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狼と尾とひとと  作者: 鳥居羊
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血盟(11)

         11


 やがて婚礼の儀式は終わり、(うたげ)のときとなった。

 場所は、王弟スヴァロトの持つ館のひとつへと移っている。

 城砦ではないが、巨大な館だ。

 簡易ではあるが、低い城壁に囲まれている。四方に(やぐら)も立つ。回廊にはいかにも物々しい戦斧などが飾られているが、おそらく実用品ではない。

 歩兵が使うような調度は見当たらないことから、普段は、騎士たちの詰め所であろうと想像できた。


 中庭から続く大広間が、宴の場として華美に飾られている。 

 赤、青、白の彩り豊かな草花が、壁掛けの花瓶に生けられている。

 巨大な鉢を持ち込み、花壇のように(へき)(がん)を装う。

 さらには枝葉の美しいものを束ね、まるでそこに木々が立っているかのように、馨しい装飾となしている。


 森林だ、とディーは思う。

 彼らは、木々の色を好むのだろう。

 街に暮らすようになった今でも、そうなのだ。森の香りを、身近に置こうとしているのかもしれない。

 疑似的な森林の葉の奥から、かすかに弦楽器の音が響いていた。

 歌こそなかったが、静かで、主張しない。ほのかな音色だ。しゃらしゃらと枝葉を鳴らす風を思わせる。余興に、吟遊詩人が招かれているのだろう。


 また、匂いもある。

 煮たものが、少しずつ冷めながら立ちのぼらせている。

 湯気に溶けて漂うのは、肉と根菜の香りだ。玉ねぎの香りも、たっぷりとある。バターと共に溶かれた卵、そしてオリーブオイルが、とりわけ(かぐわ)しく立ちあがってくる。

 焼いたものが、いまだ内側に閉じこめている熱の匂いもある。炎に(あぶ)られたばかりの、とろける肉汁のこぼれる香りだ。

 例えばオウスヴァラの民は、金串に小さな肉片をいくつも連ねて刺す。回しながら、余分な油を火に落とし、焙るようにして焼き上げるのだ。


 トマトの瑞々しい酸味も、香りとなって鼻腔に届く。唐辛子は、辛みを隠さぬ強靱な匂いだ。

 どちらも、かつてはこの地になかった。遡る二十年ほど前に、ディーの故国、ガラエキアの社団が持ちこんだ。

 今ではオウスヴァラの民が、自ら育て収穫する。

 故国では見なかったような、新たな品種すら育まれている。地元の根幹的な料理に、元からずっとあったのだ、とでもいうように、深く根を下ろしているように見えた。

 そのような、数多の香ばしさが漂っている。


 オウスヴァラの風習に従い、もてなしの料理はすべて、背の低い台座に載せられていた。よく磨かれた、丸い木製の台座だ。

 浅い彫りで、一面に、見事な彫刻が為されている。中央に太陽の紋様、そこから放射状に、草花を図案化した模様が並ぶ。外縁部は盛り上がり、あるいは料理が落ちるのを防ぐ縁かもしれない。

