第157話 谷を遡って (1)
汗がまた吹き出てくるのを感じ始めた頃、俺たちは住宅地のはずれに着いた。
距離はそれほどなかったが、だらだらと続く坂道のせいだ。
川の水量は、さっき見たときと殆ど変わらないように見える。住宅地の方から流れ込んでいる水は少ないのだろう。
だが、雨が降ると様相は一変するのかも知れない。
「ここからは山道になります。虫や蛇に気をつけてください。」
大木さんが、住宅地の舗装された道が途切れた先に続く、川に沿って登っている土の道を指して教えてくれた。入り口はまだ太陽の光が差し込んでいるものの、その先は見るからに山という感じの森の中に入っていく。
「虫…ヘビ。」
大木さんの指した方向を視線で追った小山内が、怯えたようにつぶやく。
そういえば、あの城跡の穴掘りの時、虫が苦手といってたな。
「小山内、俺が前を行くから。」
「恐いなら手をつないでやろうか。」なんて大それた言葉も頭によぎったが、どう考えたって小山内が意地になってどんどん先に進んで、蜘蛛の巣に引っかかって泣きべそとか、ヘビを踏んづけて大絶叫という未来しか思い浮かばなかったんでやめた。決してヘタレたわけではない。
「あんた、いますごく失礼な想像したでしょ。」
「いや、なにも。」
だが視線をそらしてしまったのは、ヘビに睨まれたカエルよりもヘタレな俺の性としか言いようがない。
「へえ、そう。」
だから睨むなって。
「榎本さんは虫は大丈夫か?」
視線だけでなく、話題もそらしてしまおう。
まだ小山内は睨んでるがな。
「大丈夫です。お姉ちゃんに連れられて、そういうのが平気になるように仕込まれました。」
こっちはこっちで木々で遮られて見えないはずの遠い空の果てを、地獄を見てきた歴戦の兵士のような視線で見つめている。いや、榎本さんは視線をそらさず現実を見るんだ。
何をコントみたいなことやってるんだよ。
「じゃ、行きますよ。」
何かを察したのか、大木さんは薄暗い森の中に入っていく道に踏み込んでいった。
続いて俺。
小山内たちは大丈夫かなと思って後ろを振り返ると、小山内と榎本さんが手をつなぎながら、おっかなびっくり後をついてくる。
そうか。その手があったか。
「この森には、大きい動物とかはいないのですか?」
なんとなく寂しくなったので、大木さんに聞いてみた。
「大きいって、熊とか、イノシシとかのことですか?」
「はい。」
「そういうのが出たとは聞いたことはありませんね。せいぜいキジか狸くらいです。」
キジ?あの桃太郎だか金太郎だかの?
勿論こんな小学生みたいな間抜けな聞き方はしない。
「キジって言うと、あの、泣いて猟師に頼んだら撃たれなかったとかいうあのキジですか?」
どうだ。ちょっと賢そうに聞こえるだろう?
「泣いたら撃たれなかった?」
大木さんは不思議そうに聞き返す。
「あんたバカなの?何言ってるのよ。『雉も鳴かずば撃たれまい』でしょ。」
後から呆れたように小山内が撃ってきた。
「俺くん、それ、『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』とごっちゃになってると思いますです。」
気の毒そうな声の榎本さんからも撃たれた。
まさに、雉も鳴かずば撃たれまい、だ。
大木さんが大いに笑ってくれたから、まあいいや。
俺の情けない失敗のおかげで、俺たちの空気が少し明るくなったのに反比例して、森は次第に薄暗くなる。
道幅はしっかりと確保されて、たしかに草刈りの痕はあるのだが、土のままの道なので湿気も多そうだ。
「少し川から離れていってますが、この道は砂防ダムに続いています。でもこの辺りの川も見てみたいですか?」
「いえ、まずは砂防ダムに。」
俺は小山内たちの意見も聞かずに即答した。
問題なのは、おそらく砂防ダムを作った原因となった、砂防ダムよりも上流の谷の状況だ。
砂防ダムから先にどうやって遡るか解らないが、ここより歩きやすいなんてことはあり得ないだろう。だったら、時間は有効活用しないと。
それに、ここから道をはずれたら、それこそ、小山内たちが怯える何かが現れそうだからな。普段強気の小山内がきゃー!とかうぎゃーっ!とか言うのを聞いてみたい気がしないでもないが。
「そうね。」
「そうですね。」
小山内たちもそう答えた。
何気なく、を装ってちらっと後ろを振り返る。
それに気づいた小山内が俺に銃口を向けるような姿で、「バン!」と言った。
いや、今日の話はまだ終わってないぞ。
なんかいい感じでコントにオチが付いたような感じになったがな。
「もうすぐ砂防ダムです。」
大木さんが声を上げたのは、それから急な坂道をゆっくり歩いて5分ほどした頃だった。
小山内と榎本さんは、大分この道に慣れたらしく、歩きながら何やら恋バナらしいのを楽しげに喋っていた。
なんとなく俺はその話を聞きたくなくてどんどん歩いていると、その俺を留めるように大木さんが声を上げたのだった。
言われて大木さんが指差す方向を樹々の間から透かして見ると、左斜め上の方向に、陽の当たっている緑色の壁みたいなのが見える。
道はそっちの方向に向かっていっているみたいだ。
なんとなく1人で一番乗りするのが大人げないような気がして、俺は、小山内たちが追いつくのを待った。
「あれね。」
追いついてきた小山内が俺の視線を追って、緑の壁を見つけたようだ。
「行きましょう。」
大木さんが促すのに合わせて小山内がまた歩き出した。
おれはその前に緑の壁を撮影しておく。
その俺を榎本さんが待ってくれていた。
「凜ちゃん、何かあったんですか?」
「なぜ?」
「いつもと少し違う気がしただけです。何か心配事でもあるのかも。」
榎本さんは前を行く小山内を目で追いながら教えてくれた。
やっぱりお嬢様とのことだろう。小康状態にはなったが、いつまた襲ってくるかわからない。
だが、こんな話しを榎本さんには言えない。
「そうかな。」
俺は誤魔化すように答えた。
榎本さんは、俺を見上げて言葉を続ける。
「りんちゃん、ああ見えて、繊細で、ちょっと臆病なんですよ。」
わかってる。
それに自分を傷つけてしまうくらい優しすぎる。
うん。
この件と、お嬢様の方の件、どっちも頑張らないとな。
小山内に失望されるのが俺には一番辛い。
「任せておけくれとは言えないが、精一杯やる。」
「頑張ってください。わたしは、2人を応援してるんですから。」
そう言って、榎本さんは微笑んだ。