時(3)
3
「知りたいのは、最初からだ。どのようなことがあった」
と、ディーは尋ねる。
聞かれた男は、見知った郷士だ。
故郷を離れ、社団の兵として雇われていた。
遠い異国に、富や領地を求めてやってきた。雇用された兵たちは、誰もがわけありだ。
流れてきた身だからだ。ならず者と呼ばれることすら珍しくない。
それでも、契約に従う知恵はある。
生きのびるために群れをつくるのは、狼だけの習性ではない。
社団の領主、群れの頂点が、争うなと訓じたのだ。相当な理由なしには、破らないはず。
「ただ知りたい、というのではない」
ディーは、脇腹の傷をかばう男に、片膝をついて顔を寄せる。
そうして傷の様子も探るが、どうやら矢傷ではない。
並行に走る鋭い裂傷。刃物であれば、相当に変わった得物、ということになる。
「お前が見たままを、詳細に知りたい。思い出しながら話してくれ」
「わかっている、踏査官。これは、たった今のことだ。目の前で起こった。忘れるはずがない。ありのままを話そう――」
ガラエキアの男は、興奮からか、震えがちな唇で話し始める。
それは、次のようなことだった。
月は、出ていた。
青白い月光のもとだ。夜に慣れた目であれば、かろうじて見える。
そうはいっても、密生した森だ。まして狭路では勝手が違う。
先は見通せない。
潜んでいるものに耳をそばだてても、木々の根元に、藪の中に、枝葉のざわめきにまで、あらぬ気配を感じてしまう。
松明をかざし行軍したいところだが、できない。
案内のものは、人狼族の若い兵士だ。
同じ人狼の、敵方の習性にも通じているはずで、その彼が言う。
炎の臭いは、わかる。くすぶり爆ぜる火の粉の臭気は、遠く地平の先まで離れていてもわかるだろう――と。
そのように聞いてしまえば、明かりは使えなかった。
月が森の陰まで落ちないうちに、かたをつけたかった。
ひとの砦より出でて、かなりの距離を歩いたが、いまだ狼王の治める領内にあった。
王弟が鎮守する城市からであっても、さほど離れていないだろう。敵方が物見に入りこんでいるとすれば、ずいぶんと内奥まで、ということになる。
思えば既に、内通を疑っていた。
道をゆけば足跡が残る。ひとが何日も行軍すれば、食事もせねばならない。
そうした日々を生きるための痕跡は、隠しようがないのだ。隠密に長けた斥候とはいえ、このような奥地まで忍び入れるものか?
前方には、蛇のようにうねる、下草に湿った道が続く。
草が刈られた土の道であれば、松明の明かりの下ならば、ひとの兵にも追跡できただろう。
この今は、どちらでもない。
案内のものに任せるしかない。だが、命を預けざるを得ない彼は、異国の人外なのだ。
「どうした」
と、男はたずねた。案内が、立ち止まったからだ。
「ここに、やつらがいた」
人狼の案内が、答える。
腰を落として、なにかを探しているようにも見える。ひとには見えぬ何らかの痕跡か。
「では、この先にいるのだな。追跡できるか」
「できる。はっきり見えている」
声は、自信ありげだ。
少年から脱したばかりの若者が、肝が据わっている、と男は思う。
「ならば、このまま追おう」
案内は、無言でうなずいた。
そのまま追跡を続けていると、再び、案内が立ち止まった。
「どうした」
「ここに、やつらがいた」
同じことを言う。
男はさらに追跡を続けさせるが、似たようなことが、何度も繰り返された。
その都度、案内の返事はまったく同じだ。
やつらがいた、と言う。
ガラエキアの男は、疑い始めた。適当なことを言っているのではないか。いた、と言うだけならば誰でもできる。
引き返すわけにもいかず、さらに追跡を続けさせた。
「ここに、やつらがいる」
今度は、答えが違う。
いる、と切羽詰まったものになっていた。
だが、なにものの姿も見えない。森が自然に放つ音、虫のちりちりと鳴く声や、夜鳥のほうと鳴く声はあっても、ざわめく気配が感じられない。
「いる、というのか」
「そうだ。やつらがいる」
「潜んだ足跡が見えるのか」
「見えない」
「では、どうしてわかる」
「見えるからだ」
案内の手元をちらりと覗き、男は眉間に深いしわを刻む。
なにかが妙だ。やつの手は、刀の柄にかかっているのではないか。抜く気なのか。
返答は、矛盾するのではないか。どのような意図か。
「妙ではないか? 見えないのか、見えるのか。俺の耳が聞き違えたか?」
「もう一度、本当のことを言う。見える。やつらは、ここにいる。間違えようがない」
周囲の兵にも、案内の声は聞こえた。
ざわめきが一瞬だけ広がるが、お互い静かにし合うように、手のひらで制す。
言葉どおりに受け取れば、既に、敵方の包囲にあるのだ。
狭路に姿を見せていないということは、左右の森の中、ということであろう。
木々の背後に隠れているのか。
下生えに伏せて、襲撃の機会をうかがっているのか。
誰ともなく、皆がそれぞれ武器を抜いた。
刀の刃を、鞘に滑らせた。弓には、矢筈を握る指を添えた。
火筒は魔法の領域であるから、まだ使えない。よほどのことがなければ禁止されている。
案内の男も、同じように刃を見せていた。その動作が、殺気を生んだのだ。
「場に固まるな、散れ。おのおの、左右に当たれ!」
男の指示で、兵たちが二手に分かれた。先手しかない、との判断だ。
森へ跳びこみ、茂みに分け入り、気配を頼りに刀を向けた。そんなものは、勢いに任せただけの稚拙な戦だ。しかし、それしかない。
既に囲まれ、相手からのみ見えるとすれば、先の先を取ることだけが望みとなる。
しかし、その場には誰もいなかった。騙されたのだ。
兵たちが悪態をつき戻る中、案内の兵は、悪びれずにその場にいた。
憮然とした表情で、男が掴みかかっても、憎々しげに「失敗した」と、つぶやく。
「諦めろ。追跡は無理だ」
「お前が、そのようにしたからだ。我らは諦めない。小賢しい時間稼ぎで逃げようというのなら、徹底的に追うまでのこと」
刀を握らぬ手で、思い切り、案内の兵を殴りつけた。
彼のほうでは、手に刀を持っていたから、逆襲しようとする素振りがあった。それを払い、斬りつけ、まだ息があるから縄で縛り上げる。
一部を見張りに残し、足の速いものを中心に、追撃の兵を走らせた。もちろん、自らも先頭に立つ。
その後のことは、男は、あまり詳しく覚えていない。
ただ、混沌そのものだった。
〈つづく〉