君の英雄になりたい
冒険者だった。英雄に憧れた。
仲間と過ごした日々は楽しかった。だが強敵との戦いで仲間は全て失われ、自分だけが生き残った。片足を欠損し、勇者に救われ実力差を知った、俺は英雄になどなれないと知った。
もう二度と冒険をするつもりはない。
ふと脳裏によみがえる――子供の頃、憧れながら耳を傾けた吟遊詩人の歌声。
俺は吟遊詩人になることにした。
竪琴を爪弾き、声を張り上げる。
だが酒場の空気は冷たかった。客たちは酔いに任せて騒ぎ、俺の歌に耳を貸す者はほとんどいない。
「なんだあの声は、ひどいな」
「下手くそだ! 酒の味がまずくなるわ!」
罵声が飛んできて、胸の奥が冷たくなる。
誰かが投げた銅貨が床を転がり、靴の先に止まった。投げ銭じゃない、俺を笑うための餌だ。
乾いた笑いが四方から突き刺さる。
――やっぱり無理なのか。
剣も振れない、歌も駄目。
竪琴を抱え直した指が、わずかに震えていた。
宿の部屋に戻ると、薄暗い灯りと硬いベッドが迎えてくれるだけだった。
袋の中身を確かめる。銅貨が数枚、指で弾けば軽い音しかしない。とても食事には足りなかった。
腹が鳴る。
空っぽの胃が、情けなくも声を上げる。
目を閉じれば、酒場での罵声が甦る。
「下手くそだ!」「やめろ!」
笑い声と共に押し寄せてきて、胸の奥をえぐった。
――歌じゃ稼げない。冒険者にも戻れない。
じゃあ、俺はいったい何者なんだ。
――明日は、別の場所でやってみるか。
人通りの多い広場なら、少しは耳を傾けてくれるかもしれない。
そう思い込むことでしか、自分を慰められなかった。
暗闇の中で竪琴を抱きしめ、ただ腹の痛みに耐えたながら眠りについた。
翌朝、街の広場に立った。
竪琴を抱え、息を整える。昨日の酒場での罵声が胸をよぎる。だが、今日こそはと弦を鳴らした。
声を張り、旋律を紡ぐ。
けれど通りを行く人々は、やはり誰も足を止めなかった。
――駄目だな。
腹の底から嘆息が漏れる。もう今日は終わりにして宿へ戻ろう。
そう思って背を向けた時だった。
「……きれいだった」
不意に声がかかった。
振り返ると、奴隷商の店先に置かれた鉄格子の檻。その中に少女がいた。
粗末な布を纏い、足首には鉄の輪。奴隷であることは明らかだった。
だが、その背筋はまっすぐに伸び、目は濁りひとつなく澄んでいる。
鎖につながれながらも、決して屈しない芯の強さを漂わせていた。
少女は短く言った。
「きれいな歌だったわ」
ただそれだけの言葉だった。
だが俺の胸には、誰よりも重く響いた。
あの一言が胸に残っていた。
だから翌日も、またその翌日も、俺は奴隷屋の前に立ち、竪琴を弾いた。
最初は声が震え、指もぎこちなかった。だが繰り返すうちに、少しずつ調子が掴めていった。
音は伸び、言葉は旋律に乗り、やがて足を止める人も現れる。
小銭が投げられた。嘲笑じゃない、本物の投げ銭だ。
銅貨の数は日を追うごとに増え、気づけば稼ぎは宿代と食事を賄えるほどになっていた。
――あれ以来、少女と言葉を交わすことはない。
鉄格子の奥で彼女がこちらを見ているかどうかもわからない。
けれど、あの「きれいな歌だった」という声が、今も俺を支えていた。
その日も竪琴を弾き終え、汗をぬぐっていた時だった。
奴隷屋の店先、客寄せのために檻の外へ連れ出されたのだろう、少女が通りに立たされていた。
首には鎖、手首には鉄環。だがその姿はやはり惨めではなく、芯の強さを帯びて見えた。
視線が合う。
少女は小さく笑った。
「……少し、上手くなったね」
不意に声をかけられ、心臓が跳ねる。
喉が乾いて、やっとのことで言葉を返す。
「……ああ。お前が、あの日……そう言ってくれたから、かもな」
少女は目を細める。
「歌ってる時の顔、悪くないよ。今の方がずっと」
鎖に繋がれたまま、屈託なく笑うその姿に、胸が熱くなった。
もっと歌いたい。もっと聴かせたい。
――そして、いつか彼女をこの檻から解き放ちたい。俺は気づけば、檻の前に立っていた。
彼女はいつものように鎖につながれ、静かに俺を見ている。
言葉を探すように視線を泳がせ、やがて口を開いた。
「……俺は、昔、冒険者だった」
少女の瞳がわずかに揺れる。
「仲間と戦って……でも、みんな死んじまって。俺だけが生き残った。片足も、もうない。剣も振れない。……だから、こうして歌ってる」
