ハッピーエンドなんて、きっと神様が許さない
「あのね……聞いて欲しいことがあるの」
それはいつもの帰り道。
ぎゅっとセーラー服を引っ張られて、私の足が止まった。地面に落ちる鮮やかな黄色の銀杏から目を離し、斜め後ろでうつむく優香を見る。
「どうしたの?」
「あのね、」
「うん?」
彼女のリンゴのように赤い唇がパクパクと動き、そして、きゅっと閉じた。
垂れ下がった眉に、潤んだ瞳。
何かを言いにくいことがあるのだ。
そう理解した私は、くるりと体を回転させて、優香の白く細い左手を両手で包む。
優香が言い淀むときは、私が彼女の手を握る。それは、小学五年生のときから続く、私たちの決まり事のようなものだった。
そっと触れた彼女の手は、柔らかいのに冷たい。
優香の白雪を思わせる頬はほんのりと赤く染まり、小柄な体が微かに震えている。
「寒い?」
「ううん……違うの。あのね、凛。私、凛に謝らないといけないことがあるの」
「謝らないといけないこと?」
何かあっただろうか。私は目を閉じて上を向く。優香に対して後ろめたいことはあっても、謝られる覚えはない。
幾許かの空白。
記憶の棚を整理して、やっとひねり出せたのは、たった一つだった。
「もしかして、夏休み前に貸した漫画のこと? 気にしてないし、まだ返さなくても良いよ?」
一瞬ハッとしたような表情をした優香は、すぐに顔を伏せて、頭をフルフルと横に振った。膨らんだ胸に掛かる柔らかな髪の毛がふわふわと揺れる。
その様子だと忘れていたな。思わず苦笑がもれる。
しかし、漫画じゃないとすると、なんだろう。本格的に思い当たる節がない。
秋の風が頬を撫で、その冷たさでブルッと体が震える。
『秋の日はつるべ落とし』と言う通り、学校を出た時にはまだ明るかった空は、燃えカスのように黒ずみ始めていた。
このまま、ここで立ち往生しているわけにもいかない。私は、握ったままの柔らかな手にそっと力を込めた。
「全然分かんないけど、私が優香に怒ることなんて何も無いんだから、言って?」
「……うん。あのね」
「うん」
優香が顔を上げる。柔らかな茶色の瞳が私をとらえる。
「彼氏が、出来たの」
優香の言葉が脳内でリフレインして、私は真っ白な空間に突き落とされる。
世界に取り残されたような孤独。
心臓がバクバクと音を立てて、息の仕方さえ思い出せない。
足元が崩れそうになるのを、グッと堪えて、深呼吸。
ああ、ダメだ。聞いてはいけない。聞きたくない。おめでとうって言わないと。
わかっている。わかっているのに、私の意思に反して、私の口が勝手に開く。
「……彼氏って」
「うん。三組の白崎晴翔くん」
私の体が電信柱のように硬直していく。手先が冷える。予想はしていたはずの答え。
それなのに、言葉が出なかった。
「ごめんね……」
優香が泣きそうな顔で、私を見上げている。
目尻には涙が浮かび、大きな目がひときわ艶めく。
「……どうして、優香が謝るの?」
「だって、凛も好きなんだよね? 晴翔くんのこと……」
「……なんで」
「だって、よく話しているでしょう? それに、よく見ていたよね、晴翔くんのこと。凜は何も言ってくれなかったけど、分かるよ。凜の一番の友達は私だもん。だから、私も最初は断ったの。凛の好きな人だから。でも……」
スッと視線が下がる。
その大きな瞳には何が映っているのだろう。
明らかな現実逃避なのは自分でもわかる。私は今度は間違えないように、相槌を打つように応えた。
「好きに、なっちゃったんだね」
「……うん」
「仕方ないよ。好きになるのはさ、理性じゃないもん。だから、気にしないで」
「でも」
「それよりも、いつから付き合っていたの? 全然、気が付かなかったよ」
「……昨日から」
「昨日からか。やるね、白崎くん」
「本当にごめんね、凜」
「なんで優香が謝るの? 謝らないでよ」
パッと優香から手を離して、私は無理やり笑う。
ああ、また告白することすら出来ない。
愛らしい瞳を伏せ、私のセーラー服をぎゅっと掴んだまま離さない優香の手にそっと触れる。彼女の拒絶を表わすように、制服の皺が濃くなった。
「優香」
思ったよりも冷たい声に自分でも驚いた。でも、ごめん。今は離して欲しかった。
ビクリと震えた白い手が、名残惜しそうに離れる。
私はもう一度笑みをつくって、優香に背を向けた。
「もう暗くなるから、帰ろう」
歩き出した私の後ろを、肩を落とした優香が俯きながら付いてくる。力のない足取り。付かず離れず、私と一定の距離を保って。
冬を知らせる風の音が。
落葉の触れ合う音が。
優香の歩く音が。
やたらと私の心をざわつかせる。
「……ねえ、凜。本当に怒ってない?」
小さく、頼りない声。
「怒ってないよ」
私は努めて、いつも通りを装う。
「本当に……?」
「うん」
「そっか……」
