尾(5)
5
厨房番の男は、目を大きく、丸く見開いた。
「なんとね。不思議な頼みもあるものだ」
「我々の国では、宴に供する品付けは、すべて厨房の長が決める。その職分は、ただ、決められたものを調理するだけではない。品付けの技術をも、見込まれているからだ」
「わしらだってそうだ」と、男はうなずく。「だけどさ、考えてもみてくれ。狩りから戻った一行が、見事な鹿を獲ってきたとする」
「言いたいことはわかる。そうした獲物は、王冠と剣に生きる者が好む。瑞兆でもある。それだけで、宴を開く理由には充分だ」
「だからだ。供さないはず、ないだろうが? 前代未聞だ。あんたらの献上品だって――」
「理由は、三つある」
ディーは、手のひらを胸の高さに持ち上げた。人さし指を立てて示す。
「ひとつ目。我々、ガラエキア使節の長は、彼だ」
立てた人さし指を脇へ滑らせ、ジェンテに向ける。
「使節長であると同時に、株式社団の首領でもある。九人いる首領の、そのひとりだ」
「株……なんだって? まったくわからない。今のは、唸り声ではなく、わしらが話す言葉と同じものなのかい?」
「すまない。適当な訳語を思いつかなかった。我々の国でも、新しい概念なんだ。そうだな……強いて喩えるなら、王の後継ぎを、王子みなで継ぐことにした。全員が平等に、同じだけの力を持っているので、話し合いですべてを決める」
「無茶苦茶だね。うまく行きっこない。必ず争いが起きるし、言い争いばかりで、なにひとつ決まらんだろう」
「喩え話だ。うまく行くかどうかは、まだわからない。新しいと言っただろう」
「へえ。えらいことだ」と、男は肩をすくめる。「とはいえ、外つ国のことだからな。尾のない種族が同盟を求めてきた、と聞いた時分には、疑ってかかったものさ。そんなものと、どうやって話す? 言いたいことの半分もわからんじゃないか、とね」
「なんとかなるものだ。私たちは、こうして話せている」
「片言でな。いや、これは、すまん」
男の、太い眉と目蓋が、哀れむように下がった。
「尾のことをあれこれ言うのは、失礼なことなんだ。気にさわったなら謝るよ」
「そうだったのか――」
思わず見返ったが、シュトカは知らぬ顔でそっぽを向く。
「ともかく、ひとつ目だ。我々の、いわば限定的な王である彼が、羊料理を嫌っている。味などではなく、どうにも、あたるらしい」
「えらいことだ。腹が痛くなるのかね?」
「そうだ。だからでもあるのだが、二つ目――」
ディーは、指の二本目を立てる。
「あくまでも仮定の話だが、彼の腹痛を、誰かが毒をもったせいだ、と思われては困る」
「そりゃあ、とんでもないことだよ。本当にえらいことだ。あってはならん」
「もっと困るのは、同様に、そちらの狼王か、あるいは近しい上種の者があたることだ。こちらが毒のあるいきものを、わざと仕込んだ。そのように思われたとしたら、だ」
「とんでもない! そんなのは、わしだって大いに困るさ。毒を仕込んだなんて……あんたらだけじゃなく、わしだって疑われるじゃあないか。なぜって、こんなふうに、わしらが親しげに話しているのを、誰かが見ていたらさ――」
冷や汗を垂らさんばかりだ。
シュトカが、意味ありげな視線で、ぱしぱしと睫毛をしばたたく。
「まさかだよ、お嬢、そんなのはいけないよ。父君には決して、そんなおそろしいことは……」
厨房番の尾は、ふくらんで毛が逆立っているように見える。
「料理はしないんでしょう?」と、シュトカは言う。「それなら、問題ないと思う。きっと彼の言うとおり。誰も食べなければ、なにもあたらない」
「そうは言うがね……。典礼の長が、なんと言うか。しきたりにない、と怒鳴り込んできそうだよ」
「まだ、三つ目の理由がある」
ディーは、シュトカを見やって、軽く目配せした。
