時(2)
2
先に降りたディーは、手助けしようと振り返る。
どう支えていいものか、礼節に迷うわずかの逡巡であったのに、少女の機敏さには間に合わない。
シュトカは軽い身のこなしで、乗馬の背をまたぐ。鐙から爪先を抜き、一息に地面に飛び降りてしまう。
馬の背というものは、存外に高い。
乗るときには、持ち上げてやらねばならなかったほどだ。
どうやらシュトカは、触れたものにすぐ適応する。うらやむほど、柔軟なのだ。
夜警の目を潜り、ひとの住む砦に入り得たのも、身軽さと適応の力によるものか。そのように、ディーは考え始めていた。
「父様、連れてきた――」
シュトカは、まっすぐに駆けていく。
少女を抱き留めたのは、黒褐色の毛皮を両肩にかぶった、偉容の大男だ。
長身のディーと比すればさほど差がないはずだが、相対すれば、大きさがまるで違う。
肩も腕も、地を踏む両脚も、なにもかもが太く堅肉に見えた。
闊達に伸ばされた銀灰色の髪が、同じ色の頬髭、そして顎髭まで途切れなく続く。
目つきが鋭く、鼻筋が高く通り、まず端整と言っていい顔立ちだ。
よく見れば幾本もの、細緻な編み込みがなされている。女性が髪を結い上げるように、男は髭を装う文化があるのだ、と知れる。
「よくやった、シュトカ。お前は、本当に素晴らしい。我ら一族の小さな誉れ、子狼のしなやかな尾よ」
岩から削り出してきたような、ごつりとした手のひらで、男は少女の頬に触れる。背中を軽く叩く。
「それで、彼が、我らの言葉を話すものだな?」
「ディー、というの。〈家〉の名はジュバル。殻国から来た踏査官よ」
「知っている。こっちへ来い」
手招きされた。
言葉の最後は、ディーに向けたものだ、とわかる。
会話など始まっていない。いまだ、小さな所作から発散される、言語にならない意思の断片に過ぎない。
それなのに、圧倒されてしまう。
ディーのほうでも、話に聞いた程度にではあるが、彼のことを知っている。
オウスヴァラは、人狼の棲まう国だ。狼王を頂点に、ごく普遍的に見られる、王と領主の関係で治められている。
ガラエキアのような、ひとが成す国家と相似ではあるのだが、なにしろ大断崖を越えた外つ国のことだ。
実際に踏み入り、見聞きすれば、祖国にはない独特のものがいくらでも見つかった。
たとえばオウスヴァラには、戦を生業とする生粋の武人がいる。
金銭で雇われる傭兵ではない。小領主である、契約身分の騎士でもない。
いわば専業の、国家そのものに属する軍人であった。
今、まさに目の前に立っているものも、そうしたひとりだ。
彼の名は、スヴァロトという。
狼王の実弟で、王の兵一千人を率いる。直属の常備軍、というわけだ。
言葉遣いに老練さを滲ませるが、まだそのような歳ではない、膂力あふれる壮年のはずだ。
決して侮ることのできない、オウスヴァラの要人であった。
「殿下」と、ディーは敬称で応える。「なぜ、このような時分に。またどうして、私のようなものを」
「話を聞いたからだ。人づてに、な」
王弟の視線が、娘に向く。
今はシュトカは、一歩下がった位置に立ち、父親とディーの会話を黙って聞いていた。
「宴では挨拶したな、踏査官」
「はい。覚えております」
「隠していたであろうが、そちらの首領とは、随分と親しいように見えた。端々にな、信頼がある」
「そのように見えましたか。ですが、私はただの踏査官で――」
「見えたよ、ずっと見えていた。だが、まあ良い。呼んだ理由は別だ」
「それは、どのような――」
「宴には、あのいきものが供されなかったな。お前が、そうさせたのか?」
羊のことだ。
一瞬、躊躇させられたが、ディーは素直に答える。
「はい」
「なるほど。うちの娘にくれてやった、ということか」
「結果として、そのようになった、ということです」
「そうか。よくわかった」
王弟はうなずき、ディーの肩を叩く。見たままの、重たい手のひらだ。
異国の言葉はわかるが、感情が掴めない。隠しているのか、元来そのような質なのか。
周囲の兵たちも、まるでふたりの会話には無関心に見える。
「かしこまるな、踏査官」
と、王弟は言う。
すらりと形のよい鼻に、獰猛な狼がそうするように、幾重にもしわを寄せる。
唇の端だけに笑みが浮かぶ。
「娘には、親切をしただろうが。だからだ。お前を信用することにした。話のわかる相手として、だ」
親しみを表しているのか、威嚇なのか、判断できない。
シュトカよりわずかに薄い碧色の瞳の中心に、あなぐらのような瞳孔が開いている。瞬きも少ない。突きさすように見据えてくる。
ディーは、つとめて平静をよそおうが、冷や汗が浮かばぬか、畏怖を見透かされていないか案じてしまう。
シュトカの瞳にも、どこか心配の色が見てとれた。