 四人ほどが楽に囲める大きさのものが、広間に十や二十も並べられていた。椅子を用いるような高さではないが、まず円卓と言っていいものだ。

 人狼の民は、そのような台を皆で囲む。あぐらをかき、また片膝だけを立て、あるいは正座で円卓を前にする。

 どうやら、どれが正式というものでもない。おのおのが好む姿勢で、座して食事を取る。

 そのために織物と、床に敷く絨毯が発達したのだ、とディーは思う。


 己が座した厚手の敷物に、また床の絨毯に指で触れてみる。

 起毛した生地は(ちゅう)(みつ)で、手触りは滑らかだ。わずかな力で指先が沈む。手のひらが着く。

 その下には石床が続くはずだが、織物によって隠されている。

 冷たさや、堅固さ、気配までもだ。魔法のようではないか、と思ってしまう。

 技術によって成し得るものだと知ってはいるが、人狼族の織工が見せる手指の技には、ある種の魔力が宿っていても不思議はない。


「妙な顔をしているな、新郎。祝いの席に、なにを考えている」

 話しかけられた。横合いから、突然であった。


「私は――」

 答えながら、ディーは己の手にあった酒杯に気づく。


 小振りの酒杯だ。獣の角から削り出し、半透明の貝殻のかけらを、いくつも埋めこんでいる。

 描かれるものは、青と金色、鮮やかな羽毛のカワセミが枝に休む姿だ。(しゅ)(ひん)のために用意された、稀少な、特別の品であろう。

 その杯を動かさぬまま、ただ手にしていた。だからだ、とわかる。

 酒も飲まず、誰かから勧められぬよう床に置かぬまま、なにを思っていた、と問われたのだ。


「特別に、変わったことは……」


「酒は飲めぬたちか」


 男が、さらに問う。

 いつの間にか、傍らに座っていたのだ。片膝立ちで、その膝の上に組んだ両腕を載せている。

 近づかれた気配はなかったのに、まさにいつのまにか、だ。


「いいえ。得意ということもありませんが」


「では、味が合わぬか。当然、(がら)(こく)のものとは違う。食味は風土に影響されるものだが、酒や(らく)(にゅう)は、特にだ。なぜだと思う。長期間、熟成する時間のなかで、その土地の大気や香りを取りこむからか。どうだ?」


「証拠のない、とりとめのない話で構いませんか」


「聞かせてくれ」


 相手は、簡素な衣服を身にまとった男だった。

 鋭く切れ上がった眉が細く、中性的で、端正な顔立ちだ。

 一目見れば若そうでもあり、しかし相当に年を経たように、落ち着いた力強い瞳をまっすぐに向けてくる。灰青色の瞳だ。

 大きくドレープの入った長衣を、ゆったり羽織っている。色合いは()()りのままだ。

 おそらく腰をベルトで留めているが、長衣のひだが大きすぎ、細部が埋もれてよく見えない。

 (すそ)は床に引きずらんばかりであったし、袖丈も長すぎる。男が意図して肘を張らねば、指先まで潜り、垂れ下がりそうなほどだ。

 頭には布を幾重にも巻きつけ、髪のほとんどを隠している。その布の色もまた、飾らぬ生成りであった。


 人狼族の男には珍しく、(ひげ)を伸ばしてはいない。編みこみがされていない。短く刈り込み、しかし、異様に見える。

 銀灰色から黒褐色に変化する髭が、もみあげから顎先まで密に続く。その髭の中に、紋様が描かれているのだ。

 かつて見たことのある、どのような模様とも似ない。

 見知らぬ文字であるのか、伸びる蔓草か、逆巻く波か巻雲を抽象的に表したものか。

 強いて喩えるなら、学者が記す曲線と記号による図式に似る。魔術師が描く、不可思議な()(とう)の紋様に似る。

 筆で彩色したものではなかった。入れ墨で描いたものでもなかった。

 極めて細緻に、入念に刈り込んで描いている。光の加減によって、わずかな高低の差が、陰影の複雑な紋様を生み出している。

 日々、そうした手間をかけられるものは、どのような身分であるのか。

 男が、先ほどの答えを促す視線を向けてきたので、ディーは推測をやめた。おそらくは、いかなる非礼も許される相手ではない。


「先ほどの、風味の話ですが」


「どう思う」


「例えば香りは、目に見えぬものです」


「お前たちには、そうらしいな。だが、我らには見える、と言ってもいいものだ」


「しかしそれは、ものの本質ではない。違いますか」


「本質か。それは、なんだ。より具体的に言え」


「それそのものではない、ということです。あなたが匂いの私を見るとき、おそらく歩いてきた道行きそのままに、後方に薄れながら(れん)綿(めん)と続いていることでしょう。まるで、一列に連なる私の行列のように」


