第160話 谷を遡って (4)
「もう大丈夫だな。」
「ええ。」
俺たちは、再び手をつないで川の所まで降りた。
上から見えたように、水はちょろちょろと流れているだけで、これを川と呼んで良いのかためらいをおぼえるくらいだった。
「見て。」
周囲に視線を走らせていた小山内が、20メートルほど上流を指した。
言われたとおり目をやると、苔むした倒木が川を跨ぐように倒れていた。
「あのコケの生え方からすると、かなり以前からあの倒木は倒れていたようね。もし、この辺りが崩れて川に土砂が流れ込んでいたら、あの倒木も流されたり折れたりしたんじゃないかしら。」
「そうだな。撮影しておくよ。」
おれが小山内をおいて川を遡ろうとすると、小山内が手を差し出してきた。
「ほら。1人で行くと足を滑らせるかも知れないんでしょ。」
「ああ、そうだな。」
なんだか、甘酸っぱい気持ちが。
それはそれとして、榎本さんや大木さんが待ってくれているから、足元に注意しながらてきぱきと動くように努める。
近づくにつれ、倒木が予想よりも大きかった事に気づいた。
「高い木だったのね。」
「そうだな。なんで倒れたんだろうな。」
「そうね。それこそ生えてた所の地盤が崩れたのかしら。」
「あとで、根っこの方にも行ってみよう。」
俺は一旦、小山内とつないでいた手を離すとスマホを撮りだし、木を撮影し始めた。
「上流側の方もお願いね。」
「了解ー」
小山内に何か考えがあるんだろう。指示に従って倒木の下を中腰でくぐり抜けて上流側に回った。
上流側もやはり一面のコケだ。何枚かに分けて見落としがないように撮影していく。
小山内は倒木を挟んだちょうど俺の向かい側にいて、木に顔を寄せてじっくり観察している。
「何かわかったか?」
「まだ。私もそっちに行くわ。」
小山内は、そういいながら中腰になった。
「頭を木にぶつけないように気をつけて。」
そういいながら、俺は、小山内が頭をぶつけそうになってもクッションになるよう、急いで軍手を外して手を木に当てた。
小山内が木をくぐり抜けてくる。
小山内の邪魔にならないように手を木に当てたまま俺は半歩後退った。
「気をつけろよ。」
「ふふ、わかってるわよ。」
「ふふ」とか言ってるし、なんだか小山内の機嫌が良さそうだ。
…俺もだがな。
さわっ。
「あっ。」
小山内が声を上げた。
「ぶつけちゃった。」
いや、それ俺の手だから。
そう言おうか言うまいか、一瞬悩んだ。
偶然とはいえ、小山内の髪に触れてしまったのは、どうなんだろう?小山内は気持ち悪いとか思わないだろうか?
さっき思いっきり抱きしめたみたいになっておいて今更何言ってる、という突っ込みは甘んじて受けるがな、さっきは小山内を守ろうと咄嗟に体が動いてああなっちまったんだ。
だが今回は、なんというか、ああいう突然起こったことじゃないから、下心があって触れたみたいに思われないだろうか。
なんともヘタレな話だって笑ってくれ。
俺は複雑な想いで無意識に手をにぎにぎしてしまっていた。
「手、どうかしたの?ごめんなさい、痛かった?」
小山内が心配そうな顔をして謝ってきた。
ん?
「なんだ?」
「私の頭で手を挟んじゃったでしょ?」
「気付いてたのか。」
「当たり前でしょ。」
「全然、大丈夫だ。それより髪に触れてごめん。」
「そんな。守ってくれようとしたのわかってるから。」
なんとなく照れ臭くなってしまう。
いや、小山内を意識してしまう。
小山内はどうなんだろう。
「嫌じゃなかったか?」
つい口をついて直截の言葉が出てしまった。これ、わざとやったみたいに聞こえないだろうか。
「何が?」
小山内が不思議そうに首を傾げた。
「俺が、小山内の髪に触れてしまったこと。」
「あんたバカなの?!なんてこと聞くのよ!」
小山内が一瞬で赤くなった。
「そんなの意識なんてしてるわけないじゃない!」
そうか。そうだよな。
「ほんとにもう、バカなんだから!」
そのあと俺には聞き取れない声で小山内はごにょごにょ何かを続けた。
ばかだよな、俺は。
「ほら。」
小山内が頭を俺の方に近づけてきた。
ん?!
「ちゃんと手をはらってからにしてよね。」
「何を?」
「だから。」
小山内はこれ以上ないほど耳を真っ赤に染めている。
「いやかどうか確かめてあげるから、撫でなさい。優しくね。」
何を言われているのか脳が理解を拒否してるのか、実はさっき転げ落ちていて夢想の世界を彷徨ってしまっているのか。
「早く、撫でなさいよ。わ、私も恥ずかしいんだから。」
小山内はもじもじしてる。間違いなくもじもじしてる。
なんだこれ。どういうシチュエーションなんだよ。そんなことしてもいいのかよ。
そういう思いが頭の中でぐるぐる駆け回って収拾がつかないでいる。
なのに、俺は一歩小山内に近づいてしまった。
目を閉じている小山内の頭に手が伸びる。
さわっ。
出来るだけ優しく。
「んっ。」
さわさわ。
撫でる。撫でてるよ、俺。
「ど、どうかな?」
いつもみたいに、「どうだ?」という言い方が出来ない。
「ん、んっ。」
小山内はますます硬く目を閉じて、小さく反応している。
嫌がってるなら、「やめて。」って言うはずだよな。な?
小山内から止められないので、俺も止めるタイミングがわからない。
「わ。わかったわ。」
小山内が何かをわかったらしい。
顔を上げようとしたのがわかったので、俺は手を引っ込めた。
小山内は涙目になっている。
まさか、そんなに嫌だったのか?
「えーと。」
「喜んでいいわよ。」
戸惑いの声を発した俺に被せるように、小山内が口を開いた。
「いやじゃないわ。いやじゃないどころか、その…あの…もしよかったら、また…。」
俺は驚いて小山内を見つめてしまった。
「何見てるのよ!恥ずかしいじゃない…」
小山内が目を逸らす。俺も逸らす。
逸らしたはいいが、これからどうしたらいいかわからない。
わからないから、気持ちの赴くままに小山内に一歩近づく。
「だめ。」
拒絶の言葉とは裏腹に小山内は動かない。
俺は。
しんと静まり返る森の中。聞こえるのは足下を流れる水の音と2人の息遣いのみ。
俺はもう1歩小山内に近づこうとした。
「俺くん、凛ちゃんどこですか?返事をしてください!」
「あっ…」
榎本さんの声が響き、小山内が何度か瞬きをして俺を見る。
息を詰めていたのか、小山内は大きく息をついた。
「榎本さんたちを心配させっちゃった。行きましょう。」
だがその表情は、言葉に現れたのとは違う心の中の感情を示しているように見えた。
「小山内…」
「今はだめ。」
今は?何がだめなんだ?俺は何をしようとして、小山内は何が起こると思ったんだろう。
もしかすると、俺と小山内はここで額にではなく…
「ユリちゃんごめんなさい。ここよ。」
俺の感情の波が収まる前に、榎本さんの気配が近づいてきた。
「行きましょう。」
頬を染めたままで小山内はそう俺を促した。
「ああ、頭を木で打たないように気をつけて…」
俺は小山内が頭を打たないようにもう一度木に手を当てた。
すまん。やっぱりこれが俺の限界だ。