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 第129話 嵐の終わり (1)

少し前まであった拒絶を含んだ空気は薄れ、小山内と七海さんは、ようやく元の関係に戻りつつあるようだ。


緊張やらハラハラやらで喉が渇いていた俺は、出してもらっていたジュースに口をつける。ついでにこれも出してくれていた美味しそうなクッキーもひとつ。

さくっと軽い歯触りに豊かで濃厚なのに重くないバターの風味が口いっぱいに広がる。


「美味い!」


なんていうかスーパーで売ってるのとは格が違う美味しさだ。


「気に入ってくれた?」

「はい。とても美味しいです。」

「お姉ちゃん、このクッキー?」

「そうなの。凛香ちゃんたちが来てくれるって聞いて焼いておいたのよ。」


七海さんが笑顔を小山内に向けた。

その笑顔に導かれるように小山内もひとつ口に運び、かじる。


「あ、あの時の味。」


小山内が左手を頬に当てて懐かしそうに右手のクッキーを見る。


「小山内にとって思い出のクッキーなのか?」

「そう。私がお兄ちゃんの連れてきてくれたお姉ちゃんに出会って、すぐだったわ。」


菅原先輩は泣いている小山内を一緒にいた友人に託して、七海さんの家に行き小山内の元に戻ってきた。

その時、途切れ途切れながら小山内の話を聞いた七海さんは、小山内を家に誘ったという。

菅原先輩は誘わなかったが一緒に着いてきた。「責任感なのか、凛香ちゃんが可愛かったからかとどっちだったのかしら。」と七海さんは笑った。


そこで七海さんはちょうど七海さんのお母さんが焼いたばっかりのクッキーをご馳走したそうだ。


「美味しいものを食べたら少し幸せを感じられるから。あの時もクッキーの美味しさに凛香ちゃんの涙も止まったのよね。」


という七海さんに、


「あの時はもう涙が枯れちゃっただけです。とても美味しかったけど。」


と小山内は恥ずかしそうに答える。


「それで、2人で一緒にママにクッキーの作り方を教わりましょうって。」

「うん。あの時はお姉ちゃんのいたわりだってすぐにわからなかったけど。

でも、お兄ちゃんが焼いたクッキーは俺が食べるからどんどん練習していいぞ、って言った時にはびっくりした。」

「そのあと、本当にクッキー食べに来たって何度もうちにやって来るもんだからおかしくて。」


小山内と七海さんは声を出して笑い合った。


「クッキーを食べに来て、私がピアノを習ってるって知った時にも、弾いてくれってあいつが何度も頼んだこともあった。」

「私も憶えてます。そんなに頼むんだったらよっぽど音楽が好きなのかと思ったら、演奏が始まってすぐにうとうとし始めちゃって。」

「でも感想はちゃんと言ってくれるのよ。それも不思議とだいたい合ってて。」

「あれは本当に不思議だったわ。でもピアノを弾いてってお兄ちゃんが言ってたのは、私が遠慮して言い出せないのを察してくれたのかも。」

「あいつ、そういうところあるのよ。凛香ちゃんたちが今日来てくれたのも、あいつから私が落ち込んでるって話を聞いたからでしょ?」


七海さんは菅原先輩を「あいつ」って呼んでるのか。これから兄妹の関係になるとしても何か違和感がある。あるいは姉弟なのか?

だが小山内は何も疑問は持たなかったようで、むしろ図星をさされたことの方に意識が行っているようだ。


「ええと…その…はい。ごめんなさい、お姉ちゃん。騙すつもりはなかったの。ただ、私にお兄ちゃんやお姉ちゃんがしてくれたことを、ちょっとでも返したくて。」

「いいの。こうして来てくれただけでも嬉しい。俺くんに会わせてくれたこともね。」


そう言って、七海さんは俺を見た。


「俺は、その、ついて来ただけですから。」


さっきみたいな話しの流れだと、小山内は菅原先輩と一緒に来た方が良かったんじゃないのか?


