ピンクの半分
ピンクのロングティアードスカートに白のレースカットソー、オーバーブラウスにやっぱりピンクのヘッドドレス。
ふわりと揺れる丸いスカートに、私はいつも気分が明るくなる。楽しいのだ。ロリータは見ているだけで楽しい。けれど、着るともっと楽しい。だから私は、ロリータを着る。あくまでも、自分のために。
「みーちゃん、ただいま」
家に帰ると私はそう言ってドアを閉めた。バタンと音がして、私の立っている場所と世界とが隔離された気配がする。私はいつも、自分でこのドアを閉める。
「おかえり」
貢の声が奥から聞こえてきた。今日も機嫌があまりよくない。声でわかる。そんなに嫌なら返事なんかしなきゃいいのに、と思うけれど、実際に返してもらえなかったらきっと私は今以上に悲しむのだと思う。
「みーちゃん、今日はどうだった?」
「多分今回のもだめだ。落ちる。面接なんてサークルのこと質問されて何も答えられなかったしよ」
ガシガシ、と貢は就職活動のために短く切りそろえた髪をかきむしった。スーツを疲れたように着崩していて、なにか私はそれにドキドキした。今更、見慣れたものなのに。
「すぐにやめちゃうからいけないんじゃない。続けてれば楽しかっただろうし、今も役立ってたと思うよ?」
言ってから、しまった、と思う。貢が私の言葉端を捕えようと目をらんらんと光らせているのに気がついたからだ。
貢は舌打ちをして、ゆらりと立ち上がった。
びくり、と体が勝手に震える。私はこれから何が起こるか知っているからだ。でも私は、怯えた表情をしながら、貢が私の元へとやってくるのをじっと見つめていた。
「うるせえよ」
パン、と乾いた音が部屋に響いた。手加減はしているのだとわかっている。でも、慣れたものだといっても痛いものは痛い。けれど私は、何も言わずただ殴られるまま顔を横に向けた。
「されるがままやられてんじゃねえよ。何とか言え」
低く唸られたけれど、何を今更、と思う。こんなこと、もうずっとやっているじゃない。私と貢が、この部屋に住み始めた頃からずっと。
「先輩とかに、相談したら?」
けれど貢はどうにも怒りが収まらない、という顔をして私を睨み続けていたので、私は仕方なく口を開いた。なるべく優しく、ゆっくりとだ。貢の神経を逆撫でてはいけない。
「一年のときに来なくなって、今になって相談だけしに顔出せるかよ」
イライラと貢は言って、顔を逸らし床に座り込んだ。私は息をそっと吐きながら緊張を解く。
何を言っているんだ、と私は思った。図々しいのは、隠しようもないじゃないか。いや、と私は考え直す。むしろ神経質だから、私を殴ることでしかストレス発散ができないのかしら。
いきなりふっと貢は笑った。優しく、甘く、はちみつみたいに。
「瞳美、おいで」
私はふらふらとそれに近寄る。ぽすん、と広い胸に飛び込む。私と違う熱いくらいの体温は、叩くときよりもずっと近くにあたたかく感じる。
「なんでこんな、脱がしにくい服着るんだよ」
スカートに手が差し込まれて、私はそれを手助けするために腰を浮かしながら答えた。
「好き、だから」
ふうん、と気のない返事が返ってきて、私はそれにほっとするのと同時に、なにか悲しくなった。
黒のサンドレスとヘッドドレス、ニーハイソックスを着て、私はゆっくりと貢を振り返る。ぼんやりと機嫌の悪くない顔で、今日の予定は何もない、と言った、今がチャンスだ。
「ねえ、みーちゃん」
「何だ」
服を着ている私をぼうっと眺めていた貢が視線を上げた。私は床に座り込んで貢と目線を合わせる。
「私、犬が飼いたい」
はあ? と貢は不可解そうな声を出した。何を言ってるんだ、と顔に書いてあって、私は急いで言葉を続ける。
「ほら、駅からの道の途中で、ペットショップあるじゃない? 私、ああいうところ見るの好きで、知ってるでしょ? だから、昨日も遊びに行ったのね。そしたら、ロングコートチワワの、生後二カ月って子が、私のことじいっと見つめてね、もう可愛くって可愛くって仕方ないの。私の指ずっと追いかけてくるんだよ? ねえ、あの子飼いたい。飼いたいよ」
貢の部屋着のジャージを握りしめながら、私は必死に訴えかけた。
あの子がいれば、この部屋の空気の何かが変わる気がした。きっとあのつぶらな瞳さえあれば、貢はあんなことをしないで済むのだ。そして私の代わりにあの子がその瞳を持っていれば、きっと貢は優しくなるだろう。
けれど、そんな私に貢は呆れたような顔をして、バカか、と言った。
「そんなもんいたら、殴り殺しちまうわ」
当たり前のように言われて、私は改めてショックを受けた。何が悲しかったのかはわからない。けれど、何かとてつもなく悲しかった。どうしようもない悲しみが、私の胸をどずんと打った。穴が開いたような感覚がした。
