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狼と尾とひとと  作者: 鳥居羊
34/36

血盟(13)

         13


銀灰色の髪を、美々しく編み込んだ男だ。彼が、次の客人だった。王弟であった。

 大岩のような巨躯で、祝いを述べるために座していた。

 針葉樹の森に潜む、青い雷鳥を描いた織物の上だ。さらに、広々とした敷物の上に、ちょうど腰がおろせるだけの小振りの毛皮を敷き、あぐらをかいている。


 以前に会った時のように、(かっ)(たつ)に伸ばされた銀灰の髪は、こめかみから頭頂へと丁寧に編み込まれている。

 シュトカがそうしているような、女性の編み込みとはまた違う。

 曲線の中に意図的に鋭角を混ぜ込んでいる。側頭部を斜めにいくつも編み上げてゆき、頭頂で合流して大振りの三つ編みに変わる。

 後頭部でざっくり跳ね上げた三つ編みの先端は、まるで猛獣のたてがみだ。


 そうした武張った装いとは別に、(ほお)(ひげ)から密に繋がる(あご)(ひげ)がある。

 長い顎髭によって創られる形は、少女の細い指で編んだかのような、繊細で小さな三つ編みだった。ごつりと太い顎下に吊り下がっている。

 似合わないようでいて、しっくりきている、とディーには思える。

 どちらも、この男の性質なのだ。人狼の国オウスヴァラの将軍、王弟スヴァロトは、娘の婚礼を寿(ことほ)ぐために(てつ)(びん)を傾けている。


「まず飲め」

 と、ディーに差し出してきた。


 水差しのように細くすぼまった注ぎ口から、ゆらりと無色の香気が漂う。

 自然、温い香気はディーの高い()(りょう)に向け、目に見えぬ煙のように立ちのぼる。頬にぶつかり、唇をのぼり、鼻腔の先に静かに留まる。

 あるいは、人を驚かすことを好むスヴァロトのことだ。そうした対流が起きる角度で、わざと顔前に差し出してきたのではないか。


 策であれば、まず成功であった。

 ディーは面食らい、不思議そうな瞳を鉄瓶に向ける。角杯を持った手が固まる。

 小さな驚きが、そのままに出てしまっている。鼻先から、意図的に息を深く吸う。鼻腔の奥へと香気を集める。

 なんという薫りであろうか。

 澄んでいるが、その澄みきった中に、まるで糖蜜がとろけているようだ。

 果実酒か。穀物酒なのか。わずかに葡萄酒に似ていることを思えば、いまだ知らぬ果実酒ということで間違いなさそうではある。


「本来は強めの酒だがな。そのままでなくとも旨い、良い酒だ。だから、新郎のために湯を足し、温めたのだ」


 スヴァロトは目を細める。

 彼自身、漂い出る香気を楽しんでいるように見えた。

 細められた目が、良い酒と発音する口調が、今は隠していない尾の動きが、彼の(しん)()さを表現していた。

 ここに、一切の嘘はない。真実、貴重な美酒を選び抜いてきたのであろう。


