尾(4)
4
「旅窯……か」
ディーは、鼻筋に指を沿わせるようにして、自らの頬とあごに触れる。
条件付けをしているからだ。
不可視の筆記具が、そうすることで、脳裏に現れる。
幼い頃の記憶だ。遙か昔に滅びた、帝国の遺跡を想う。朽ちかけた石造りの廃墟に、毎日のように通っては、在りし日の古都を空想していた。
廃墟には、無数の部屋があった。ひび割れた回廊には、無数の壁龕が並ぶ。
既に、遠く砂漠を渡って運ばれてくる、滑らかな肌の陶器も記憶されている。歯車が噛み合った観測儀がある。青紫に透けたガラス器がある。
すべて記憶の中だが、隣の壁龕に、想像の石蓋を置く。これが、旅窯というものだ、と。
「なるほど。焼き窯のないような、旅先に持っていくのだな」
「そうさね。ずいぶん、物わかりの早いだんなだ。こっちへ来る前、隊商で回ったことでもあるのかね?」
「いいや。話に聞いたことがあるだけだ。熱した灰に埋めて焼いていたパン菓子を、より美味く、より膨らませるために作られた、と古書の一節にあった。ただの伝聞だから、実際にこうして目の当たりにするのは、嬉しいことだ」
「ふうむ。そんなものかね」
男は首をかしげて、わずかに肩をすくめた。
日用の品に、まじまじと見入る外つ国の客に、面白みを感じたようだった。
「こっちは、もう焼き上がりだ。嗅ぐ程度に、食べていくかね?」と、鼻の頭を、くんくんと動かしてみせる。
「時間があるのなら、だがね」
「ありがたい。まだ、奥国に来て日が浅いんだ。食事には、もちろん興味がある」
遠慮なしに言うと、男は、声に出して笑った。
そうだろう、今度はよくわかる、という尾の動きだ。
「仕上げちまうから、そのへんの樽にでも座るといい。円卓を持ってきてくれれば、もっといいがね。ほら、そのへんにさ」
言われるまま、ディーは周囲を見回す。
木製の古びた家具は、石窯の脇、枝葉を大きく伸ばした大樹の下に置かれていた。
普段から、半ば野ざらしになっているはずなのに、朽ちかけた様子がない。表面に触れれば、乾燥したワニスで指が滑る。
割れのない締まった板材を選別し、加工する技術があるのだ、とディーは理解する。
「それを運ぶの?」と、声がかかる。複数の鶏の鳴き声が、重なって響く。
出来るかぎり自然を装い、視線をあげると、シュトカがいた。
おそらく、皆がいる反対の側から、石窯を回りこむように出てきたのだ。
足元に、五、六羽の茶褐色の雌鶏をまとわりつかせ、まるで引き連れて歩いてきたかに見える。
「お嬢――」
厨房番の男が、目を丸くする。
「いけませんや、その、こんなところに軽々しくやってきては」
口調と尾の動きに、わずかな齟齬がある。ディーやジェンテを横目で見たような気がしたが、シュトカに感じたのと同じように、視線が読みにくい。
皆の手前、そのようなことを言っているのかもしれない、とディーは思う。
「だけど、そっちの外つ国のひとも、本当なら話してはいけないはず」
大真面目な顔で、シュトカはこちら側に顔を向ける。
「どうにも、お嬢にはかなわんね。閥家のだんながたには、内緒ってことで……」
「わかってる。ここに誰がいて、なにをしていたのか、決して言わない。いつもそうでしょう?」
「もちろん、そうだとも。わかってるんだがね。なにしろ、今は、上種のだんなが迷いこんできてしまってね。困るんだ、本当は……」
消え入るような声になりかけている。身分の差から、男はシュトカを追い返せない、ということが読み取れる。
同時に、まだおとなと認められていない女性は、上種つまり貴族階級と、平民との会話規則を越えられる。ある種の特権を有しているのだろう。服装や言葉遣いから判断すれば、シュトカは未婚だ。だからだ、と想定できる。
子どもが、どの社会身分にも当てはまらない自由状態に置かれることは、地域を問わず見られる慣習だ。ディーには、ふたりの関係が、自然に納得できた。
燃えさしと灰で焼き菓子を作るのが、厨房番の特権だ。
シュトカはといえば、階級の壁を超えることで、しばしばその恩恵に預かっているに違いない。
足元にまとわりつかせている鶏が、その証拠を見せてくれるはず。雌鶏の群れ、彼女たちは、明らかに条件付けをされていた。
「お嬢、そっちのチーズを、持ってきてくれるかね」
言いながら、男は、枝箒を持ちだす。柔らかな小枝を束ねて柄の先にくくった、簡素な作りだ。
旅窯にかぶせられていた熾と灰を、枝箒で払う。
旅窯の天辺には、小さな穴が穿たれている。男は、枝箒の柄を突き通して、窯を持ち上げる。すぐに脇へと置き直した。
「良い匂いだな」
釣られたのか、自然と歩み寄ってきたジェンテがつぶやく。
