第162話 谷を遡って (6)
その後、俺たちは大木さんの元に戻り、谷の底で見たものを伝えた。
小山内が言っていた、倒木のコケの状態からすれば、最近は山崩れは起きていないようだからこの谷は大丈夫じゃないか、との意見も伝えたが、大木さんは厳しい顔をしていた。
おそらくそう聞いたとしても安心して住めるということにはならないだろう。
俺だって、そう思うし。
しばらくその場で休憩して、この先にもさらに進むかどうかという話になった。榎本さんが大木さんを見ながら、「木の杭があるので、ここから先は私有地じゃないでしょうか。」という意見を出して、俺と小山内も賛成したので、今日の調査はここまでということになり、その場から引き返すことになった。
大木さんも疲れているようだし、という言葉に出なかった理由がやっぱり一番大きかった。
下り坂なので足元には注意しなきゃならなかったが、帰りは行きよりもずいぶん早く砂防ダムの所まで戻ることが出来た。
「大木さん、何かお気づきになったことはありましたか?」
山道から戻ってきて改めて気付いたんだが、砂防ダムからの住宅街までの道は、昔に砂防ダムを造ったときに、車が入ることが出来るように整地されていたのだろう。
さっきまでいた道と較べると、明らかに「もとは車の通れる道」という、安心して歩ける道の状態になったこともあり、もう住宅街に戻ってきたような気分になった俺は大木さんに尋ねた。
榎本さんと、今自分たちが見てきたものについて意見を交わしてた小山内も、話しを止めて大木さんが何を言うかに注意を払っている。
大木さんは顎に手を当てて少し考えた。
「あのあたりの、」
大木さんは後ろを振り返って、俺たちが行ってきた辺りを腕を回して指した。
「谷自体が昔と変わったところがあるのかどうか、私にはわかりませんでした。今まで2度しか行ったことがなかったので。ただ、やはり急な谷だなと思いました。」
「そうですね。一度崩れたら勢いがつきそうです。」
榎本さんが相づちを打った。
「ただ、谷自体は大きな谷ではないと思いますので、今の状態なら砂防ダムで食い止められるようになっていたんだと思います。でも、谷を埋め立てて大量の土砂が搬入されたり、工事の時に十分な水抜き穴を作らずに水が溜まって積み上げた土砂と共にそれが一気に流れ下ったりすれば。」
大木さんは最後まで言わなかったが、俺たちにもその光景が想像できた。
多くの水を含んだ土砂が、途中の谷の岩や土を巻き込みながら怒濤のように流れ下ってくる。川上にそんな大量の土砂が搬入されるなんてことを想定していないであろう砂防ダム自体を壊して、そこに長年溜まった土砂も一緒に流れ落ちてくるかも知れない。静岡で起こった災害の光景が今自分たちが通ってきた街の川で再現される。
「怖い。」
小山内が左手で右腕を強く抱きながら一言そう漏らした。
「ああ怖いな。」
超能力を使った結果、そういう事故が起こらないだろうという自信じみた確信を持っている俺だって、そういう光景は想像するだけで恐ろしい。
ましてや、俺の超能力のことを知らない、ここに住んでいる人たちなら。
小山内が問いかける。
「…大木さん、こちらの住民の方々で、なにか反対運動とかされたりはしていないのですか。」
「そういう話もあるのですが、ここに住んでいる我々はもう若くありません。先頭に立って運動しようという人がいないと…」
危険が訪れるとはっきりわかれば動こうという人たちもいるんだろう。
が、今行われているはずの調査の結果、危険だとわかれば止めてくれるんじゃないか、あるいはソーラー発電所が出来ても安全だと確認されるのではないか、という希望があるうちは、自ら先頭に立ってでも動かなくてはならないと考える人はまだいないのかも知れない。
漠然とした不安を持つ自分。
今まで続いてきた安全が続くこととと、人の良心を信じたい自分。
その狭間でこの街の人たちは揺れ動いているのかも知れない。
「大木さんは、今日、現地を見られて、不安は増しましたか。」
榎本さんが何かを考えている顔つきで問いかけた。
「そうですね。今までは漠然とした不安というだったものがなにか、形を持ったものになった気がします。」
大木さんは厳しい顔出そう答えた後、俺たちに笑いかけた。
「今日、あなたたちに声をかけて良かった。こんなきっかけがなければ自分ではおそらく見に行こうとも思わなかったかもしれません。」
大木さんはそういうと川上に向き直った。
「私に何ができるかわかりませんが、不安の源を見て、形を捉えたことで何をするべきかを具体的に考えようと思います。」
その横顔からは、決意のようなものがうかがえた。
「大木さん、私たちにも何かできることがないか考えてみます。」
小山内の言葉は、学校での言葉とあまり変わるところがないのかもしれない。
だが、ここに住む人たちと出会い、言葉を交わしたことで、言葉に込められた意識は変わった。おそらく、地図に描かれていた住宅を見ただけなのと、そこで暮らしている人たちと触れあったこととの違いだろう。
「はい。ありがとうございます。どうですか?少しうちに寄って行かれませんか?」
気づくと、住宅街の舗装道路がすぐそこに見えるところまで戻ってきていた。
行きは初めての道だったので、砂防ダムまでそれなりに歩いた気がしていたが、帰りは下り坂ということもあって、あっという間に戻ってきた気がする。
下り坂を下るのが早いのは、俺たちだけでなく、土石流が流れ下るときにも言えることだ。
大木さんは、もう一度振り返って、
「こんなに近かったかな。」
と呟いた。