血盟(13)
13
銀灰色の髪を、美々しく編み込んだ男だ。彼が、次の客人だった。王弟であった。
大岩のような巨躯で、祝いを述べるために座していた。
針葉樹の森に潜む、青い雷鳥を描いた織物の上だ。さらに、広々とした敷物の上に、ちょうど腰がおろせるだけの小振りの毛皮を敷き、あぐらをかいている。
以前に会った時のように、闊達に伸ばされた銀灰の髪は、こめかみから頭頂へと丁寧に編み込まれている。
シュトカがそうしているような、女性の編み込みとはまた違う。
曲線の中に意図的に鋭角を混ぜ込んでいる。側頭部を斜めにいくつも編み上げてゆき、頭頂で合流して大振りの三つ編みに変わる。
後頭部でざっくり跳ね上げた三つ編みの先端は、まるで猛獣のたてがみだ。
そうした武張った装いとは別に、頬髭から密に繋がる顎髭がある。
長い顎髭によって創られる形は、少女の細い指で編んだかのような、繊細で小さな三つ編みだった。ごつりと太い顎下に吊り下がっている。
似合わないようでいて、しっくりきている、とディーには思える。
どちらも、この男の性質なのだ。人狼の国オウスヴァラの将軍、王弟スヴァロトは、娘の婚礼を寿ぐために鉄瓶を傾けている。
「まず飲め」
と、ディーに差し出してきた。
水差しのように細くすぼまった注ぎ口から、ゆらりと無色の香気が漂う。
自然、温い香気はディーの高い鼻梁に向け、目に見えぬ煙のように立ちのぼる。頬にぶつかり、唇をのぼり、鼻腔の先に静かに留まる。
あるいは、人を驚かすことを好むスヴァロトのことだ。そうした対流が起きる角度で、わざと顔前に差し出してきたのではないか。
策であれば、まず成功であった。
ディーは面食らい、不思議そうな瞳を鉄瓶に向ける。角杯を持った手が固まる。
小さな驚きが、そのままに出てしまっている。鼻先から、意図的に息を深く吸う。鼻腔の奥へと香気を集める。
なんという薫りであろうか。
澄んでいるが、その澄みきった中に、まるで糖蜜がとろけているようだ。
果実酒か。穀物酒なのか。わずかに葡萄酒に似ていることを思えば、いまだ知らぬ果実酒ということで間違いなさそうではある。
「本来は強めの酒だがな。そのままでなくとも旨い、良い酒だ。だから、新郎のために湯を足し、温めたのだ」
スヴァロトは目を細める。
彼自身、漂い出る香気を楽しんでいるように見えた。
細められた目が、良い酒と発音する口調が、今は隠していない尾の動きが、彼の真摯さを表現していた。
ここに、一切の嘘はない。真実、貴重な美酒を選び抜いてきたのであろう。
「酒を酌み交わす、ということでしょうか」
ディーは、どこかおずおずと杯を差し出す。
王弟という上種から、王家の貴酒を注がれる。その意味するところはなんであるのか。いまだ掴んでいないからだ。
「そうだ。互いに酒を注ぎ合う。誰でもやる。当たり前のことであろうが」
「確かに、その通りです。私の国でもあります。たった今、先ほどの宴の席でも、親しげに見えるものたちは、そのようにしていると見えました」
「ひとの国でも、そうしたことはあるのだな」
「はい。ですが、正式な場ではありません。給仕など呼ばぬ砕けた祝いの席で、親しきもの同士が酒を注ぎ合うのです」
「ははあ」
と、スヴァロトがうなずく。
既に、日暮れが近い。饗膳の大皿も、からになったものが目立ち始めていた。客のいなくなった台座の間を、食の世話をするものたちが忙しく動き回っている。
「給仕はいるな。今、この場に。だからか」
「はい」
「俺が酒を注ぐ理由がわからぬから、不安なのだな」
「はい。ですが、遠慮なく受けて良いものであれば――」
「良いものに決まっている。新郎、お前は、俺の一族になる。家族だ、だからだ。ひとの風習がどのようかは知らぬがな」
スヴァロトは、鉄瓶の口をぐいと傾けた。
ディーが差し出していた角杯に、なみなみ酒を注いでいく。やはり果実を由来とするものか。湯に溶かしたライムのような色合いの酒だ。
湯気が渦を巻く。ゆったりした香気を目の前に立ち上げてきた。
小振りの杯で良かった、とディーは隠すように吐息をこぼす。飲み干すのが礼儀のように思えたからだ。
黙礼し、思い切って口に含む。
湯で割ってあると言われた通りだ。
程よく温い酒であった。しかし、それでも強い。
漂う香りどおりの味だ、とも言えた。透き通って柔らかそうな見た目とは、まるで違う。
がつりと辛みを叩きつけてくる、鋭い風味だ。その衝撃が過ぎ去ったあとに、ほろりと純粋な甘さが舌に残る。
「人狼族の言う家族の意味は」
ディーは、咳き込むのをこらえながら言う。
「掴めてきた気がしています。無論、本来の意味とは違う、表面を撫でた程度の理解ですが」
「どう掴んだ」
「宴の席でも、オウスヴァラの気質が垣間見えました。例えば」
と、ディーは目の前を指さす。背の低い、木製の台座がある。