胸が詰まった。だが、言わずにはいられなかった。
「けどな。お前が褒めてくれたから……また立ち上がれたんだ」
少女は無言で聞いていた。その瞳はやはり強く、揺るぎなかった。
俺は檻に手をかけ、低く、だがはっきりと告げた。
「――お前は、俺が買うよ」
「……え?」
「だから、俺の横で……ずっと俺の歌を聴いててくれ」
少女の目が見開かれた。
驚きと、信じられないような戸惑いと――けれど確かに、そこに一瞬だけ光が差した気がした。
それからの日々、俺は今まで以上に真剣に歌った。
一曲一曲に、魂を込めた。
声が枯れそうになろうと、指先が血でにじもうと、竪琴を離すことはなかった。
稼ぎはまだ僅かだ。それでも銅貨の音は少しずつ増えていく。
投げ込まれる小銭を握りしめるたび、俺は思う。
――必ず、あの子を買う。俺の隣で、ずっと歌を聴いてもらうんだ。
朝が来て、歌い、夜が来て眠る。
そんな日々が幾度も巡り、季節が少しずつ移り変わっていった。
袋の中の小銭を数えた。
何度も、何度も数え直した。
足りる。今度こそ、本当に足りる。
胸が熱くなり、手が震えた。
長い日々だった。罵倒され、空腹に耐え、それでも歌い続けた。
すべては、今日この日のためだった。
「……待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
竪琴を背に、金を握りしめ、俺は奴隷屋へ向かった。
通りを歩く足取りは自然と早くなる。
今日であの鎖を断ち切れる――俺はあの子だけの英雄になるその思いだけが胸を満たしていた。
息を弾ませながら奴隷屋に辿り着いた。
だが、そこに彼女の姿はなかった。
代わりに帳簿を閉じる店主が、にやにやと笑いながら告げる。
「遅かったな。ちょうど、いい買い手がついたところだ」
血の気が引いた。
「……誰に」
問いかけた声は震えていた。
店主は肩をすくめ、通りを指さす。
人混みの先、豪奢な馬車へ連れられていく少女の姿。
足首の鎖が鈍く光り、少女は振り返ることもできずに引きずられていた。
その手を握るのは、噂に名高い悪徳の貴族。
酒と女に溺れ、欲望のままに人を物のように弄ぶ――そんな話を幾度も耳にした男。
その男の太った手が、少女の肩を乱暴に掴み、馬車へと押し込んだ。
頭の奥で何かが弾ける音がした。
足の震えも、胸のざわめきも、すべて怒りに飲み込まれていった。
どうやって宿に戻ったのか、まるで覚えていない。
気がつけば、埃をかぶった冒険者時代の愛刀を手にしていた。
刃は鈍り、鍔には錆が浮いている。それでも、この手に握った瞬間、胸の奥の血が沸き立った。
――奪わせはしない。
夜の帳を裂いて、俺は悪徳貴族の屋敷へ駆けた。
門前に立つ兵士を突き飛ばし、叫び声と共に鉄門を押し破る。
剣が軋むほど力を込め、屋敷の中へと踏み込んだ。
しかし次の瞬間、押し寄せる兵たちに四方を囲まれた。
声を荒げて斬り込むが、片足の身体は思うように動かない。
鎧に弾かれ、腕を掴まれ、背後から押さえつけられる。
地に叩きつけられ、剣が手を離れた。
無数の足が肩と背を押さえ込み、俺は無惨にも地に伏した。
「放せぇ……! あの子は……俺が……!」
叫びは夜にかき消され、やがて冷たい鎖が両手を縛った。
裁判は呆気なかった。
俺に与えられたのは、実刑五年。鉱山での強制労働。
薄暗い坑道で岩を砕き、粉塵を吸い、汗と血にまみれる日々が始まった。
片足を失った体にとって、労働は地獄だった。背中は軋み、肺は焼けるように痛んだ。
それでも休めば鞭が飛ぶ。生き延びるには、ただ黙って鎚を振るうしかなかった。
――五か月が過ぎた頃だ。
同じ鉱夫たちの噂話が耳に入った。
「聞いたか? 勇者があの悪徳貴族を討ったらしい」
「奴隷も全部解放したそうだ」
鎚を振るう手が止まった。
胸の奥が冷たくなる。
……俺が命を賭けてでも救いたかったはずの少女を、救ったのは勇者だった。
自分の無力さが、鉛より重く肩にのしかかった。
俺のしたことは、無謀な突撃と捕縛。それだけだった。
彼女を守るどころか、遠くの鉱山で朽ちていくしかない俺に、何の意味があるというのか。
五年の鉱山暮らしを終え、ようやく街に戻った。