厨房番の男は、肩をすくめただけで、文句は言わない。固く規範に縛られる性格ではない、というのは、ディーが予想した通りだ。
出遭った時のディーへの対応、それに、シュトカへの接し方でわかる。
「こいつは、あんたら上種の使う、受け皿みたいなものなんだがね。もうちっと柔らかく仕上げることで、焼き菓子にもなるんだ」
「はい、これ」と、シュトカが差し出す。「持ってきた」
男は、シュトカからチーズを受け取り、腰に提げていたナイフを使う。偏平に、丸く固めたチーズを片手に持ち、素早い動きで薄く削る。
ちりちりと鉋屑のように巻きながら、雪のような真っ白いチーズ片が降っていく。
舞い落ちる先は、円形に薄く延ばされた、焼き菓子の上だ。縁は、やや焦げている。香ばしい匂いは、そこから立ちのぼっている。
真ん中から縁に向かって、八本の盛りあがった畦が作られていて、なるほど、とディーはうなずく。
一枚の大きな焼きパンの上に、具材を受け止める仕切りが設けられている、ということなのだろう。
チーズを敷き詰め終わると、今度は、灰の中から素手で卵を掘り出した。
熱くないのか、と心配してしまうが、素早い動きと厚くなった皮膚で、どうということはないようにも見える。
「そいつらが産んでくれた卵でな」
男は、太い指で殻を剥く。
シュトカの足元には、まだ雌鶏たちがまとわりついていた。
「菓子を焼くときに、熱い灰の中に埋めて、ずっと埋めておくんだ。焼き上がるころには、卵のほうも程良くなる。竈の神のおかげさまってことだね」
卵を割ると、中から、半熟の卵がこぼれ落ちる。チーズで純白に染まっていた焼き菓子に、黄金色の彩色がなされていく。
さらに白身も崩して、まんべんなく撒く。
香り付けに、細かく砕いた花薄荷の、濃緑のかけらを散らす。
最後に、陶器の小瓶をふところから取りだし、おごそかな手つきで、くくってあった紐をほどいた。
「蜂蜜で仕上げだ。こいつを、ちょっとばかしたらして、もう少し蓋をする」
小瓶を傾け、まるく円を描くように、蜜をゆったりと滴らせる。焼き菓子に、上質の甘味を加えていく。
旅窯で蓋がされ、さらなる余熱で、ちりちりとチーズが溶けて混ざり合う。
とろけていくチーズと、逆に固まっていく卵の香りが、いやがおうでも外側に溢れ出してくる。
「これで、出来上がり、というわけだね。皿はいらない。なにしろ、受け皿が焼き菓子になってるからな。そのまま、かぶりつけばいい」
男は、薄く焼き上がった円形のパンを、ちょうど四つに切り分ける。
溶けた具材が畦の中に収まって、手渡しされていく間も、まったくこぼれ落ちない。
うまく出来たものだった。
「ううむ」と、ジェンテが唸る。「贅沢な味だ。美味い」
誉められて、身分の規則を忘れたのか、男は大きく口もとをほころばせた。
「そうだろうとも。卵も、今朝のものだからな。今の季節は、とてもいい。なんでも、美味いものに仕上がってくれるね」
「素晴らしい」ディーも感嘆の言葉をかけた。「とてもうまく考えられている。この地方の伝統的な菓子なのか? それとも、あなたが思いついた?」
「わしのはずはないね」と、男は笑う。
自分でもパンを食みながら、枝箒の柄を逆さまに持ち、地面に狼の模様を描く。
「わしは親から、親はまたその親から、代々語り継いできたのさ。きっと、わしらの王国が始まった最初の瞬間から、ずっと続いているんだね。銀色の毛皮、神なる狼から生まれたのがわしらの最初の先祖だから、考えついたのはきっと狼だよ」
「なるほど。それにしても、美味だ。香ばしさと柔らかな口あたりが、共に生きている」
「喜んでもらえて、わしも嬉しいね。お嬢は、こいつが大好きなんだ」
シュトカは、いつの間にか傍らにいた。
片手に焼きパンを持ち、ディーを見上げるようにして立っている。
なにかの匂いを嗅いでいるのか、小さく鼻の頭を動かして、睫毛がぱちぱちと揺れ動く。
「どうした……?」
半ば、ぼんやりしていたように見えたシュトカが、びくりと体をすくませて、一歩だけ後ずさる。
「なんでもない。話を続けて」
彼女が焼き菓子に噛みつくと、ぽろぽろとパン屑が地面に落ちる。
足元の鶏たちが、待っていたとばかりに、せわしく動き始める。おこぼれをついばむ。
予想どおりだ。雌鶏たちがシュトカを追いかけていた理由がこれで、ディーの口もとに自然に笑みが浮かんでしまう。
「話を、はやく。大切な話があるんでしょう?」
シュトカに睨まれ、ディーは、本題を切り出すことにした。
「ところで、最初に言っていた相談なんだが……」
「なんだね?」
「話というのは、我々が狼王に献上した、羊というけもののことだ。あれを、肉料理にしないでほしい」
〈つづく〉