尾(3)
3
段取りはついた、とディーは思う。
いったんはシュトカと別れたものの、すぐに合流する。そのような手はずだ。
彼女がいつどこで登場すればよいか、決めごとをしてきたのだが、なにしろ交渉ごとだ。
思い描く通りに進むか、やってみなければわからない。複数のひとが、物が、場の雰囲気すら、交渉という形なきものを運んでいく。
誰か頼れる味方をもうひとり、と望んでいたところに、上官と出遭ったのは幸いだった。
「なにをしている、ディー」
彼は、乗馬を素早く寄せてきた。巧みな手綱捌きで、ディーなどより、よほど馬の扱いに長けている。
ゆるやかに速度を落とし、徒歩で馬を引くディーの、すぐ脇を歩ませる。
まるで余分な最後の力を収めるように、馬が地面を踏み鳴らす。ひづめの下の青草が散る。
今まで感じていた異国の植生の匂いが、より強く溢れたように鼻腔に届く。
「あきれたぞ。オウスヴァラの地に、着任早々だ。あちこちさまよい、ものぐさを決めこむとは。旧知の友を、見損なったというものだ」
独特の言い回しに、ディーは肩をすくめる。苦笑をこぼす。
「さまようのは、職責のためだ。そのための〈耳〉だろうに。見聞きしていたんだ、まさにこの異国の地を」
「知っていた」彼のほうでも笑う。「からかっただけだ、俺の〈耳〉。ゆるせ」
この男は、名を、ジェンテ・スミルキという。
服装はディーと同じような、二の腕の袖を膨らませた黒のシャツ、黒の革上衣だ。
黒一色の配色であったが、唯一、毛羽立つ純白の襟が、首筋に目立つ。
上官である立場を示すように、毛皮を施した外套を肩にかぶせ、留め紐も固く結ばず奔放に裾をなびかせていた。
なにより、腰の帯剣が、特権と身分を表している。
飾り気の薄い無骨なあつらえであったが、鞘を吊す革ベルトには、紋章入りの留め具が下がる。
象嵌された家紋は、盾に竜と大烏。貴族のしるしだ。
ガラエキアの門閥、トヴァスス伯スミルキ家の家紋であると、ディーは良く知っていた。
「ゆるしてもらえただろう、寛容で知られるお前であれば」
屈託なく笑いながら、ジェンテは、肩まで伸ばした金髪を揺らす。
手綱を握ったまま、片手を伸ばし、友の肩を軽く突く。
放縦に跳ねがちな髪は、獅子のたてがみを連想させるが、目鼻の造形が優しすぎる。ために、伝説に聞く洞窟の猛獣よりは、人なつこい猟犬のようだ。
「許すさ、ジェンテ。そうしないわけがない。だが、手伝ってほしい」
「なにを、だ」
「羊を助けたい。我々が贈答につれてきた、あの群れ全部を」
「あいかわらずだ。お前の言葉は、端緒ではまるで要領を得ない。詳しく話せ」
うながされて、ディーは、あらためて口を開く。
その日、少女と出会い話したことの概容を、かいつまんで話し出した。
「なるほど。そういうことがあったのか」
と、ジェンテは首をひねる。目蓋を伏せて考える。
「お前がしたいことはわかったが、既に贈ったものだ。彼らのものであれば、好きにさせるのがいいだろう」
「そうさせない、理由はある」
「女人か?」ジェンテは笑う。「友が、外つ国の女を気に入ったというだけで、俺まで企てに乗るのはどうなのだろうな」
「そういうことでは、ない。真面目に聞いてくれ、ジェンテ」
耳朶を紅く染めながら、ディーは眉をひそめる。からかわれることには、まるで慣れていない。
勘ぐりが的中であると思われては、それこそ困る、というのがディーの率直な感情だ。
「いいか。贈答の羊は、もとより食肉用ではない」
「かまわんだろう、と言ったんだ、俺は。祖国でも、喰うに困れば喰らう。特別な神祭であれば市民ですら、供物に相伴する。そういうことは、持ち主の勝手というものだ。まして俺が贈った相手は、オウスヴァラの狼王だぞ」