居心地の悪い沈黙。背中がぴりぴりする。優香の心が伝わっているみたいだと考えて、思わず苦笑する。
私の気持ちが分からないように、優香の気持ちなんて分かるわけがないのに。
「明日さ」
「うん?」
「焼き芋、食べに行かない?」
「焼き芋?」
「そう、焼き芋。昨日、近所の八百屋さんがさ、焼き芋を売り始めてたんだよね。優香、あつあつの焼き芋好きでしょう?」
顔だけ振り返ってニッと笑うと、目をぱちくりとさせた優香が目に入った。
それから、ゆっくりと花がほころぶように、彼女はふわりと微笑む。
「覚えていてくれたんだね」
「当たり前でしょ。大事な大事な友達だもん」
「ふふふ。嬉しい。うん。明日、行きたいな」
優香が少しだけ赤く染まった目を細めて、嬉しそうに笑った。
思わず見惚れるほどに、可愛い、可愛い女の子。
大きく、一歩。優香が私に近寄って、均衡が崩れる。手を伸ばせば体に触れる距離。
私の目の前に白い華奢な小指が突き出される。
「約束、しよう?」
意図なんてない、上目遣い。これが計算じゃないことなんて、私が一番知っている。
本当に、敵わない。
私は苦笑しそうになるのを堪えて、「うん、約束」と、いとも容易く折れそうな指を絡ませた。
指切りの歌を小さく歌った優香が嬉しそうに指を切る。
「凜」
「うん?」
「大好き」
にっこりとする彼女に、私はただただ笑い返すことしか出来なかった。
*
「ただいま」とだけ言うと、リビングに顔も出さずに階段を駆け上がった。
自室の部屋に飛び込み、制服のままベッドにダイブする。スカートのひだに変な皺が付くことなんて、気にしていられなかった。
手を伸ばして、枕の横に座るテディベアを引き寄せる。お腹に顔を埋めれば、少し固くなった毛がチクチクした。
「ついに現実になっちゃったよ、クマ助」
情けない自嘲気味な声が口から漏れる。もはや悲しいと言う気持ちは無い。むしろ、どこかホッとしていた。
想起される記憶は、小学五年生の時から。
「西田くんって、足も速くてカッコいいよね。優香にもたくさん笑いかけてくれるんだよ。なんか好きになっちゃいそう」
そう話して一年後。優香の好きな人は、変わっていた。
「委員会で一緒の秋本くんがね、凄い優しいの。この間なんて、優香の代わりに本を片付けてくれたんだ。見てるとドキドキしちゃうし……これって、恋なのかな」
その思いも小学校を卒業すれば、別な人に移った。
「凜、知ってた? 大橋くんってね、笑うとえくぼが出来るんだよ。それがすごく可愛いの。なんか気になっちゃうよね」
それからまた一年。この頃には、私も上手く相槌を打てるようになっていたと思う。
「この間、加藤くんに数学を教えてもらったんだけどね、凄い分かりやすかったんだ。加藤くんって背が高いし、頭も良いよね。加藤くんの好きな人って、誰なんだろう」
そうして、現在、高校受験を控えた中学三年生。
些細なきっかけで、毎年毎年、飽きもせず更新されていく彼女の好きな人。
そのどれもこれも、私がよく喋る人だった。
優香は可愛い。
華奢で小柄な体に、ふわふわのストレート髪。クルンと長いまつ毛がパッチリとした目を縁取り、話す声はミルクティーのように甘い。
神様が、『女の子の可愛いと言うものを全部詰めたら優香になった』と言っても驚かないと思う。それくらいに、彼女は私の理想の女の子だった。
私はクマ助から頭を離して、グッと顔を付き合わせる。
「私だって、良いと思わない?」
まん丸の茶色ガラス玉には、つり目をしたショートカットの少年にも見える人間が映っていた。
「やっぱり、私じゃダメなのかな」
ため息をこぼして、自分の硬い髪の毛をつまむ。
優香の引き立て役と男子に言われることもあった。でも、そんなことはどうでも良かった。
テディベアごとぐるりと転がり、仰向けになる。
手をグッと天井に伸ばして、パタンと勢いよく下ろした。目を閉じると、誰かの声が聞こえる。
『優香ちゃんは、凛ちゃんが好きな男子を好きになるよね』
そう言った子の顔を、私はもう覚えていない。ただ思い出せるのは、あの時の優香が今日と似たような顔をしていたことだった。
私はクマ助を胸に抱いて体を起こす。
「優香が誰を好きになるかなんて、自由じゃない……」
ぽろりと涙が流れた。
慌てて、クマ助のお腹で拭う。いつだって、自分にそう言い聞かせてきた。それなのに、今日はポロポロと涙がこぼれて止まらない。
「また、選ばれなかったよお。どうして、私じゃダメなんだろう」
どんなに練習しても、えくぼは出来なかった。
運動部の男子ほどじゃなくても、速く走れるようにもなった。
優香にはいつだって優しくしているし、いつ何を聞かれても答えられるように勉強もしてきた。今では、テストをすれば学年十位以内には必ず入る。
かっこよく見えるよう、伸ばしていた髪もショートカットにした。
出来る限りの努力も欠かさなかった。