「羊という生き物には、食に供する以外の使い道がある。あの長毛を見て、なにか気づかなかったか?」
「思ったさ。なんとも珍妙な生き物だ。どこもかしこも毛に覆われて、どんな面構えなのかもよくわからんね。この季節には暑すぎるだろうに、哀れな生き物じゃあないか」
「きっと、毛を刈るの」ようやく、シュトカが口を挟む。「絹や亜麻の代わりに織物に仕立てたら、あたたかい布地になると思う。今は暑すぎても、冬には役立つはず」
「わしらの土地には、毛皮があるだろうに。よそが羨むほどにな。毛皮はオウスヴァラの誇りで、なにより一族の魔法が――」
しっ、とシュトカが人さし指をたてる。
「客人の前よ。そういう話ではないの。あくまでも、着飾るための素材として。選べるものは多いほうがいい。姉様も、母様も、大伯母様だって、同じように思うはず。だから、私は、あれが欲しい。父様にも、そう伝えるつもり」
ううむ、と男は唸った。
困惑した瞳を、ディーのほうに向けてくる。
目的は達成された。正しい道筋に乗ったことを確信して、ディーはうなずく。
「素晴らしい提案だ。我々は、彼女に手伝いをつけることができる。糸の紡ぎかた、紡ぐための道具を教える、専門の召使いを贈ることもできるだろう。厨房の長殿の了解が得られ、それらを彼女が望めば、だが」
構築された言葉の城塞は、筋道だっているはず、とディーは思う。
ほころびがあるとすれば、未熟な半分、模造の尾だ。言葉というものは、基本的に中立だ、とディーは信じている。
声の調子。表情。オウスヴァラにおいては尾の動きが、さまざまな傾きを言葉に与える。
彼らへの敬意を示すという、最低限だけを守れていればいい、と願う。
厨房番の男は、黙ったまま目を閉じ、やがてうなずいた。
「どうにも、お嬢に従うのが良さそうだね。あれの肉は宴に供さない。お嬢の〈家〉に頼んでもらえりゃあ、たいがいは文句なかろう。あんたらだって、上種のだんながたに、それとなく話を通してくれなきゃ困るよ」
ディーはうなずく。
「わかった。それが、彼の役割だ」と、ジェンテに視線を移す。「首領だと言っただろう。社団は、そのためにこの地にやって来た。お互いに、ないものを贈り合うために。まずは、最初の贈り物がうまくいきそうで、彼は本当に喜んでいる」
「そんなものかね」
男は、片方の眉を大きくさげて、肩をすくめる。
不安げに揺れる尾の動きは、納得した、という傾斜の仕方ではなさそうだった。
翌日は、明け方から小雨が降りしきった。
霧のように薄く細い、重さを感じさせない雨だ。
目を醒ましたディーは、宿舎の軋む扉を大きく開いた。
しばらく呆然と、一面の濡れた草地、営巣を囲む馬防柵に向かって下る、丘の傾斜を眺めていた。
生まれ故郷で見たような、不思議な懐かしさがあった。雨土の匂いか。それとも、軒下で休む鳥たちのさえずり、敷石に弾ける雨音か。
そういったものを包みこむ霧雨を、長い間、ずっと聴いていたことがある。そんな気がした。
遠くから、羊たちの鳴き声が、真っ白な霧に乗って流されてきた。
寝室に戻ったディーは、毛皮の外套をしっかり被り、再び扉を開ける。やがてやむであろう霧雨の中に、静かに足を踏み出した。
小径の先、最初に出遭った空き地の柵に、シュトカがもたれかかっていた。
その時と同じような服装で、同じ髪型だ。
違うのは、彼女のほうから、ディーを見つけてきた。挨拶をするでもない。ただ両腕を組んで、柵の上に載せて、頭だけを少し傾けてディーを見る。
会釈をして近づき、隣に立ってから気づく。もうひとつだけ、違う。
チュニック越しではあったが、尾の動きがわかる。わずかに布地が揺らぐ。接近を許す、と言っているように感じられたので、ディーはそのようにした。
隣り合って立つと、背の低いシュトカが柵に両脚をかけているため、顔の位置がだいぶん近い。
