第161話 谷を遡って (5)
「ユリちゃん、ここよ。」
小山内が榎本さんの声のした方向に向かって呼びかけた。小山内の声はいつもよりも少し掠れて聞こえた。
「坂道の途中の石はぐらぐらしているのがあるから気をつけて。」
「はい大丈夫です。凜ちゃんどっちですか?川上側ですか?」
次第に榎本さんの声が大きくなり、やがてがさがさという音ともに榎本さんが姿を現した。
太い木の枝を杖代わりにしていたようだ。
いいアイデアだな。気付かなかった。
「ユリちゃん大丈夫だった?」
「はい。凛ちゃんこそ大丈夫でした?」
「私は大丈夫よ。その、俺くんが守ってくれたから…」
いや小山内、また真っ赤になってるぞ。
薄暗い森の中でもわかるほど。
「それはよかったです。」
榎本さんはそういうと、さらに近づき、小山内の顔を見て「あっ」と言って足を止めた。
「なに?」
小山内が尋ねるが、榎本さんは俺の顔もチェックして挙動不審になった。
「あ、あの。」
「?」
「どうした?」
俺と小山内は顔を見合わせた。
榎本さんの態度の原因が皆目見当もつかない。
それどころか、なんだか顔まで赤くなってきているようだ。
「わ、わたし、その、お邪魔するつもりはなくて。ご、ごめんなさい。」
何故か謝り始めた。
だが小山内はその意味がわかったようだ。
手をぶんぶん振って慌てて何やらごにょごにょ言い始めた。
「な、ば、そんなことぜんぜんなかったから。未遂、いえ未遂までも行ってないからっ。大丈夫よ!」
最後は絶叫寸前だった。
俺も小山内の態度を見てようやく、なんのことか理解できた。
理解できたが、小山内がそこまで完全否定した上に大丈夫とか言ってるってことは、やっぱり俺とその、キ、キスをするの嫌だってことだったんだろうか。「だめ。」とも言ってたし。
気まずい沈黙が。
……
「調査を続けましょう。大木さん待ってもらってるんだし。」
ようやく小山内がが再起動したのは永遠にも感じる1分が経過した後だった。
俺と小山内の距離はかなり近づいてるって気がしてるんだが、それでもなお俺がこうなりたいと思う関係からは遠く離れているような気もする。
いままで誰かと付き合ったことのない俺が友達としての距離を勘違いしてるのかもな。
なんてことを考えてたら、小山内に怒られてしまった。
「あんたも早くこっちにきて。」
いつに間にか、また小山内が倒木の川上側に戻っていた。
慌てて倒木の下を潜って追いつく。
「この木の一面にコケが生えているんだけど、ほぼ一様に生えているように見えるの。」
たしかに小山内の言う通りに見える。
「もしこの川を大きな石が崩れて押し流されていたら、ちょうどこの川を塞ぐように倒れてるこの木のどこかにぶつかって、その部分のコケを剥ぎ取っていったはずじゃないかしら。」
なるほど。一理ある。だが必ずしもそうと言えないんじゃないだろうか?
「小山内、たしかにその通りなのかもしれないが、この木がいつからここにこうして倒れているのかわからないし、いったんコケが削られてもまた生えてきたのかも知れない。」
俺は考えながら川の両側に落ちている、サッカーボールくらいの大きさの石に目をとめた。
「それに小さい削れならなおさら新しく生えてきたものと見分けがつかないんじゃないか?だから小山内の言うように考えるのは正しいとは限らないんじゃないか。」
小山内は川上の方に目をやった。
「そうね。でも、下流に住んでる方達にとって心配なのは小さい削れを作るような落石ではなくて土石流を作り出すような大きな崩れじゃないかしら。」
榎本さんが小山内の横に立ち、同じく川上に目を向け、ひとつひとつ考えを組み立てていく。
「そうですね。凛ちゃんの言う通りだと思います。ただ、今後、この谷に大量の土砂が搬入されて埋め立てられたら、今とは状況が変わるかも。現状では大丈夫でも、崩れやすいところなら、荷重がかかると危険になってしまうのではないですか?」
「そうね。ユリちゃんの言う通りね、これ、やっぱり専門家なじゃいとわからないことなんでしょうね。」
小山内はそこで一旦言葉を切り、俺を見た。
「だったら私たちにできることをまずしましょう。いい?」
その視線に込められた意味が何か、説明されなくてもわかる。
「いいぞ。」
ここまできた理由は、現地を確認すること。
そしてもう1つは。
「今後、俺が今いるこの場所を通過する土石流が必ず発生する。間違いない。」
俺たちに出来る最初の1つはこれだ。
直接ここまで来なきゃならなかったのは、俺の超能力を発動させる対象の「この場所」をはっきりと示すためだ。
例えば俺がいつもの藤棚で、ここを表示している地図を指差して、「この指で指している場所」と言った時、本当に地図が描いている場所で超能力が発動するのか、それとも俺が地図を持って立ってる藤棚で発動するのかわからない。
人の命がかかっている以上、そんないい加減なことはできない。
だからここまできた。砂防ダムの所でも良かったのかも知れないが、ここまで登ってきたのは、谷を流れ下る中で周囲を巻き込んでいった大規模な土石流が、砂防ダムを外れて襲い掛かるかもしれないと思ったからだ。
谷底に降りたのも同じ理由だった。川から離れたところで超能力を使ったら、その場所よりも谷の真ん中を流れ下る土石流が起こるかもしれないからだ。
ここまで注意して超能力を使ったから、俺の超能力がいつも通り発動すれば、この谷でこれから先土石流が起こることはもうないだろう。
だが今回の問題は、これまでとは違って、俺の超能力を使って安全を確保するだけでは解決しない。
最初に俺たちが3人で確認した通り、安全であることと、安心して住むことができることは似て非なることだからだ。
そのためには、安全だという説得材料を集めることしかないのか?
もちろん、工事を中止してもらうのが一番なんだろうが、そんなこと出来るのか?
この谷の底に降りてくる途中で見た真新しい木の杭なんかからすれば、やはり地質調査とかも始まっているんだろう。そのお金を掛けた以上、問題が無ければ工事が始まってしまうのだろし、俺の超能力が効いているはずだから、もしかすると地質自体に問題は無い、なんて調査結果が出るのかも知れない。
そうだとすれば…
どうすればいい?
俺は、「どうすればいい?」という疑問を込めて小山内と榎本さんを見たが、結局答えらしい答えは見つからなかった。