微笑みは、最初の宣戦布告
ヴァルトの視線が、イリスの瞳を貫いた。
その一瞬の圧だけで、普通の貴族令嬢なら膝をつくだろう。
だが――イリスは微笑んだ。
「まぁ……興味を持ってくださったなんて、光栄ですわ」
声はあくまで柔らかい。
けれど、その奥底には爪を隠した獣のような静けさがある。
「ふふ、わたくしも……あなたには興味しかございませんの」
その瞳の色も、纏う空気も、すべて。
ヴァルトの眉が、わずかに動いた。
挑発に慣れている男が、微かに反応したのが分かる。
イリスは歩み寄る。
距離を縮めるその所作は、まるで舞うように優雅で――致命的。
ドレスが揺れ、香がかすかに漂う。
そして、ヴァルトの耳元へと顔を傾けた。
吐息が触れそうなほど近く。
「……あなたの“裏での悪行”に、ですが」
言葉は甘く。
刃は冷たく。
ヴァルトの眼が、氷のように凍りつく。
イリスは続けた。
「これは――わたくしだけが知る真実。
ええ、この国で 誰ひとりとして気づいていない“汚れ” を」
「……何の話だ?」
低く、揺らぎのない声。
イリスは微笑む。
その笑みは“知っている者”だけが浮かべられる。
「わたくし、その確認のために"ここ"へ来ましたの。
あなたの企みを、暴くために」
ヴァルトの指が、床を叩くようにわずかに動いた。
それは怒りか、あるいは――愉悦か。
だがイリスは怯まない。
むしろ、軽やかに一歩引いて、
彼の肩についた小さなものを摘み取った。
「まぁ。糸屑がついておりましたわ。
王弟殿下ともあろうお方が、気を付けてくださいませ?」
ごく自然に、優雅に。
だがその仕草は、“あなたを観察している”という宣告そのもの。
イリスは裾を優雅に払って一礼した。
「――改めて、これからよろしくお願いいたしますわ。
ヴァルト殿下」
微笑み。
その裏で、氷のような瞳が光る。
それはまるで――
“わたくしはあなたの敵ですのよ?”
と静かに告げる、戦いの口火だった。
⸻
「……そんなところで、何を話し込んでいる」
背後から静かに落ちた声は、
怒鳴り声よりも鋭く、場の空気を一瞬で凍らせた。
イリスとヴァルトが振り返る。
そこには――
完璧に整えられた礼服のまま、冷たい瞳で二人を見据えているセイランがいた。
王太子の威圧は、喧騒に満ちた大広間の空気すら、ゆるやかに押し退けてしまう。
イリスは穏やかに微笑んだ。
「あら、殿下。
ご挨拶がまだの方がおりましたので……。
まさか殿下の弟君だったとは、驚きましたわ」
「……ああ」
短い返事。
その声は氷のように冷たい。
だがその視線だけは――
ヴァルトを明確に“敵”と認識していた。
(……嫌っているのね、この二人。)
イリスの胸に、わずかな緊張が走る。
セイランはゆっくりとヴァルトへ歩み寄り、低い声で言った。
「お前が大広間にいるとは珍しいな。
陰に隠れて、好き勝手動くのがお前の流儀だろう」
挑発ではない。事実を述べた声。
だがヴァルトの表情に、はじめて小さな影が落ちる。
「いやいや。“晴れ舞台”じゃないですか」
ヴァルトは肩をすくめ、軽快に笑ってみせた。
「義兄上のご婚約。観に来たって、罰は当たりませんよ?」
声は明るい。
だが瞳の奥だけは、底なしの黒が揺れていた。
セイランの眉がかすかに動く。
イリスは二人の間に流れる温度差に気づく。
――この二人、まともに会話が成立しない。
ヴァルトはポケットに手を入れながら、わざと陽気な声を重ねる。
「……いやいやぁ、本当にめでたい日だ。
こんな素敵な義姉さんを迎えるなんて、兄上は幸せ者ですよ」
その色を含んだ「義姉さん」という響き。
イリスの背筋がひやりとする。
セイランの影が一瞬揺れた。
怒りなのか、警戒なのか――判断できないほど静かだ。
「……イリスを巻き込むな、ヴァルト」
セイランの声は低く、
だが一言一言に“殺意に似た拒絶”がこめられている。
ヴァルトはおどけたように片手を挙げた。
「怖い怖い。
兄上は相変わらず、守りたいものには牙を剥くんですねぇ」
そして――イリスへ視線を戻す。
アクアマリンの瞳は、深海のような静けさと、猛毒のような光を宿していた。
「――では、義姉さん。
これからも……どうぞ末永くよろしくお願いします」
言葉は丁寧。
礼も一応ある。
だがその態度は“宣戦布告”そのものだった。
イリスの心臓が、ゆっくりと脈打つ。
セイランもヴァルトも、
それぞれ別の理由で“彼女を手放す気がない”。
その中心に立たされたイリスは、
笑ったまま、決して視線を外さなかった。
そして、三人の間に漂う緊張だけが、
祝宴の熱をゆっくりと冷ましていった。




