第125話 七海さん (1)
「じゃあ、私のおばあちゃんの家に来て。七海さんの家にも近いから、何かお弁当を買うとかしてもいいし。」
俺は小山内が口にした言葉が理解出来なくてぽかんだ。
「その、あの、あんたがどうしてもって泣いて頼むなら、私が何か作ってあげても。」
そこまで早口で言い切ると小山内は真っ赤になった顔を手で仰いで、「何よこの電車、クーラーの効きが悪いわね。」とかさらなる早口でつぶやいた。
俺は5回くらい宇宙旅行をしてからようやく地球に帰ってきた。
泣いて頼んだら作ってくれるのなら、100万トンくらいの涙を流せる自信はあるが、そんなことをして菅原先輩は大丈夫なのか?
あっ!菅原先輩に作るついでとか?
ありえる。
「もしかして、七海さんの演奏を聴きに行く日って、菅原先輩も一緒に行くことになってたりするのか?」
「なってないわよ。あんただけ。」
「じゃあ、菅原先輩も…」
「あんたね。自分が作って欲しいのか、作って欲しくないのか、はっきり言いなさいよ。」
「作って欲しいです。この通りです。」
俺は菅原先輩のことなど一瞬で頭から消え去り、反射的に泣いてお願いしてしまった。
泣いたって部分は嘘だけどな。
「よろしい。じゃ、仕方ないから、ほんと仕方ないから、お腹がすいたあなたを七海さんの所へ連れて行って、おなたがお腹を鳴らしでもしたら私が恥ずかしいから、何か作ってあげる。」
小山内は偉そうな言葉とは裏腹に、なにかほっとしたような笑いを浮かべながらそう言った。
謎のお慈悲だろうが菅原先輩の残り物だろうが、もはやそんなことはどうでもいいや。
小山内が俺のためにまた時間を使ってくれるってことだけで嬉しい。
「嬉しい。楽しみにしてるぞ。」
「期待していいわよ。」
「もちろん。」
「何か食べたいものはある?」
「そうだな。玉子焼き。」
「いいわ。特別美味しいのを作ってあげる。覚悟しなさいよ。」
大いに言葉の使い方が間違ってると思ったが、ますます小山内に心を持っていかれることになるかもしれない。そうなれば、俺は小山内の菅原先輩への想いに、辛い思いをすることになるだろう。だったら覚悟で合っているのかもしれない。
「ああ、覚悟しておく。」
俺の返事が意外だったのか、それとも真剣さが乗ってしまった声音に驚いたのか、小山内は「そう。」と言ったきりだった。
とりあえず、午後に決まったことで、小山内はまた七海さんに連絡を入れた。
「七海さんも午後からで良いって。じゃあ、12時前におばあちゃんの家に来てくれる?」
小山内にとって、今家族が戻ってきた家こそが、「自分の家」で、高校に通いながら住んでいる家は「おばあちゃんの家」なんだな、と俺は今更ながら気づいた。
まあそんなことはおくびにも出さない。だがはっきりさせておかないといけないことが一つ。
「場所がわからないんだけど。」
「そうだったわね。それじゃあなたのスマホ出して。」
俺は言われた通りにスマホを出し、ついでにロックも解除した。
「ちょっとだけ貸してくれる?」
「いいぞ。」
小山内は俺からスマホを受け取ると、地図アプリを起動して手早くある場所を探し出すと何か操作した。
何をやってるんだろう。
「このアプリの検索のところをタップしてこうしたらおばあちゃんの家が表示されるようにしたから、ナビを使って来て。いい?」
小山内はそう言いながら操作して見せてくれた。へえ、こんな機能が付いてたのか。
「わかった。」
「遅れないようにきてね。」
「もちろん。」
だが、本当に良いのだろうか?
