湯船の私
「は?」
鏡の前で、思わず声が漏れた。
湯船に入ろうとしたその瞬間だった。浴室の明かりの中、湯面に映る影が“先に”沈んでいったのだ。まだ足を入れてもいないのに――まるで私がそこにもう浸かっていたように。
湯気か、錯覚か。
そう思って目をこすり、改めて見ると、そこには何もなかった。ただの湯船。誰もいない、静かな湯面。
「……疲れてるのかな」
その日は残業で帰宅が遅く、夕食も取らずに風呂を沸かした。湯気に包まれながら湯に浸かると、じわりと疲労が溶けていくようだった。
でも、あの違和感は消えなかった。
翌日もまた、“それ”は現れた。
この日は明るいうちに風呂に入った。浴室の光が淡く湯面を照らす。私は服を脱ぎ、湯船に足をかけようとした――
そのときだった。
湯の中に、私がいた。
髪の毛も体の線も、完全に私。目を閉じ、深く沈み、じっと動かない。湯面は静かで、波一つないのに、影だけが鮮明だった。
「……」
私は立ち尽くした。全身に汗が浮かぶ。湯気とは違う、粘りつくような嫌な湿気。なのに、背筋が冷たく、手足がふるえていた。
それでも目を離せなかった。
湯の中の「私」は、ふと目を開けた。
――こっちを、見た。
次の瞬間、心臓が跳ねた。影の私が、笑ったのだ。口の端をほんのわずかに上げ、嘲るように微笑んだ。
私は裸のまま、風呂場から飛び出した。
それ以来、風呂に入るのが怖くなった。シャワーで済ませる日々が続いたが、数日もすると、体が限界を訴え始める。眠りも浅くなり、幻聴のように風呂の音が聞こえることさえあった。
そして一週間後の夜。
意を決して、再び湯を張った。
「今度こそ、幻覚だって証明する」
浴室に入り、ゆっくりと湯船に近づく。目を凝らしても、そこには誰もいない。ただの透明な湯。鏡にも、自分の姿しか映っていない。
意を決して、湯船に足を入れた。
――が、その瞬間。
「ザバァッ!」
何かが湯の底から這い上がった。濡れた腕、長い髪、そして――私の顔。けれど、その顔は異常だった。目が落ちくぼみ、唇は血のように赤く、口角が裂けるほどに歪んでいる。
それは、もう一人の“私”だった。
「返して」
低い声が、響いた。
「返して……ここは、わたしの場所……」
私は叫んだ。だが音は浴室の壁に吸い込まれ、響かない。
影の“私”は湯の中から完全に這い上がり、私の身体を掴んだ。
「返して。代わって。あなたはもう……いいの」
その顔が、ぐにゃりと笑った。
気づくと私は、湯の中に沈んでいた。
体が動かない。叫びも声にならない。湯の中で見上げる天井には、もう一人の私がいた。
笑いながら、湯船から出ていった。
鏡に映るその顔は――私のままで、私ではなかった。
⸻
翌朝
会社の同僚からの電話に出た女は、何事もなかったように答えた。
「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れてたみたい」
鏡を見ながら髪をとかし、口角をゆっくりと引き上げる。
その笑顔は完璧だった。
けれど、風呂の湯の底にはまだ――
もう一人の“私”が、泡を吐きながら、目を見開いて沈んでいた。