳の秘密――
それを隠している理由も」
月明かりの下、
二人の距離は紙一枚ほど。
ヴァルトの喉が微かに動いた。
「……おまえは、何がしたい」
その問いに、イリスはほとんど迷わず答えた。
喉の奥から零れる声は、静かな水音のように澄んでいた。
「なんだかんだ言って――私はこの国が好きなのです」
ほんの一瞬、少女らしい眼差しが浮かぶ。
だがそれはすぐに、鋼の意志へ変わる。
「だからこそ、“汚れ”は正さないと」
一歩、ヴァルトから離れ、
背を向けたまま言葉を落とす。
「何を犠牲にしても」
その横顔には迷い一つなく、
微笑みだけが静かに凛としていた。
“この国を壊して、救う。”
イリスの覚悟は、図書館の薄闇に刀のように光を放つ。
ヴァルトはしばらく沈黙し、
その背中を見つめるしかなかった。
「……イリス・グランディア。
お前は――俺たち王族以上の怪物かもしれないな」
イリスは振り返らない。
ただ、冷たく美しい声だけが返ってきた。
「心外ですわ、殿下。
わたくしは怪物ではありませんの。
ただ――“正しいことを成し遂げる覚悟がある” だけです」
ヴァルトの瞳に、初めて笑みが宿る。
それは愉快でも友好的でもない。
けれど確かに、イリスを“同じ天秤に乗る者”として見た瞬間だった。
静寂が満ちる図書館で、
二人の影だけが月明かりに重なった。