俺は小山内と家の近くまで一緒に帰る間中、そのことが心に引っかかっていた。
翌々日。
時間に遅れないようにきちんと下調べして家を出た俺は、初めて行った場所なのにほぼ時間通りに小山内のおばあちゃんの家に着いた。
スマホのナビ恐るべし。
住宅街の一画の日当たりの良さそうなお家のピンポンと押すと、「はーい」と言う声とともに笑顔の小山内が出てきた。
薄い檸檬色のサマーニットに可愛いフリルのついたエプロンをつけてる!
新婚さんか?
これは想定外で予想外の破壊力だ。
絶句して、見とれてしまう。
「いらっしゃい。」
その言葉で俺は、セリフを思い出した。
「本日はお招きにあずかり」
「なに似合わないことを言ってるのよ。」
「こう言えって言われたんだよ。」
「そんなのいいから早く入って。暑かったでしょ。」
「へいへい。」
俺は小山内が空けてくれているドアから中に入った。入った直後に母さんから持たされた手土産を「お家の方に。」と言いながら小山内に渡す。
あれ?そのお家の方は?
「お盆のものを買いに買い物に行ってるの。今は私だけ。」
あのな、小山内。信用してくれるのはありがたいし、俺はその信用を誓って裏切らないけどな。それはどうかと思うぜ。
嬉しいけど。
「ここで待っててくれる?」
小山内は、クーラーの効いたリビングに案内してくれた。
真夏の暑い中を歩いてきた俺にはとても快適だが、家にいた小山内にとっては寒すぎないか?
あ、だからサマーセーターなのか。
小山内の気遣いに心がまた騒ぎ始めてしまう。
ばかばか言いやがるけど、こういうところ、やっぱり、俺は小山内のことが好きだ。
隠しておかなくてはならない気持ちが溢れそうになった。
幸い小山内は席をはずしていたからなんとかなったが、そろそろ限界かもな。
「これ飲んでて。」
小山内がお盆を持って戻ってきて麦茶を出してくれた。
「ありがとう。嬉しい。」
よく冷えてて、熱い喉にとても嬉しい。
「もう一杯飲む?」
「いや、もう十分だ。」
「それじゃここで待っててくれる?」
「俺も手伝うよ。」
「そんなのいいわよ。お客さんなんだからゆっくり待ってて。」
「手伝わせて欲しいんだ。」
少し気持ちが溢れてしまっているのを俺は感じた。
許されるなら、もっと小山内と一緒にいたい。
小山内は一瞬怪訝そうに俺をみたが、すぐに笑顔に戻った。
「いいけど、あんたが入りそうなエプロンないわよ。汚しても知らないわよ。」
「大丈夫だ。気をつける。」
「じゃこっちにきて。」
俺は小山内について少し手前から美味しそうな匂いがしていたキッチンに入った。
「せっかくだから、あったかい玉子焼きを食べてもらいたくて、今から焼くの。でも他は出来てるから、テーブルの上のものをさっきの部屋に運んでくれる?」
時間通りに着いて良かった。テーブルの上には作りたての焼きシャケが湯気を立ててる。他にもおひたしや冷奴も。
「あんたの注文が玉子焼きだったから和食にしてみたの。」
「ありがとう。嬉しいよ。」
小山内は何も答えず、ただ頬を赤くして俺に背中を向けた。
テーブルの上にはもうお盆も用意されている。その上に用意されていたものを慎重に載せる。小山内の心遣いの品をこぼししたりできない。
慎重に載せた料理は慎重に慎重を重ねて運ぶ。
初めての家だから、どこにつまづくかわからないからな。
そうやってキッチンに戻ると、口元に笑みを浮かべながら小山内は集中している空気を漂わせて手際よく玉子焼きを焼いていた。
「ここにお味噌汁も作ってあるから、お願い。」
小山内が振り返らずに俺に声をかけた。
たしかにテーブルの上には味噌汁用の空のお椀も出されていた。
「わかった。」
俺は、小山内が玉子焼きを焼いているすぐ隣に並んで、鍋の蓋を開けた。
立ち上がる湯気とともにいい香りが溢れる。
その瞬間、俺のの心に突然浮かんできた言葉があった。