結局私は貢の言うとおりにチワワを諦めた。せめて顔だけ見ていよう、とペットショップに通っていたのだけれど、三日目で売却済みの紙が貼られて、四日目にいなくなった。結局こんなものなのだ。世界はいつも私に優しくない。
けれどあの子の顔がいつまでも頭に焼きついて離れないので、私はゲーム機を買ってみた。テレビコマーシャルで子犬が飼えると言っていたので、代わりにと思いついたのだ。画面上を動き回る小さいチワワは、タッチペンで体を撫でると嬉しそうにしっぽを振った。名前はチロにした。昔読んだ絵本のキツネの名前だ。
「なに、それ、そんなに面白いのか」
毎日夢中になってゲームの中のチロを構う私に、貢が後ろからのぞきこみ言った。
「可愛いよ、とっても」
返すと、「じゃあちょっと貸してくれ」と手を差し出す。こんなゲームしたことねえよ、と言いながら、貢は不器用にタッチペンを動かした。私はその大きくて骨ばった手が可愛いと思った。
「あ、お、げ。そっぽ向いた」
最初はもたつきながらも必死にチロを構っていた貢だったけれど、あまりにもチロが振り向かないのでだんだんに不機嫌になっていった。
ゲームの中の犬なのに、チワワはペンを動かしている人が違う人になったのがわかった、のかもしれない。なぜかどんなに貢が奮闘してもチロは懐かなくて、結局不器用な貢が悪いのか、へそ曲りなチロが悪いのかはわからなかった。
八つ当たりで殴られた。いつものことだから別に気にしない。
お兄ちゃんが結婚した。
お兄ちゃんから結婚すると聞かされたとき、私は最後まで反対し続けた。でも結局妹の意見なんかは聞き入れてもらえるはずもなくて、二人は籍を入れた。仕方ないから、という風に招待された結婚式で、私はずっと泣いていた。わんわん泣き続けているからハンカチはぐしょぐしょになったし、マスカラは完全に落ちてパンダみたいになっていた。
一番私をわかってくれた、一番私を愛してくれた、お兄ちゃんが私のものじゃなくなるのだ。誰か違う女のものになるのだ。私は世界で独りぼっちになったような気持ちになった。お母さんもお父さんも貢も、誰もお兄ちゃんの代わりにはなれない。お兄ちゃんは私の愛の全てだった。お兄ちゃんがいたから、私は私でいられたし、こんな私でいてもいいと思えていたのだ。愛してると何度も頭を撫でてくれた、可愛いねとスカートを褒めてくれた、お兄ちゃんがいなくては私はいなかった。
「瞳美、そんなに泣くなよ。俺は幸せになるんだ。瞳美も祝ってくれよ」
やだ、いやだ、と私は白い礼服姿のお兄ちゃんにしがみついた。マスカラがレンタルの礼服に付いて、私はもっとぐちゃぐちゃになればいいと思った。
「お兄ちゃんがどっか行っちゃう。私のお兄ちゃんじゃなくなっちゃう」
お兄ちゃんは困った顔をして私の頭を撫でた。
「そんなことないさ。俺はいつまでも瞳美のお兄ちゃんだよ。いつでも家に遊びに来いよ。薫も俺も、いつでも歓迎するから」
折角の大きなリボンのついた水色のワンピースドレスなのに、袖の端が涙と化粧でべちょべちょになっていた。やっと落ち着いてきたと思ったら、私はそれを見てまた涙が出てきてしまった。
服は私の命なのだ。服があるから私がある。この服を着ているから、私は私を保っていられるのだ。私は色んなものに依存している。お兄ちゃんも、ロリータも、貢も。そんな私の生き方が嫌いで、でも私はこれ以外の生き方を知らない。想像もできない。だからきっと、私が殴られるのはしょうがないのだと思う。
結局私は、式の間中ずっと泣いていた。
私の隣では貢が憮然とした顔をして座っていた。お兄ちゃんと、お兄ちゃんを奪った女に対して上等な挨拶をした後、なぜか家族席に座ってずっと私の頭を撫でていた。貢は外面がいいから付き合いは家族公認で、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも貢のことをよく思っていたから、私の隣の席を空けて招待してくれたのだろう。
でも私は、優しい顔をして私を撫でている貢の機嫌が悪いのに気がついていた。心配そうに眉根を寄せている、その目つきが淀んでいるのだ。いらいらとしているのが気配で伝わって、私はこの後二人の家に帰るのが怖かった。誰かに気付いてほしくて、でも気付いてほしくなかった。貢が加害者になるのが耐えられなかった。私の貢を奪ってほしくなくて、でもそれ以上に貢に傷ついてほしくなかった。
誰も私たちを見ないでほしい。
私はそう思って、ただひたすらハンカチを濡らし続けていた。
お兄ちゃんが結婚して、私は何も気力が起こらなくなってしまった。大学に行っても少し注意されただけで泣いてしまうし、家ではぼうっと窓の外を眺めていた。小さな空は、晴れ渡っていても灰色に見えた。私の感情の色だ、と思って、私はますます悲しくなった。
