第二話 時(1)
第二話 時
1
青白い、真半分に欠けた月だ。
どうしてか、寝室の奥深い角まで、しらしらと月明かりが差しこんでいる。
半ばまで地平線へと降りてくる異国の月を、ディーは想起していた。
ずっと遠くで、かすかに、狼の遠吠えがあった。
きっと夢の中だ。
ふたつの月のうち、大きな真の月がおぼろに夜を照らす。翳の月は小さな輝点となり、真の月に寄り添っている。
異国の月にも、淡い明暗で刻まれた斑模様はある。
真の月に見えるのは、故郷と同じ形の斑ではあるが、見慣れぬ角度に倒れている。不思議なものだ。なぜだ、と考えてしまう。
より不思議なのは、過去にどこかで知った香気がある。
柑橘だろう。呪術医が、大断崖を越えてくる旅に、必ず携えるようにと念を押した。
都の医師たちは真っ向から反対したのだが、どういうわけか、たしかに旅の病は減った。
その香りが、強く記憶に刻まれている。
今もまた、そのような香りが鼻腔に漂ってきて、ディーは夢かうつつか、己のいる境界を疑い始める。
初夏の頃だ。じきに小麦の収穫を迎えるこの季節は、夜半でも風は暖かい。
ゆるい風の動きを頬に感じ、違和感の正体にようやく気づく。
鎧戸を落としたはずの窓が、開かれているからだ。
だから、月明かりが届いている。
まばたきしようとすると、衣擦れの音があった。ごく軽い薄物を身にまとうか、それとも逆に、はだけるときの音か。
窓辺からこちらへ向かい、床板も軋ませず、ひたひたと歩む気配がある。
慣れぬ環境で眠りが浅いためか、金縛りにあったように手脚が重たい。それでも、かろうじて指先を動かす。
すぐ近くだ。寝台に、みしりと重みがかかる音。呼気すら感じられる。
まぶたを開けた途端、なにかが剥き出しの腕に触れ、ディーはびくりとすくみ上がった。
「まさか、君なのか……なぜ――」
しっ、と人さし指を立てられてしまう。
見知った少女の影だ。
それでも、予期し得ない遭遇に声がかすれ、はなから大声は出せていない。
「静かに、ディー」と、シュトカが囁く。「驚かせるつもりはないの」
「だが……驚かない理由が、ない」
今度こそ意図的に、声を低く抑える。
いまだ夜に目が慣れず、シュトカの影は輪郭しか判別できない。
ディーは息を凝らしたまま、半身を起こす。油断なく周囲を見回し、自らが目覚めていることを知る。夢ではないが、半ばまで信じがたい。
なぜ、ここに?
どうやって夜警の目をくぐったのか?
窓を開けたのは、シュトカなのか。
砦は高い柵に囲まれ、門は固く閉ざされている。越えることすら、ままならないはず。
問うべき言葉が多すぎて、喉から先に出ようとしない。
ようやく薄明かりに慣れてくると、シュトカの華奢な体が見えた。袖のない亜麻のチュニック一枚を、胸下の紐で結わえている。
小さな撫で肩が、弱々しい印象を持たせそうなのに、そうはならない。
豪奢な毛皮の襟巻きが、銀灰色のふくらみを首周りに与え、どこか夜の王女のような輪郭を与えていたからだ。
ディーは深く、だが、抑えた吐息をつく。
「ひとつ、教えてくれないか」
「なに?」
聞き返すシュトカは、片膝を寝台に載せ、近くまで身を乗り出す。
獲物を捕らえる狼のように、ディーの手首を掴んできた。
「私は、なにから尋ねればいい?」
「なにも」
簡潔だった。腕を引かれる。
その細い四肢は意外なほど力強く、唖然としているうちに、寝台から引きずり出されてしまう。
「一緒に来て、ディー。連れてくるように言われたの」
「誰に言われた」
「父様に」
「いったいどこから」
「知らない。きっと、遠く。だけど呼び声がある。わかるはず」
どうにも、納得できないことばかりだ。
問いに対して、返ってくる短い言葉が、さらなる疑問を生む。
ならば、実際に見に行ったほうが早いのではないか。そのように思わせるものがある。
「わかった。だが、着替えさせてくれ。せめて外套を羽織らせてもらえれば、多少なり、まともな姿で出かけられる」
「どうぞ」と、シュトカは小首を傾げる。「それくらいの時間なら、待ってもらえるはず」
「君もだ、シュトカ。その格好は――」
ディーは、できるだけ重くない薄手の外套を選ぶ。
シュトカの両肩に、かぶせ置く。
「丈はだいぶ長いが、引きずってもかまわない。気になるようなら、紐かベルトでたくし上げればいい。そのあたりにあるものを使ってくれ」
シュトカは、大きすぎる外套の左右を、かわるがわる持ち上げる。
見慣れぬものを探る瞳で、裏地の毛皮に顔を寄せていた。
手早く身支度したディーは、匂いまで嗅いでいたシュトカの肩を、とんと突く。
「急ぐのか?」
「できるだけ早く」
「馬を使ってもいいが――ズボンをはいてもらわねば。それから、私と相乗りになるが、それでもいいか」
良い、という声はなかった。それでも返事はわかる。
たくし上げた外套の裾から、銀灰の和毛、尾の先端がのぞいていたからだ。
ディーはうなずく。手持ちから最も短いズボンを選び、シュトカに手渡す。
自らは模造の尾をベルトに提げ、ゆこう、と声に出さず促した。
月が、黒々とした森の陰まで落ちないうちに、その場所に行き着いた。
シュトカの言葉どおり、ひとの砦から遠方ではあったが、いまだ狼王の治める領内ではあった。
密に生えた高い樹々の合間をうねって通る、オウスヴァラから北方へと抜ける狭路だ。
馬が悠々、歩み入るほどの幅はあるが、多勢がひしめいて通るには狭い。
足跡も荒く残るその道に、十人ほどのひとが塊になっていた。
さらに前後を、より多勢の人狼族が挟み、互いに油断なく睨みあう。
場にいる者はみな、鉈や刀を抜き放ち、あるいは弓を構えている。ときおり夜鳥の鳴く暗がりのなか、ただならぬ気配が、きんと張り詰めていた。
乗り慣れぬシュトカを鞍に座らせ、その後ろにまたがって手綱を繰るディーは、とっさに馬を止める。
前方には、長物を手にした人影だ。
さらには荒ぶる足跡が、乱された左右の下生えが、近寄らずとも不穏なものを感じさせる。
馬の首を巡らせ、外套をひるがえし、みずからの腕と背の陰にシュトカを隠す。
そのふたりに向け、大きく、太く、吠えるように呼びかけてくる声がある。
震えるような巻舌音は、人狼族のものだ。
強く、闇を裂いて響く。
「ようやく来たか、シュトカ。待ち兼ねたぞ」
オウスヴァラの将兵のうち、最も狼王に近しい将軍の声だ。
王の実弟でもある彼が、親しげに少女を呼ぶ。
「父様――」
と、シュトカは短く応えた。
〈つづく〉