第182話 積み上げてきたもの (2)
心に澱んでいたものを吐き出すかのように、薮内さんは静かで、だが、決意を込めた声で語り出した。
「私はこれまで、お父様の子供と産まれたからには薮内家の跡継ぎとなると当然のように思って参りました。昔と違って、今は女性だから跡継ぎにはしない、という時代ではないし、お父様が私にかける言葉からも、私には、きっと跡継ぎとなることが期待されていると思って参りましたわ。」
そうだったんだ。
たしかに、先祖代々の重荷なんて背負うもんか、という考えで省三さんと断絶した武光さんなら、一人娘に、古くさいドラマみたいな政略結婚とか、婿を取って家庭に入らせようとか、そんなことを最初から考えていたはずはない。
「私はお父様からそのように思われていることの意味を最初は何もわかっておりませんでしたの。お母様も何も仰いませんでしたし。私はただ、社長の子供だから社長になるんだとしか思っていなかったのですわ。」
武光さんは、薮内さんが立派な後継者になることを期待していたんだろう。
だが、小さい子に、経営者が負うことになる重責のことを話しても理解できるはずがない。だから、いずれは武光さんのように社長になるんだよ、程度にしか話していなかったということか。
「でも、お父様が、時折苦しそうな表情を浮かべて、でもそれを私たち家族には隠そうとしているのを見ていると、私は子供心に、お父様の跡を継ぐというのはただならぬことだと察しましたの。」
藪内さんは一つ一つ心の底を支えてきたものを確かめるかのように話し続ける。
だが、ちょっと待ってくれ。
藪内さんの語ったことは、凄いことだぞ。
お嬢様としてわがまま放題に育ったのかと思いきや、そんな大人が隠そうとしている表情を読んで意味を汲み取れるようなことまで出来ただなんて。
だが、思い返せば薮内さんは、俺や小山内に変に絡んできた時も、空気を読まずに自分の意志のままに絡んできたというよりも、絶妙に俺たちの空気感を読んで、小山内ががるがるするような言動を敢えてしていたような気がする。
最初に薮内さんが俺に声をかけてきた時だって、小山内と菅原先輩の関係に気を揉んでいた俺に、絶妙なタイミングで
「どうされたのかしら、そんな難しい顔をして。」
と声をかけてきたんだった。
初対面だった俺の顔から俺の気持ちを読むなんて、わがまま放題に育ったただのお嬢様にできる芸当じゃない。
「その後、私はお父様のお仕事を少しずつでも学ぼうと思い、お父様におねだりして現場に連れて行っていただいたり、学校で教わったインターネットを使って自分で調べたりいたしましたの。」
藪内さんの努力の始まりだ。
たしかに、親から期待をされていると感じたんだろう。
だが、それに応えることの重さがわかって、それでも努力をしよう、自分を高めようとしたというのか。
藪内さんは、遠くを見るように視線をさまよわせた。
「最初は何から始めていいのか解りませんでしたわ。それで、学校のお友達に尋ねてみても、変なことを聞いてくる子、みたいに扱われましたの。」
あ、今、学校で変な目で見られたつながりで、薮内さんにとても親近感を感じた。
思わずうんうんと頷いてしまったのを藪内さんに気付かれ、何故か睨まれてしまった。
「変な」というところに同意したと思われたのかも知れない。
まあそんな些細なことは気にするな、と目で訴えかけたからかどうかは分からないが、薮内さんは俺から目を逸らしてさらに続ける。
「でも、大きくなるにつれ、だんだんとお父様のおやりになっているお仕事が何かが理解できるようになり、何を調べて、何をお父様に尋ねれば良いかが解るようになると、なんと言えば良いのかしら、義務感で始めた私の努力が、だんだんと楽しくなってきましたの。」
そう語って顔を花のようにほころばせたる藪内さんの表情は、初めて見るものだった。
もとが美少女なのと、今までのギャップで、破壊力が半端ない。
見とれそうになったので、あわてて小山内に視線をやった。
後で何か言われそうに思ったからな。
まあ、俺のことはどうでもいい。
「おかげで色々と楽しんで学べるようになりましたわ。それでインターネットで、薮内家の事業と同じような事業を海外ではどうやって進めているのだろうかと気になって調べていた時に気が付きましたの。もう既にここに居ながらにして世界中を相手にお仕事ができるようになっていると。」
薮内さんは無意識にか、前に置かれたグラスに手を伸ばして一口飲んだ。
俺たちもつられて手を伸ばす。
いつの間にか喉かからからに乾いていた。
話がいよいよ「今」に近付いているのを感じる。
「そう思ったらすぐに、今世界はどんなふうに動いているんだろうかとか、これから海外の方と一緒にお仕事をするなら、どういう生活をしてどういう考えの人たちとお仕事することになるのだろうかと思うようになりましたの。そのためにはやっぱり飛び込んでみるしかない、私がお父様のお仕事を知るためにやったように、と思いましたのよ。それで留学を希望して1年間勉強して参りました。」
これを「努力」とか「研鑽」みたいな人並みの言葉で表現しても良いんだろうか?
以前に若くして何かを成し遂げた人が、どうやってそこに至ったかを尋ねられて「なりたい自分になるために何が必要かを今の自分のいる位置まで順番に逆算して、それを確実に実行してきた。」みたいなことを言ってるのをテレビか動画で見たことがある。薮内さんがやってきたことってまさにこれじゃないのか。
「やっぱり凄いよ薮内さん。」
思わず口を突いて声が出た。
「薮内さんは薮内家の家業なんか継がなくても、自分の力で何かを形にできるよ。」
俺は辛うじて、最後に「絶対」という言葉を付けそうになったのを抑え込んだ。
「そうよ。あなたは自分の意志で自分の未来を動かせる人だわ。」
小山内も少し涙うるうる気味の感動した声を上げた。
「うん。小山内の言うとおり、藪内さんは敷かれたレールの上を走る人じゃなくて、自分で行き先を決めて道を切り開く人だよ。」
だから、ええと。
…なんだ。そうか。根本的な勘違いを俺はしていたのか。
「藪内さん、藪内さんが武光さんの跡を継がせてもらえるかどうかなんて、そんな発想が間違ってたんだ。」
俺は省三さんに向き直った。