「数人で囲んで食事をする。そのために適した物のかたちだと思いました。どこに座してもいい。同じ台座を前にしたものたちと、話しながら食べる」
「今の俺と、お前のように、か」
「はい。顔をつきあわせて。あるいは隣り合って、互いの近況を聞きながら。最近どうだ、と。家族の様子を尋ねていました。それから、これから一族に加わるであろう者たちの話を。互いに、同じ大皿から食事を取りながら、です」
話している間に、シュトカがついと寄ってきた。
まるで既に長年連れ添ってきたもの同士であるように、ごく自然にディーの隣に座り、目の前の大皿から肉料理をひとつ摘まむ。
「なんだ、お前は。この席がどのようなものか、わかっているのか」
と、スヴァロトが言う。咎める口調ではない。愛しみとからかいの感情が、細められた両眼と尾の動きに載せられている。
ぱた、と尾が敷物を叩いた。もっと側に寄れ、と促しているようにも見えた。
「この父と、これから子ともなる男との酒席に紛れ込むのだな。酒の肴を、摘まむつもりなのだな」
「いいえ」
シュトカは首を振りもしない。
短い否定の語を発したあと、つまんだ料理を口に入れる。小さな唇であったが、一口、二口と囓りつつ、容易に食べ終えてしまう。
合っているのだ、とディーは考える。
実際、そうした食べかたに合わせて、調理法が考えられているのだろう。
刺して使う二叉の食器が、海岸沿いの文化都市において使われ始めてはいたが、いまだ多くの世界が手づかみによってものを食べる。
ここでもまた、食事は主として手づかみだ。
しかし、少しだけ変わっている。切り分けずとも、最初から小さく分けてこしらえる。指を汚さぬように、小麦粉を練った皮か薄焼きのパンで、料理そのものを包んでしまう。
それもまた文化だ。生活の場に当たり前のように見られるあり方だからこそ、かえって優れた知性が普遍しているのだ、と感じられる。
まじまじ見つめてしまったディーの口元へ、シュトカがその料理を差し出してきた。
ディーは途惑い、シュトカがそうした所作の意味を考え、耳朶を赤く染める。
「喰わせてもらえ、踏査官」
スヴァロトが、はっ、と息を吐いて笑う。
「家族であれば、当然そのようにもする。だから、だ。娘の儀礼を、お前は受け容れるべきだ。そうであろうが。その上で、先の問いを聞かせてもらおう」
「そのような意味であると、承知してはおります」
ディーはわざと申しわけなさそうに、スヴァロトに頭を下げた。シュトカに謝罪の言葉を伝えた。
「すまないが、シュトカ。このような場では、私は……そう、慣れないのだ、なんとも」
シュトカもまた、絹糸のような細い睫毛を瞬いた。うつむいた。
つい先ほどまでの平然とした装いが、突然に剥がれてしまったのだ、とわかる。
ディーがあからさまに顔に出してしまったからだ。慣れぬ立場にいるのは、ひとりではない。互いに、そのようであるのだ。
「すまない」
ディーはもう一度言って、どうにか笑顔をつくる。平然を装って、シュトカの手から受け取った。
彼女のほうは、ふるふると首を振る。
頬から耳もとまで、いまだ上気の赤みが抜けきっていない。
片手で持てる程度の、小さなパンだった。驚くほど柔らかく、いまだ温かい。
焼き上げた名残の、パン生地に潜んだ余熱ではない、とディーは思う。より内部から来るものだ。おそらく、なにかの熱い料理が包みこまれている。
「教えてくれ、シュトカ。この料理の名はなんという?」
「これは――」
オウスヴァラの言葉で、シュトカが答えた。
ひとの言葉で表記するには、対応する記号がいくつも欠ける。
そのような、古い人狼族の発音だ。ク・ワ・ワ・ジェ、と並べればいくらか近いが、それぞれの間を繋ぐ接続を表現できない。
喉の奥から出て、舌の表面で転がす反復がある。謳うような韻律が混ざる。
「肉詰めパン、というところだろうか」
古い言葉を、より堅苦しい語に解釈し直せば、そのように翻訳できるはず。目で見ても、言葉の示すところは直感的に理解できる。
「挽肉と刻み玉ねぎだ」
と、ディーは焼きパンを噛みちぎる。
予感していたとおりだ。熱は、焼き上げた挽肉からのものなのだ。
「味付けは、トマトだろうか。溶くように炒めた、酸味と甘み、果肉そのものの味わいがある。それから……これは、ライムか」
ディーは焼きパンを、ゆっくりと食していく。
手で持てる大きさの、楕円形の灰色のパンだ。
焼き上がりは薄く柔らかで、まるで袋のように二枚が合わさるように練られている。そうであるから、たっぷりの具が詰まっている。
齧り付けば、そこから肉汁と香ばしさがこぼれ出てパンに染みる。
ひとの世界では、冷えて固くなったパンを平たく切り分け、翌日の食器として使う。だが、人狼の国では、こうした方法もあるのだ。
素晴らしい、とディーは感嘆する。