ただ、背は伸びなかったけれども。
「小五の時からずっと、私は優香だけなのに。優香しか好きじゃないのに」
小学四年生の終わりに転校をして、学校に馴染めない私に、誰よりも優しく、誰よりも笑いかけてくれたのは優香だった。
誕生日にクマ助をくれたのも。
毎年、欠かさずに祝ってくれたのも。
いつも、いつだってそばにいてくれたのも優香だけだった。
私が好きだと思われていた男子は、みんな優香が好きだった。彼らと話していたのは、全部、優香のこと。共通の話題が合ったから仲良くなれた。
もちろん彼らは、私が優香を恋愛的な意味で好きだとは思っていなかったと思う。
それでも、これまでは牽制が功を奏していたと言うのに。
「白崎のバカヤロー! 絶対に許さん!」
涙が止めどなく落ちる。もう、クマ助のお腹はびしょびしょだった。
仕方なく目をゴシゴシと制服の袖で擦れば、引き攣れるような痛みが走る。
痛い。
「痛いよ、クマ助」
顔が痛いのか。心が痛いのか。
私には、もう分からなかった。
*
「おはよー、優香」
「おはよう、凜……って、どうしたの、その目」
黒板に先生からの連絡事項を書いていた優香が慌てたように、小さな両手で私の頬を包んだ。手の温かさと気恥ずかしさで、顔が熱くなる。
心配そうな優香の瞳には、腫れぼったい目をした私が映り込んでいた。彼女の愛らしい顔が次第に歪んでいく。
「もしかして、私のせい……?」
「まさか。違うよ。昨日、泣ける小説を読んだだけ」
「本当に?」
「本当、本当」
「嘘ついてない?」
「私が優香に嘘を吐くわけがないでしょう?」
ニッと頬を上げると、優香が少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
ああ、やっぱり優香には笑っていて欲しい。私は彼女の笑顔が一番好きなんだ。だから、私の醜い心なんて知らなくて良い。
「まあ、でも、こんなんだからさ。焼き芋を食べに行くのは、やめておくね。それによく考えたら、付き合いたてのカップルの邪魔したくないしさ」
「え、どうして?」
「どうしてって、普通は付き合ったら一緒に登下校とかするんじゃないの?」
「え?」
「え?」
微笑みが一転して、整えられた眉が下がる。
「もう、凛は私と一緒に帰ってくれないの?」
「いや、別に私は一緒に帰っても良いけど……。でも、彼氏が出来たら、彼氏を優先するもんじゃないの? 私の周りは、結構そういう女子が多かったけど」
「そうなの?」
「うん」
優香の朱唇がキュッと引き結ばれ、彼女の眉間に小さな皺が寄った。
どうしたんだろう?
私が首を傾げていると、優香がくるりと背を向けた。スカートとセーラーの襟がひらりと宙を舞う。
「私、別れてくる」
「え?!」
「だって、凛と一緒に帰れないなら、彼氏なんていらない!」
そう言うが早いか、彼女はクラスを飛び出して行った。
「ウソでしょ?」
思わず大きな声が出た。慌てて口元を押えるも、時すでに遅し。
クラスメイトの視線が自分に集中するのが分かる。
私は平静を装って、何事も無かったように自分の席にバッグを置いた。
優香の好きって、その程度だったの?
なんで付き合ったの?
彼氏よりも、私と帰る方が大事ってこと?
カバンから本を取り出しながらも、私の脳内ではぐるぐると思考が巡る。巡りきれずに絡まって、最後に行き着いたのはたった一言だった。
白崎、ドンマイ!
本を開いて、そっと顔を埋める。
紙とインクの匂いが心地良い。
「本当、小悪魔」
そう言って、ふと思う。優香が小悪魔なら、自分はなんなのだろう。
人の不幸を喜んでいるのだから、悪魔かも知れない。
ハッピーエンドなんて、きっと神様が許さない。でも……
「やっぱり、諦められないんだよね」
「何が諦めらんないの?」
パッと顔を上げると、隣の席のクラスメイトが不思議そうな顔をしていた。
「ううん、なんでもない」
「ふうん? なんか、めっちゃ嬉しそうな顔をしてるけど。てか、目、ヤバくない?」
「昨日、小説で感動しちゃってね」
私は曖昧に笑って誤魔化して、時計を見た。
もうすぐ朝のホームルームの時間になる。それまでには、優香も帰ってくるはずだ。
そしたら、いつものように私が「おかえり」と言って、彼女は「ただいま」と返すのだろう。
今日もいつも通りの一日が始まる。
私たちは何も変わらない。
ただそれだけのことなのに、私はどうしようもなく嬉しかった。
*
(後日談)
いつも通りの帰り道。
私は、気になっていたことを優香に聞いてみた。
「ねえ、白崎くんのどこが好きだったの?」
「え!? うーん……優しいところ? あと、つり目のところかな」
「へえ、そっか。優しいところとつり目、ね……」
その項目なら、私だってクリアしているじゃん!
それなら私でも良くない?!
そう思ったけれども、もちろん口には出さなかった。