「呼んだ理由は、こいつらだ」
王弟は、ディーの肩に手のひらを置いたまま、低い唸るような声で耳打ちする。
「北部からだ。我らのいとこに当たる部族のものが、たびたび斥候に来ているのは知っているだろう。国の境が侵されている」
「聞いております。首領が、狼王陛下と会見し、私どもで退治するよう取り決めた、と」
「そうだ。じきに小麦の収穫だ。やつらは狩猟に長けるが、我らほどには農耕を知らぬ。だからだ。略奪に入れるかを試している。おまえたちが、そうはできない、と思い知らせるならば、うちとしてはありがたい」
「あちらにいるのは、そのために派遣された、我が国の兵です。なぜ、殿下の軍に囲まれているのです」
「そうだとも。それこそが、今のこの問題なのだ」
王弟は、唇の端を捲りあげた。音もなく、おそらく、笑ったのだ。
ひとのものではあり得ぬ鋭い犬歯が、銀色の口髭の奥、灰色めいた唇からのぞく。
「我らは取り決めた。お前たちがやつらを追い払い、結果としてやつらの領土まで獲るのであれば、それはいい。こちらにも益があるからだ。武装を許し、通行の自由を与え、道案内の兵も貸した。だが、これはどうだ?」
王弟は、あごを動かす。
彼の手勢が取り囲む、ガラエキアの兵たちを見ろ、とディーに示した。
「案内の兵が、裏切りにあった。お前たちに、だ。我らの夜警が、助けの声を聞いた。だから駆け、駆けつけたのだ。それが、今のことだ、わかるな?」
すべてを理解はできなかったが、ディーは眉を曇らせ、ゆっくりとうなずく。
倒れている者がある。血潮の匂いもする。
森の夜風が枝葉を擦りぬける、かすかな音が不穏に聞こえてしまう。
「そのように、確かに見えます。傷兵は奥国のものに見えますし、我らの兵が、彼を取り囲んでいるのも事実です」
ディーの鼓動が、ようやく平静に戻る。
「もうひとつ切っ掛けがあれば、始まってしまうぞ」
と、王弟スヴァロトは低い声を出す。なにかに聞かれまいとするように、囁いてくる。
「このような夜に言葉を出すのは、不吉なことだ。呪いが籠もれば、本当のことになる。だからだ。なにが始まってしまうかは言わぬ。わかるな、踏査官」
「わかります」ディーも、静かにうなずく。「ならば、時間をください。私が彼らの話を聞きます。必ず、事の次第を突きとめましょう」
やるべきことが決まったなら、心は落ち着くものだ。
ましてそれが元からの役割であれば、よりいっそう、しんと静まってくれる。
「よし。そのように答えると信じていた」
王弟は、もう一度、唇の端を吊り上げた。
「外つ国の言葉は、わからぬ。やつらが話そうとする我らの言葉も、断片ばかりで聞き難い。だから呼んだのだ。娘の話を思いだした。娘に向けて遠吠えたのも、それゆえだ」
どうやら、夢ではなかったらしい。
遠吠えは実際にあったのだ。半ば眠ったままそれを聞き、やがてシュトカが来た。
呼ばれた理由も、今では、整然と理屈が繋がっている。
「殻国のものと、案内のもの。双方に、言い分を聞いてきます。囲みの兵に、道をあけさせてください」
答えを待たずに、ディーは歩き始める。わかりきっているからだ。
予想外であったのは、小走りにシュトカが駆けてきたことだ。
ディーのすぐ隣を、相棒であるかのように毅然と歩む。
振り返ると、王弟は両腕を組み、唇は無言だ。
あごをぐいと持ち上げ、尾で話す。
巨躯に見合った、太い尾だった。ゆらり、一度だけ大きく振れる。
共にゆけ――と、ふたりに告げていた。
王弟が言わんとするところは、わかっていた。
彼が言葉にしなかったものは、戦だ。たとえ小競り合いといえども、どちらかに死者が出ることになれば、それはもう収まらない。
良い、悪いではない。どちらが先に始めたのか、ということでもない。
死者に対する強い想いが、復讐を要求することになる。
それは一面では正義であるゆえに、厄介な問題だった。
どこで復讐が終わるのか、なにをもって終わりとみなすのか、という連続性の難問となってしまう。
事情を問うディーの傍らで、シュトカは耳をそばだてている。緊張した面持ちだ。
外套の縁をぎゅっと握られて、ディーはその指に自分の手を重ねてやる。
あるいは、それが起こってしまったときには、自らの背に彼女を隠せばいい。
「裏切ったのは、やつが先だった」
と、ガラエキアの兵が言う。
「敵対しているとはいえ、同族だ。やつらも、ひとではないからな。人狼どうしで我らを陥れようと企んだ。騙され、まさかの奇襲だ。目の前を見ろ、踏査官。血を流したのは、やつだけではないぞ――」
少なからず、矢傷を負ったものがいた。濃すぎる血の匂いは、そのせいだ。
簡単に収まる問題では、なさそうだった。
〈つづく〉