「そう。あの辛さで泣いていた女の子が今度は私をいたわりに来てくれたの。」


独り言のようにそう呟く七海さんの脳裏に何が走ったのかはわからない。だが小山内を見つめる瞳の暖かさの質が変わって見えた、といえばいいのか、無意識の拒絶すらその瞳から消えたように思う。


「そうね。私は忘れしまっていたのかも。私はピアニストになることが夢で、それだけを追いかけてるつもりだった。でも何のためにピアニストになりたいのか、ピアニストになって何をしたいのか。」


七海さんは小山内を見つめ続けたまま呟く。だがその言葉が強さを得ていくように感じる。


「私はピアノが好き。でもそれだけじゃなかった。私の音楽で誰かを笑顔にしたい。苦しむ人を、悩んでいる人を、疲れた人を、日々生きていく人を少しでも笑顔にしたい。そうして笑顔になれた人がまた誰かを笑顔にできたら、それはきっととても幸せなこと。だからプロを目指した。」


七海さんは、自分の心を確かめるかのように、一言ずつ噛み締める。


「私がプロになるために見つめなきゃならなかったのは、私よりもピアノを上手に弾く人でも、私よりも感受性が豊かな人でもなかった。私のピアノを聴いてくれる人だったのね。聴いてくれる人のために私はしっかりと音楽と向き合わなきゃならないのね。」


七海さんはそう言って小山内を見つめた。

小山内はしっかりとその視線を受け止め、小さく頷いた。


「私があの時、苦しみと一緒でもなんとか生きていけると思えたのは、お姉ちゃんとお兄ちゃんのおかげ。」


七海さんの言ってることが正しいのかそうじゃないのかなんて答えを俺は持ち合わせていない。

だが、ここからまた七海さんが前に進むことができる、それはわかった。


七海さんの苦しみのもとになった、七海さんよりも素晴らしい才能のピアニストとがいるという事実は何も変わってはいない。

だが、それでも前に進もうという自分の意志があれば進むことはできる。ほんの少しの他人の手助けでも強く押し出す力になれる。

小山内こそがその証明なんだ。


だから、俺も大きく頷き返した。



「さあ、せっかく来てくれたんだから、もう一曲聴いて行って。」

「うん。」


七海さんが立ち上がってピアノに戻ろうとした。

何故か俺はその時、軽くなった空気のせいか思わず、この前から持っていた疑問を尋ねてみたくなった。


「この前から気になってたんですが、小山内が菅原先輩をお兄ちゃん、七海さんをお姉ちゃんて呼ぶのは何故なんですか?」


中学生になってから知り合った関係で、そう呼ぶのは、何か小山内にしては幼い気がしたんだ。

シャレで言ってるんじゃないぞ。


「それは。」


小山内はその幼い言葉に自覚があるのか少し頬を染めて口籠る。

小山内の口から説明はないと見てとったのか、七海さんが懐かしそうに教えてくれた。


「そうね、あれは凛香ちゃんがあいつに連れられてここに2度目に来た時だった。あの時凛香ちゃんは、ママから美味しいクッキーの作り方を教えてもらうことになってんだけど、すごく遠慮しちゃってたの。」


そりゃ、まだ友達にもなっていない子の家に行くって小山内じゃなくったって遠慮するよな。


「その様子を見てたあいつが、俺と私と凛香ちゃんを兄弟ということにしよう、と言い出したわけ。兄弟なら何も遠慮しなくていいからだって。わかったようなわからないような理屈だけど、それ以来、凛香ちゃんは私たちの妹なのよ。」


恐るべき菅原先輩のパワー。


「凄すぎる発想力ですね。」

「押しが強いだけなのよ。まあ私もその押しの強さに負けちゃったんだけど。」

「他にも菅原先輩は何かしたんですか?」

「あれ?凛香ちゃんから聞いてない?」





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