「酒を酌み交わす、ということでしょうか」


 ディーは、どこかおずおずと杯を差し出す。

 王弟という(じょう)()から、王家の貴酒を注がれる。その意味するところはなんであるのか。いまだ掴んでいないからだ。


「そうだ。互いに酒を注ぎ合う。誰でもやる。当たり前のことであろうが」


「確かに、その通りです。私の国でもあります。たった今、先ほどの(うたげ)の席でも、親しげに見えるものたちは、そのようにしていると見えました」


「ひとの国でも、そうしたことはあるのだな」


「はい。ですが、正式な場ではありません。給仕など呼ばぬ砕けた祝いの席で、親しきもの同士が酒を注ぎ合うのです」


「ははあ」

 と、スヴァロトがうなずく。

 既に、日暮れが近い。(きょう)(ぜん)の大皿も、からになったものが目立ち始めていた。客のいなくなった台座の間を、食の世話をするものたちが忙しく動き回っている。


「給仕はいるな。今、この場に。だからか」


「はい」


「俺が酒を注ぐ理由がわからぬから、不安なのだな」


「はい。ですが、遠慮なく受けて良いものであれば――」


「良いものに決まっている。新郎、お前は、俺の一族になる。家族だ、だからだ。ひとの風習がどのようかは知らぬがな」


 スヴァロトは、鉄瓶の口をぐいと傾けた。

 ディーが差し出していた角杯に、なみなみ酒を注いでいく。やはり果実を由来とするものか。湯に溶かしたライムのような色合いの酒だ。

 湯気が渦を巻く。ゆったりした香気を目の前に立ち上げてきた。

 小振りの杯で良かった、とディーは隠すように吐息をこぼす。飲み干すのが礼儀のように思えたからだ。

 黙礼し、思い切って口に含む。


 湯で割ってあると言われた通りだ。

 程よく温い酒であった。しかし、それでも強い。

 漂う香りどおりの味だ、とも言えた。透き通って柔らかそうな見た目とは、まるで違う。

 がつりと(から)みを叩きつけてくる、鋭い風味だ。その衝撃が過ぎ去ったあとに、ほろりと純粋な甘さが舌に残る。


「人狼族の言う家族の意味は」

 ディーは、()き込むのをこらえながら言う。

「掴めてきた気がしています。無論、本来の意味とは違う、表面を撫でた程度の理解ですが」


「どう掴んだ」


「宴の席でも、オウスヴァラの気質が垣間見えました。例えば」

 と、ディーは目の前を指さす。背の低い、木製の台座がある。

「数人で囲んで食事をする。そのために適した物のかたちだと思いました。どこに座してもいい。同じ台座を前にしたものたちと、話しながら食べる」


「今の俺と、お前のように、か」


「はい。顔をつきあわせて。あるいは隣り合って、互いの近況を聞きながら。最近どうだ、と。家族の様子を尋ねていました。それから、これから一族に加わるであろう者たちの話を。互いに、同じ大皿から食事を取りながら、です」