工夫によって作られる味わいということだ。ただパンをそのまま食するのではない、厨房番たちの誇らしげな妙味に感じられる。
「ライムの皮を刻んで入れてあるのだな。香り付けに、砕いたミントとパセリ。肉詰めパンの名の通りだ」
「どう?」
シュトカが見上げてくる。ディーの顔色を見ているのだ、とはっきりわかる。
「旨い。素晴らしい料理だ」
「私は、これを作れると思う」
「そうか。楽しみだ、その時が」
すっかりというわけにはいかなかったが、緊張がほぐれた。
桃の実のように色づいたシュトカの頬に、柔らかなえくぼが形づくられていた。ディーもまた、装うのではない、有り様そのままの微笑を口元に浮かべる。
「表面を撫でたなどと、お前はうそぶくが」
王弟スヴァロトが、呆れたような声を出す。
「既に、家族に足を踏み入れているではないか。我らの中に、だ」
「彼女は――シュトカは、特別だからです、私にとって。短いか長いか、計るすべはない。しかし今思えば、密な時間を共に過ごした。確かに、そう思います」
「なんだと。それはなんだ。どんな時間を共にした」
「ひとつには、同じ秘密を。それが最初の出逢いだったのです」
「とんでもないやつだ、お前は。それを娘の父に言うのか」
「いいえ」
と、シュトカが口を挟む。
「父様には話せない」
きっぱりした宣言だ。すぐにディーへと視線を返す。
羊のことは秘密のままだ、と睫毛の瞬きが言う。
少女の翡翠色の瞳にのぞきこまれながら、ディーは言葉を続ける。
意図して強く視線を合わせる。互いに発声してこなかったものがある。それでも、ふたりの間にずっとあったのだ、と思う。
「大変な場にも、立ち会いました。シュトカがいてくれなければ、切り抜けられぬ危急であったはず」
「ひとの兵と、我らの兵が揉めたときか」
「そうです。その後もです。殿下が水車小屋で私を試したときにも、シュトカに救われました。もっとも試したというのは、私ひとりのことではない。殿下は、シュトカをも試したのではないでしょうか。どこまでやるのか、ということを父親として知りたかった」
「娘は、どこまでもやったな。いいか、踏査官。我々が狼に変じるというのはな、そう易いものではない。ひとには決してわからぬだろうがな。それでもお前は、いずれ知る。必ずそういうことになる」
「ならば覚悟は、既に決まっております」
「それで、お前は――」
スヴァロトの表情が、唐突に変わった。
頬から顎髭にかけて刻まれた微笑には、質問のたびに、なにかしら恐いものが積み重なっていくように感じられていた。
まるでディーの放つ言葉の端々が、彼らの機密に知らず知らず触れそうになっていると、警告するような瞳だったのだ。
今は一転、新郎と新婦を見つめる、ひとりの父親の表情に戻っている。
変貌の早さに、かえってディーは、不穏な気配を読みとらざるを得ない。いったいなぜ、と思う。王弟スヴァロトという男のあり方が、どうにも掴めないでいる。今この時だけではなく、ずっとのことだった。
「俺が、お前に酒を注ぐ理由を、どう読み解いた。ええ?」
「家族に迎え入れるためです。互いに、信頼していると伝え合う。食べ物をわけ与える、飲み物を分け与える、すべて信頼がなければ成り立たない。与えるというのは、声に依存しない一種の言葉だと考えられます」
「言葉か。どんなことを言っているのだ」
「それは食べても良いものであるのか、旨いのか、滋養に富むのか。そうした質問すべてに、大丈夫、と請け負っている。受け取る側は、そこに託す。託した、という言葉では足りないくらいに猜疑なく受け取る。意識せずとも、いきものの本質として、そのように伝え合っている気がします」
「そうか」
と、スヴァロトはまた微笑した。
「面白い考え方だ」
「皆で円卓を囲む風習も、そこで食をとる文化も、納得がいきます。大皿に、小分けされた料理を盛り付けることも。皆でひとつずつ分けやすいようにされていることも。オウスヴァラの生き方は、そのように設計されている」
「――――」
スヴァロトが黙った。眉をひそめた。
「困ったやつだ、お前は」
再び口を開いたときには、そのように言う。
親が子に諭すようにではない。まるで子どもが、相反する感情に困惑する表情だった。
「我らオウスヴァラの民は、そうなのだ。信頼を尊ぶ。まさしくその通りだ。そこでだ、踏査官。ひとつ、頼まれてくれるか」
なにを、とディーは聞かない。
大方の予想はついていたからだ。どのような機会にか、必ず言い出すと思っていたから、ディーには驚きはなかった。
「お前のことをな、危ぶむ声はあるのだ。どうしても、我らと違う種であるからな。訝しむものがいる。信じぬものたちがいる。だからだ。娘との婚姻、そのものたちが納得するまで、白婚ということで頼めるか」
シュトカが息を呑んだ。その音が聞こえた。
〈つづく〉