さらに半歩、シュトカが足を置く位置を寄せてきた。秘密の言葉を、囁くように言う。
「家族に、この子たちのことを話したの」
「そうか」と、ディーはうなずく。「どうなった?」
「なんだか、とても奇妙に思える。父様は、家畜を扱う召使いたちに言い含めた。今日からは、私がこの子たちを、この子たちの世話をする彼女たちを預かるんだ、って」
「重荷だと思うか?」
「ほんの少しは。だけど、嬉しく思う。この気持ちが、不思議」
「そういうものだ。誰にでも、そういう瞬間がある。私が踏査官に任命されたときも、きっと同じ感覚だったはず」
ゆるゆると風がそよぎ、どこか遠くから、跳ね上がる連続した水音を運んでくる。
霧雨は、完全にやんでいた。灰色の空、断続的に開く雲間から、燦めく光が斜めに落ちてきた。
湿った森林の匂いが強くなる。
ディーとシュトカは、なんとはなしに、顔を見合わせる。
「あなたたちは――」と、シュトカが言葉をこぼす。「なにかを探しに来たの?」
「そうだ。彼らの職分は、貿易だ。自分たちにないものを異境で見つけて、持ち帰る。同じように、異境にないものを見つけ、故郷から持ってくる。もっとも、大断崖を越えて運ぶ難事は、また別の仕事だ。我々はここに留まり、起点となるだけだ」
「だけど、ディーの目的は、彼らとは違うのね?」
「なぜ、そう思う?」
「ディーが、出遭ったときに言った。私の羊の呼び方で、気持ちがわかった、って。だとしたら今のも、きっと同じ。〈彼らの〉とあなたは言う。ディーも含めた言い方なら、〈我々の〉だと思う。違う?」
「違わない」
なんということだ、とディーは胸のうちで感嘆する。
わずかな邂逅の間に、どれほど多くのことを汲み取っているのだろう。
「それなら、ディーの探し物はなに?」
「そうだな……」
シュトカの問いかけに、遠くの空へ意識が連れていかれる。
まだ幼い頃の記憶だ。灰色の雲間から、金と銀の粒子が落ちて重なり、混ざり合う暈の向こう側に、遊弋する巨大な影を見た――。
そのとき、たしかに嗅いだのだ。落雷のあとのような、かすかな香気を。
ディーは、自らの鼻と頬に、伸ばした指を触れさせた。
今、感じているものは、過去の記憶ではない。
互いの秘密を囁き合う、肘が触れ合うほどの距離で、自然に漂ってくる香りがある。
「竜の言葉だ。私が探しているもの、最も知りたいものは、竜が話すその言葉だ。魔法と切り離せない彼らの言語は、音だけではなく、匂いでも情報が伝達されるらしい」
シュトカが、大きな瞳を、さらに大きく丸くしていた。
跳ねた絹糸のような睫毛が、しばたたかれる。
わずかに感じた香りは、そんなかすかな動きでも漂い出てくるように思える。
「不思議だ。これは君の匂いか……柔らかで涼しい……どこか落ち着く香りだ」
喩えるなら、柑橘の香りに似る。
竜の言語というものは、あるいは、そんな種類のものではないか。
言葉に傾斜を与え、感情に訴えかけるのなら、抑揚ではなく匂いでもいいはずだ。
そこで、突然、ディーの思考は中断された。
シュトカが、いきなり柵から飛び降りたからだ。きびすを返し、チュニックの裾を大きく揺らし、小径へと駈けていく。
まるで、前に会ったときと同じだが、違うこともある。
シュトカの頬に表れたのは、激しい動揺と気恥ずかしさ。尖った三角の耳が、亜麻色の髪から突き出している。
オウスヴァラは、人狼の国だ。銀狼を祖先に持ち、民はいまだに、ひとと狼の姿を渡るらしい。
遠くに走ったシュトカは、振り返り、小声でなにかを言った。
音など届かない距離だ。それでも、彼女は尾を見せた。急ぎ走るために、チュニックの裾を持ち上げたからだ。
華奢な尾の先端が、震えて揺らぐ。(明日は――?)
そのように、たずねられた気がした。
〈第一話 終わり〉