錆びついた体に鞭の跡、顔は煤と汗に焼けただれている。それでも――生きて帰ってきた。
だが街は俺を迎えるより先に、別の歓声で沸き立っていた。
勇者が、魔王軍の四天王を討ち果たし、凱旋するのだ。
通りは人で埋め尽くされ、旗が翻り、歓声が轟いていた。
そして黄金の馬車の上、堂々と立つ勇者。その隣には……見間違うはずのない姿があった。
――あの少女。
鎖も鉄環もなく、誇らしげに笑っていた。
眩しいほどの笑み。勇者の仲間として、世界から祝福を受けている笑顔。
胸が軋んだ。
けれど、不思議と涙は出なかった。
幸せそうでよかった――そう思えた。
俺は雑踏から抜け出し、歓声を背に静かな路地へと消えた。
もう彼女の前に現れる資格はない。
剣を握る手が痺れている。
目の前の巨躯――魔王軍四天王の一人。圧倒的な力が大地を揺らし、息をするだけで全身が軋む。
それでも、私は退かない。
勇者様と仲間たちと共に、ここまで歩いてきた。
鎖に繋がれていたあの日から、ずっと信じてきた道だ。
渾身の一撃を放つ。
けれど敵の腕に弾かれ、体が宙を舞う。
土に叩きつけられ、肺から息が漏れる。
視界が揺れ、剣が手を離れて転がっていく。
膝を立てようとしても力が入らない。
目の前に迫る影、振り上げられた巨大な刃。
――ああ、ここまでか。
仲間たちに迷惑をかけることだけが、最後の悔い。
でも、もう立ち上がれない。
死を覚悟し、私は瞼を閉じた。
その時だった。
風を裂くような音と共に、影が割り込んだ。
「――下がれッ!」
義足を軋ませ、片足の剣士が巨刃を受け止めていた。
その顔を見た瞬間、私は息を呑む。
忘れるはずのない人――あの日、歌をくれた人。
轟音と共に、彼の身体は吹き飛ばされた。
地を転がり、血を吐き、なおも立ち上がる。
「まだだ……!」
剣を杖に、義足を引きずりながら巨体へ食らいつく。
再び叩き伏せられ、また立ち上がる。
骨が軋み、全身が血に染まっても、その背中は揺るがない。
――なぜ。
どうして、そこまでして。
胸が震えた。涙が滲んだ。
彼は何度やられても、倒れることを許さなかった。
だが――そんな執念も、いつまでも続くものではなかった。
義足の剣士は何度も立ち上がり、巨体に斬りかかった。
だが刃は砕け、腕は震え、血に濡れた体はついに膝をついた。
「……っ、ぐ……」
地面に崩れ伏す。
四天王の巨刃が振り上げられ、止めの一撃が迫った、その瞬間。
「そこまでだ!」
凛とした声が響き、眩い光が戦場を裂いた。
勇者が現れた。
次の瞬間には、世界が変わっていた。
剣と剣がぶつかる轟音。
速さも力も、すべてが別格だった。
四天王の一撃を正面から受け止め、返す刃で深々と切り裂く。
「ぐおおおおおっ!!」
巨体が揺らぎ、膝を折り、崩れ落ちる。
圧倒的な力の差。
勇者の剣は迷いなく、四天王を打ち倒した。
四天王が地に沈んだ後、勇者が駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」
震える手で俺の体を支え、必死に呼びかける。
だがもう、身体の奥から熱が抜けていくのを感じていた。
「……チッ……おせぇんだよ」
唇を血で濡らしながら、俺は笑った。
勇者の顔に驚きと悔しさが浮かぶ。
「……聞け、勇者」
途切れ途切れの声を絞り出す。
「……あの女を……二度と悲しませるな……泣かせるな……笑顔を……絶やすな……」
勇者は真剣な眼差しで頷いた。
涙に濡れた少女が俺の名を呼ぶ声が遠くで響く。
――けっきょく俺は、最後まで彼女を守る英雄にはなれなかったな。
そう思いながらも、胸の奥には不思議な満足があった。
少なくとも今、俺は彼女を守るために剣を振った。
その事実だけを抱きしめ、俺は静かに目を閉じた。
夜更け。
柔らかな月明かりの差す寝室で、女は小さなベッドの脇に腰掛けていた。
「ほら、もう遅いわ。早く寝なさい」
「だって……眠れないの」
布団に潜り込んだ娘が、甘えるように目をこすった。
女は小さくため息をつき、髪を撫でてやる。
「仕方ない子ね……じゃあ、お話をしてあげる」
「なにのお話?」
「英雄の話よ」
娘の瞳がきらりと光る。
「それって……パパのこと?」
女は一瞬、目を伏せ、やがて静かに首を振った。
そして優しく微笑み、囁く。
「いいえ……私だけの英雄の話よ」