「瞳美、いい加減にしろよ」
貢が苛立ちを隠さずに言った。座り込んでいる私の目の前に立っていて、私はその顔をゆっくりと見上げた。
「料理、作らないのかよ」
私は結婚式があった日から、何も喉を通らなくなった。食欲がないと、食材を見ただけで気持ちが悪くなる。貢はここ数日、一人きりでコンビニ弁当を食べて過ごしていた。
「なんにも食べたくない」
「でも俺は腹が減るんだよ」
貢は舌打ちをして、それからぐいっと私の胸倉を掴んで引き起こした。パアン、と頬を張られた。いつもより痛かったけれど、私は黙っていた。貢は怒鳴るように唸った。
「そんなに兄貴が大事かよ。ムカつくんだよ」
なにを言っているんだろう、と私は思った。意味がわからなかったのだ。私が相当な、過剰なほどのブラコンだということは貢も前々から知っているはずだ。お兄ちゃんを紹介したときに、呆れた顔をして溜め息をついたのを覚えている。それがいきなり、どうしたというのだ。お兄ちゃんが大事だと、私が泣いてばかりいるのが腹が立つのだと。つまり貢はなにに怒っているのだ。
「てめえが一番に考えなきゃいけねえのは俺だろうが!」
ついに怒鳴った貢の言葉に、浮かんだのは怒りだった。
パン、と私は胸倉を掴んでいる貢の手を振り払った。
「みーちゃんのバカバカバカ!」
叫んだら、もう止まらなくなってしまった。
「なにお兄ちゃんに嫉妬なんかしてるの! お兄ちゃんが好きなのはしょうがないじゃない! みーちゃんよりずっとずっと長く一緒にいるんだもの!」
貢は目を見開いて私の顔を見つめていた。
叫んでいたら、私の口は勝手に動き出した。
「それに、ど、どうして殴るの! 殴らなくたってわかるよ! こっ、子供や犬じゃないんだから!」
私はついに言ってしまった。もう自分では何を言っているのかわけがわからなかった。完全に頭はオーバーヒートしていて、唇の動きが自分で制御できなくなっていた。
「いっ、痛いんだからね! みーちゃんに叩かれるの、すっごい痛いんだからね! 男が女に手を上げるなんて最低だよ! わ、私がなに着ようがいいじゃない! ロリータ楽しいんだからいいじゃない! お兄ちゃんが一番好きなんだから、それでいいじゃない! 私には精神安定剤が必要なの! それがどんな形だろうが、私がそれがいいって言ってるんだからそれでいいじゃない!」
最後には本当に言いたいことの羅列だった。溜まっていた感情たちが、行き場のなかったはずが出口を見つけてしまったからだ。
ぜえぜえと私が大きく肩を揺らしながら息を吐いていると、貢は悲壮な顔をして手で顔をおおっていた。
そうだ、思い知ればいい。私がどんな思いでいたのか。やっとやっと、思い切り思い知ればいいんだ。そして思い切り後悔して、死にたいほど悔いればいい。
「……ごめん。ごめん、瞳美」
しばらくの沈黙の後、貢は振り絞るように呟いた。がらがらと掠れていて、私には貢がこれ以上なく緊張しているのがわかった。
私が顔を上げると、貢は私から顔を逸らし、じっと壁を見つめていた。その顔は、後悔というよりも壮絶な悲壮感が漂っていた。
「別れよう、俺ら」
言われた言葉に、私は世界が真っ白になった。体が勝手に動いた。
パアン。貢の頬で音がした。私の右手が、貢の頬を叩いていた。貢は呆然として、私を振り返った。爪痕が残っている頬に、私はなおさら感情が込み上げてきた。
「そんなことが言いたいんじゃないの」
私は呟いて、我慢していた涙がついにぽろぽろとこぼれ出すのを止められなかった。貢はそろそろと私の頬を拭いながら、ずっとごめんと謝っていた。
天気のいい午後。私と貢は一緒にショッピングをしていた。ピンクのジャンパースカートに白の帽子をかぶって、貢と手をつないでいた。
「みーちゃん、ほら、これ可愛い」
レースエプロンを手に取ると、貢は笑って返した。
「俺にはわからねえよ」
そう、と私も笑って、「じゃあ今度美幸ちゃんと来る」とその場を離れた。
参道を歩いていると、ダックスフントを連れている人とすれ違った。じっと、貢がそれを見つめているので、私は尋ねた。
「みーちゃん、犬飼う気になった?」
それで貢は気がついたようだ。苦笑のように笑った。
「カウンセリングにも行ってるのに、本物の世話する根性ねえよ」
でも、と続けるのを、私はその唇がゆっくりと動くのを、セクシーだと思いながらどきどきして見つめていた。
「ゲームのチワワ、あれで十分じゃねえか。あいつ、可愛いよな」
私は嬉しくなって、そうだね、と大きく笑い返した。
了
暴力男とロリータ女、の依存し合って、ラストまで変わらない関係。
というものを書きたかった。