 話している間に、シュトカがついと寄ってきた。

 まるで既に長年連れ添ってきたもの同士であるように、ごく自然にディーの隣に座り、目の前の大皿から肉料理をひとつ摘まむ。


「なんだ、お前は。この席がどのようなものか、わかっているのか」


 と、スヴァロトが言う。咎める口調ではない。愛しみとからかいの感情が、細められた両眼と尾の動きに載せられている。

 ぱた、と尾が敷物を叩いた。もっと側に寄れ、と促しているようにも見えた。


「この父と、これから子ともなる男との酒席に紛れ込むのだな。酒の(さかな)を、摘まむつもりなのだな」


「いいえ」


 シュトカは首を振りもしない。

 短い否定の語を発したあと、つまんだ料理を口に入れる。小さな唇であったが、一口、二口と囓りつつ、容易に食べ終えてしまう。


 合っているのだ、とディーは考える。

 実際、そうした食べかたに合わせて、調理法が考えられているのだろう。

 刺して使う二叉の食器が、海岸沿いの文化都市において使われ始めてはいたが、いまだ多くの世界が手づかみによってものを食べる。

 ここでもまた、食事は主として手づかみだ。

 しかし、少しだけ変わっている。切り分けずとも、最初から小さく分けてこしらえる。指を汚さぬように、小麦粉を練った皮か薄焼きのパンで、料理そのものを包んでしまう。

 それもまた文化だ。生活の場に当たり前のように見られるあり方だからこそ、かえって優れた知性が普遍しているのだ、と感じられる。

 まじまじ見つめてしまったディーの口元へ、シュトカがその料理を差し出してきた。

 ディーは途惑い、シュトカがそうした所作の意味を考え、耳朶を赤く染める。


「喰わせてもらえ、踏査官」

 スヴァロトが、はっ、と息を吐いて笑う。

「家族であれば、当然そのようにもする。だから、だ。娘の儀礼を、お前は受け容れるべきだ。そうであろうが。その上で、先の問いを聞かせてもらおう」


「そのような意味であると、承知してはおります」

 ディーはわざと申しわけなさそうに、スヴァロトに頭を下げた。シュトカに謝罪の言葉を伝えた。

「すまないが、シュトカ。このような場では、私は……そう、慣れないのだ、なんとも」


 シュトカもまた、絹糸のような細い睫毛を瞬いた。うつむいた。

 つい先ほどまでの平然とした装いが、突然に剥がれてしまったのだ、とわかる。

 ディーがあからさまに顔に出してしまったからだ。慣れぬ立場にいるのは、ひとりではない。互いに、そのようであるのだ。


「すまない」

 ディーはもう一度言って、どうにか笑顔をつくる。平然を装って、シュトカの手から受け取った。

 彼女のほうは、ふるふると首を振る。

 頬から耳もとまで、いまだ上気の赤みが抜けきっていない。

 片手で持てる程度の、小さなパンだった。驚くほど柔らかく、いまだ温かい。

 焼き上げた名残の、パン生地に潜んだ余熱ではない、とディーは思う。より内部から来るものだ。おそらく、なにかの熱い料理が包みこまれている。


「教えてくれ、シュトカ。この料理の名はなんという?」


「これは――」


 オウスヴァラの言葉で、シュトカが答えた。

 ひとの言葉で表記するには、対応する記号がいくつも欠ける。

 そのような、古い人狼族の発音だ。ク・ワ・ワ・ジェ、と並べればいくらか近いが、それぞれの間を繋ぐ接続を表現できない。

 喉の奥から出て、舌の表面で転がす反復がある。(うた)うような韻律が混ざる。


「肉詰めパン、というところだろうか」


 古い言葉を、より堅苦しい語に解釈し直せば、そのように翻訳できるはず。目で見ても、言葉の示すところは直感的に理解できる。


「挽肉と刻み玉ねぎだ」

 と、ディーは焼きパンを噛みちぎる。

 予感していたとおりだ。熱は、焼き上げた(ひき)(にく)からのものなのだ。

「味付けは、トマトだろうか。溶くように炒めた、酸味と甘み、果肉そのものの味わいがある。それから……これは、ライムか」


 ディーは焼きパンを、ゆっくりと食していく。

 手で持てる大きさの、()(えん)形の灰色のパンだ。

 焼き上がりは薄く柔らかで、まるで袋のように二枚が合わさるように練られている。そうであるから、たっぷりの具が詰まっている。

 (かじ)り付けば、そこから肉汁と香ばしさがこぼれ出てパンに染みる。

 ひとの世界では、冷えて固くなったパンを平たく切り分け、翌日の食器として使う。だが、人狼の国では、こうした方法もあるのだ。

 素晴らしい、とディーは感嘆する。

 工夫によって作られる味わいということだ。ただパンをそのまま食するのではない、厨房番たちの誇らしげな妙味に感じられる。


「ライムの皮を刻んで入れてあるのだな。香り付けに、砕いたミントとパセリ。肉詰めパンの名の通りだ」


「どう?」