「うん。薄れる、まさにそのような感じだ」


 話すほどに、男の歳経た顔が、少年のように鮮やかな表情に変化していく。この男は、聞くことが好きなのだ、とわかる。

 好奇心に満ちた、表情の若々しさだ。

 (やさ)びた顔立ちのせいもあるが、眼光や表情が、見た目にいくつであるのか、(よわい)を曖昧にしているのではないか、とディーは思う。


「輪郭や色合いが、だ。(さかのぼ)るほどにゆるりとぼやけ、細部から消えていく。無論、残りやすい部分はある。しかし、やがて人や物のかたちは崩れ、色のない(もや)になって消えていく。そういうことが、お前にわかるのか」


「本当のところは、わかりません。ただ想像するだけです。言葉の端々から感じた、あなた方の見方、周囲の世界を。私は、決してその場所に着くことはできないが、近づくことは出来る。そのように信じます」


「そうか。ならばお前は、だいぶん近づいているということだろう。既に我々の鼻面の先に、だ。それで、匂いと本質がどう関わる」


「あなたが見ている過去の私が、この私そのものではないように、見えている香りも香りそのものではない、ということです。本質は別にあるはず」


「いいぞ。わかりかけてきた」


「香りは見えないが、香り造り出しているなにかが、たしかにそこにある。私はそう考えています。実在はしている。おそらくは極小の存在で、限りなく視力の優れたものですら、目では捉えられない」


「大気の中にか。吹く風の中にも、か」


「はい。風ですら、そのような存在であるかも知れません。無数に漂う、見えない極小の存在が動き、水の流れのように我々を押してくる。そう考えることもできます」


「うん、いいぞ。続けてくれ」


 男の姿勢が、次第に前のめりになっていた。

 灰青色の澄んだ瞳が、まっすぐに見つめてくる。耳を傾けるということを、姿で体現しているかのようだ。


「特別になにも混ぜずとも、酒ができることはあります」


「そうだ。できる。なにかを混ぜて変化を促すならば、わかる。だが、なにもせずとも果汁が酒に変わることがある。不思議なことではないか」


「目に見えぬ極小存在を仮定するなら、あり得ることです。酒や酪乳を造り出すものも、大気の中にある。だから放っておいても、自然に変化する。そのように考えることもできます」


「うん。既に変化したものを、混ぜて造ることもあるな。そちらはどうだ」


「例えば、造り出すものがひとたび原料の中に混ざれば、漂っている間よりも数が多くなる。大気よりも水をより冷たいと感じるように、促す力が強くなる。ならば、酒種を入れればパンが膨らむ理由も、酪乳が酪乳を生む理由も、簡単に説明がつくのではないでしょうか」


「ふうむ。だが、本当にあるのか。香りが漂うように、そのあたりにも、か」


「最初に言ったとおり、とりとめのない話です。証拠はない。すべての大気には、目に見えぬなにかが含まれている。その仮定ひとつで、いくつもの事柄が説明できるのではないか。それだけのことに過ぎません」


「なにか、とはなんだ。結局、わからぬのか」


「わかりません」

 ディーは微笑する。

「精霊かもしれない。錬金術師が使う触媒のような、熟成を促す小さな粉が、無数に漂っているのかもしれない。あるいは大気という我々の呼吸に不可欠なものが、そもそも変化を促す力を持っているのかも――」


「ならば、その見えぬ粉が、土地によって違うのか」


「そうかもしれません。しかしなんであれ、根本的には同じものではないか、と私は思います。土地によってひとの様相が異なるように、精霊もそうかもしれない。目に見えぬ極小の存在であっても、肌の色や体格、あるいは言葉が異なるように、その土地その土地に適した姿かたちをしているのではないか。そうであれば、味わいも――」


「この酒も、旨い、と感じるのだな」


「はい」


 うなずいた。

 今度は、男が微笑する番だった。


「この土地で呑む酒は、ここで生まれた酒が良いということか」


「しっくりくる。そう思います」


「良し。お前のことが、だいぶんわかってきた。その匂いも、シュトカがお前を好いた理由も、だ」


 男が言う。明朗な声だ。ディーの側でも、彼のことがわかりかけていた。

 もはや、シュトカの親族であることは間違いない。

 初見ではないのだが、かつての会見は、()()越しに行われた。交わした言葉も、最小限であった。

 だから、気づかなかったのだ。



〈つづく〉

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