第103話 雨のあと (5)
俺は男の子の様子を見て、安全とスピードの天秤をスピード寄りに少し傾けた。
さっきから男の子が掴まっている草があるということはあの辺りには草が生えて、この流れに耐えられるだけの根を張れる固い川底があるはずだ。
さっき俺と小山内が、林の中に入っていく滑りやすい泥の道を、刈られた草の株を伝って乗り越えたように、しっかりした草の根が張っているなら、ここからはいきなり深くなったり、不安定な足場になったりすることもないに違いない。
だからスピードを重視しても大丈夫なはずだ。
慎重に、だが急いで近づく。
目をつぶり歯を食いしばって耐えている男の子の表情が、もうはっきり見える。
長く伸びている草掴んでいる手が震えているようだ。もう限界が近いのだろう。
男の子に近づくにつれ少し水位が下がる。いや、中洲のようにここは少し盛り上がってるのかもしれない。
ここの水位は俺の腰より少し上くらいだ。俺があの男の子の川下側に回り込んで俺の体で男の子を支えれば、きっとなんとかなる。
「おまえの川下側に俺が回り込んで支える。それまで死ぬ気で草に掴まってろ。」
俺は川の流れの音に負けないように男の子に大声で呼びかけながら近づく。
男の子はかすかに頷いた。
男の子まであと1メートルもない。俺と男の子の2人が手を伸ばせば届くかもしれない。だが、握力勝負になったら、今まで流れに耐えて草に掴まっていた男の子の握力はあっという間に尽きるだろう。
焦る心をぐっと押さえてもっと近づく。もっとだ。
男の子と並んだ。
あと一歩。
男の子の後ろに回り込み、足場を確保したあと男の子の背中側に俺の体を密着させて、男の子の体重を受け止める。
「うっ!」
重い。小柄な小学生の姿からは想像できないくらいの重さが俺にのしかかってきた。
俺も何本もの草を両手にぐるぐると巻きつけるように絡ませて、両足と両手で体を固定する。
男の子の耳元に口を近づけ俺は言葉をかけた。
「よく頑張ったな。だがまだ気を抜くな。俺の力じゃお前を岸に連れ戻すことは無理だ。だが、橋の上にいるお姉ちゃんが助けを呼んでくれている。
命を預けて信じていいお姉ちゃんだ。だから、もうちょっと頑張れば助かるぞ。」
男の子は歯を食いしばって頷く。
男の子の力が尽きつつあるのだろう。俺にかかる体重が次第に重くなってきた。
大丈夫だ。
俺も小山内の卵焼きをまるまる1個もらうまでは死ねないからな。
必ずこの子を助けて、俺も戻るさ。
足元はまだしっかりしている。手に巻き付けている草は、軍手を通しての感触だが千切れそうにはなっていない。
耐えて待つ。
ざーざーと音を立てて俺の両脇を茶色く濁った水が流れていく。
男の子の体の震えがダイレクトに伝わる。
「大丈夫だ。信じろ。」
俺はその言葉を繰り返す。
ようやく俺の耳にも微かにサイレンの音が聞こえてきた。
あれはパトカーだっけ?消防車だっけ?
どっちでもいいから、早く来てくれ。
男の子重みが一層俺の体にかかってきた。
「しっかりしろ。まだ助かってないぞ。」
俺の言葉は俺自身にも向けている。
しっかりしろ、俺。
ぐっと全身に力を込める。
橋の上から小山内が声を上げて俺たちを応援してくれる。
「もう少しよ!頑張って!」
「ああ!聞こえてる!」
叫ぶ俺の口に跳ねた川の水が飛び込んでくる。
ぺっ。
サイレンがすぐ近くまで寄ってきて、止まった。
車のドアの音が響いてくる。
着いたな。
「大丈夫か?」
橋の上から大声でかけられたのは大人の声だ。
俺は男の子から目を離さず答えた。
「俺は大丈夫です。でもこの子の力は尽きそうです。俺はここでこの姿勢で耐えるのが精一杯です。岸には戻れそうにはありません。」
助けが来たら伝えようと、1分1秒を長く感じながら頭の中で繰り返していた言葉をようやく放つことができた。
その時、また1台サイレンを鳴らしてきた車が止まった。
男の子がその音で力が抜けてはいけないから、俺はまた声をかける。
「おい、もうすぐ助かるからな、踏ん張れ!水なんかに負けるな!」
男の子が微かに体を動かす。
その時ロープを手にしたオレンジの服を着た人が、橋のたもとの階段に姿を現したのが俺の視界に入った。
俺は叫ぶ。
「俺が男の子を支えているのが見えますか?この子の力が尽きそうです!この子を先に助けてください!」
返事はよく聞き取れなかったが、相手がしっかりこっちを見たので多分伝わっただろう。
あと少しで助かる。
そこから先は、まあ俺が期待したよりも時間がかかったが、さすがプロという手際の良さだった。
先に男の子が救出され、到着していた救急車に乗せられて運ばれていった。
そのあと、俺が助け出された時には、他の2人子どもたちの姿も見えなかった。
もしかすると、万が一の時、悲惨なシーンを見せないためにどこかに連れ出されていたのかもしれない。
橋の上で座り込む俺も救急車に乗るか聞かれたが、幸い全身ずぶ濡れになった以外、どこにも怪我がなかったので断った。
俺が助け出された時に真っ青な顔で「俺くん!」と叫んで駆け寄ってきた小山内の方がよっぽど死にそうな顔をしてたしな。こういう時は多少きつくても元気に振る舞わないと、小山内が自身を責めかねない。
だから俺はなんでもないような顔で小山内に言ってやったよ。
「次の表彰式は2人一緒だな。」
ってな。
まあラノベやマンガなら、ここでこの話は終わるんだろうが、現実はそううまくは行かない。
俺は「疲れているところを申し訳ないのですが」と話を聞きに来た警察官に何があってどうしたのかを説明し、服が乾くまで気持ちが悪いまま過ごし、レンタルした自転車を返しっていうさらに疲れる過程をこなした訳だ。
もちろん、その間、小山内が自分のタオルを貸してくれたり、濡れた服を絞るために脱いだら小山内が「きゃっ!」と言って手で目を覆ったり、小山内が「私もあなたの家まで行って、説明するわ。」って言ってわざわざ家までついてきてくれたりと、まあ、いいことだらけだったがな。
もちろん、最後のは一旦断ったんだけど、小山内が
「あなたがなんと言っても、私が心配だからどうしてもついていくわ。」
と言い張ったからだ。
あとで冷静に考えたら、俺があんなよれよれの状態で家に帰ったら、両親が心配すると思ってくれたんだろう。
こうして俺たちは、夏へのステップを踏み外すことなく登り切った。
もうすぐ夏休み。
時はまさにひまわりの季節だ。