 シュトカが見上げてくる。ディーの顔色を見ているのだ、とはっきりわかる。


「旨い。素晴らしい料理だ」


「私は、これを作れると思う」


「そうか。楽しみだ、その時が」


 すっかりというわけにはいかなかったが、緊張がほぐれた。

 桃の実のように色づいたシュトカの頬に、柔らかなえくぼが形づくられていた。ディーもまた、装うのではない、有り様そのままの微笑を口元に浮かべる。


「表面を撫でたなどと、お前はうそぶくが」

 王弟スヴァロトが、呆れたような声を出す。

「既に、家族に足を踏み入れているではないか。我らの中に、だ」


「彼女は――シュトカは、特別だからです、私にとって。短いか長いか、計るすべはない。しかし今思えば、密な時間を共に過ごした。確かに、そう思います」


「なんだと。それはなんだ。どんな時間を共にした」


「ひとつには、同じ秘密を。それが最初の出逢いだったのです」


「とんでもないやつだ、お前は。それを娘の父に言うのか」


「いいえ」

 と、シュトカが口を挟む。

「父様には話せない」


 きっぱりした宣言だ。すぐにディーへと視線を返す。

 羊のことは秘密のままだ、と睫毛の瞬きが言う。

 少女の()(すい)色の瞳にのぞきこまれながら、ディーは言葉を続ける。

 意図して強く視線を合わせる。互いに発声してこなかったものがある。それでも、ふたりの間にずっとあったのだ、と思う。


「大変な場にも、立ち会いました。シュトカがいてくれなければ、切り抜けられぬ危急であったはず」


「ひとの兵と、我らの兵が揉めたときか」


「そうです。その後もです。殿下が水車小屋で私を試したときにも、シュトカに救われました。もっとも試したというのは、私ひとりのことではない。殿下は、シュトカをも試したのではないでしょうか。どこまでやるのか、ということを父親として知りたかった」


「娘は、どこまでもやったな。いいか、踏査官。我々が狼に変じるというのはな、そう(やす)いものではない。ひとには決してわからぬだろうがな。それでもお前は、いずれ知る。必ずそういうことになる」


「ならば覚悟は、既に決まっております」


「それで、お前は――」


 スヴァロトの表情が、唐突に変わった。

 頬から顎髭にかけて刻まれた微笑には、質問のたびに、なにかしら恐いものが積み重なっていくように感じられていた。

 まるでディーの放つ言葉の端々が、彼らの機密に知らず知らず触れそうになっていると、警告するような瞳だったのだ。

 今は一転、新郎と新婦を見つめる、ひとりの父親の表情に戻っている。

 変貌の早さに、かえってディーは、不穏な気配を読みとらざるを得ない。いったいなぜ、と思う。王弟スヴァロトという男のあり方が、どうにも掴めないでいる。今この時だけではなく、ずっとのことだった。


「俺が、お前に酒を注ぐ理由を、どう読み解いた。ええ?」


「家族に迎え入れるためです。互いに、信頼していると伝え合う。食べ物をわけ与える、飲み物を分け与える、すべて信頼がなければ成り立たない。与えるというのは、声に依存しない一種の言葉だと考えられます」


「言葉か。どんなことを言っているのだ」


「それは食べても良いものであるのか、旨いのか、滋養に富むのか。そうした質問すべてに、大丈夫、と請け負っている。受け取る側は、そこに託す。託した、という言葉では足りないくらいに(さい)()なく受け取る。意識せずとも、いきものの本質として、そのように伝え合っている気がします」


「そうか」

 と、スヴァロトはまた微笑した。

「面白い考え方だ」


「皆で円卓を囲む風習も、そこで食をとる文化も、納得がいきます。大皿に、小分けされた料理を盛り付けることも。皆でひとつずつ分けやすいようにされていることも。オウスヴァラの生き方は、そのように設計されている」


「――――」

 スヴァロトが黙った。眉をひそめた。

「困ったやつだ、お前は」


 再び口を開いたときには、そのように言う。

 親が子に諭すようにではない。まるで子どもが、相反する感情に困惑する表情だった。


「我らオウスヴァラの民は、そうなのだ。信頼を尊ぶ。まさしくその通りだ。そこでだ、踏査官。ひとつ、頼まれてくれるか」


 なにを、とディーは聞かない。

 大方の予想はついていたからだ。どのような機会にか、必ず言い出すと思っていたから、ディーには驚きはなかった。


「お前のことをな、危ぶむ声はあるのだ。どうしても、我らと違う種であるからな。(いぶか)しむものがいる。信じぬものたちがいる。だからだ。娘との婚姻、そのものたちが納得するまで、(はく)(こん)ということで頼めるか」


 シュトカが息を呑んだ。その音が聞こえた。



〈つづく〉

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