「そうだ。国家と国家を繋ぐ友好の証として、贈答した。ならば、その価値は高くあるべきだ。我々のような小勢が、辺境よりも先の先、このような異国で生きていくためには――」
「必要なものは、拠って立つ基地だ、と言いたいのだろう。我々の営巣を造る。無論だ、そうするとも。俺は、己を過信しすぎているか、〈耳〉よ?」
「どうかな。あなたは稀に、自分だけは死なない、とでもいうような道を進む」
請われて同格の口をきいてきたディーだが、つい、君主を心配するような声を出してしまった。
気づいたのか、ジェンテが眉をひそめる。苦虫を噛みつぶす顔だ。
「わかっている。巣を守れるのは、我々の武ではない。剣ではないし、まして火筒や魔術ではない。百人は、少なすぎるからだ。ならば、どうする」
「役立つところを見せればいい。我々がオウスヴァラ国と、国を治むる狼王や、彼の部族にとって有益なものであるならば、彼らが我々を庇護するはず」
「それで、羊か」
「そうだ」と、ディーはうなずく。「まずは、厨房の長に会う。そこからだ」
乱雑に岩を積み重ねた、という印象の石窯だった。
ひとの背丈の倍はありそうな、黒褐色の石窯だ。
石組みのドームに穿たれた煙突穴から、静かな一筋の煙をくゆらせている。
容易には運べなかったであろう岩石が、煉瓦と組み合い、ひとつの巨大な焼き窯を造り上げていた。
オウスヴァラの地の、気高く力強い気風を表すようであったが、岩と岩の接合面は滑らかそのものだ。精緻の極みでもあった。
石窯の半円形の開口部には、パンを差し入れる石の台座が儲けられていて、ところどころ、真っ白な灰を薄くかぶっていた。
開口部は、分厚い素焼きの陶板が立てかけられ、今は閉じられている。
わずかな隙間から、ちりちりと赤光が漏れ差していた。
灼熱した内部、石壁とドーム天井の余熱で、並べられたパンが焼かれているのだ。
傍らの、背の低い樽には、ひとりの男が座していた。
だぶついた長衣の腰を革紐でくくり、広がる裾を、程よい丈に合わせている。
袖も同じように紐で縛り、筋張った二の腕を見せている。
長衣も、そこからのぞく腕も、すべてが灰色だ。パン焼きの薄灰にまみれたのか、元からであるのか、判然としない。
帽子代わりの巻き布だけが、鮮やかな赤と黒の縞模様をつくりだしていた。
そして、尾がある。ごわついた長毛の尾が、樽の後ろに、緊張で小さく揺れている。
「厨房の番か?」と、ジェンテがたずねる。
男はうなずくが、眉間に深いしわをつくる。視線を床に落とす。
ぶつぶつと口髭の奥でつぶやきながら、ディーに向かって、手招きした。
「すまんがね」と、低い声で囁くように言う。「わしは、彼とは話せない。わかるな?」
「身分が違うからか」
ディーは聞き返す。男の座る樽の脇まで、ゆっくりと近づいた。
床に散った焦げた木屑、石窯から掃き出された燃えさしと灰の上に、点々と靴跡が刻まれていく。
「うん、そうだ。わしは厨房番で、ここを任されてはいるが、上種のものと、口をきくことはできない。本来、顔も合わせないのが礼儀なんだ。わかるな?」
「なるほど。我々の国にも、そのような礼節はある。だから、良くわかる」
ディーが視線を上げると、ジェンテはうなずく。
手近な壁際まで下がり、石壁に背をあずけ、退屈そうに両腕を組む。
「彼は、話さない。代わりに私が代弁しよう」
「助かるね。それで、あんたらみたいな外つ国のものが、どんな用事だね?」
「我々の食について、だ。相談がある。対処すべき問題、と言ったほうがいいかもしれないが――」
ディーは、あえて言葉を切る。たった今、気づいたかのように指をさす。
「驚いたな。それは、焼き窯なのか?」
「ああ……うん、そのようなものだよ。わしの、厨房番のちょっとした特権なんだ」
「岩石を削って、蓋にしてある?」
「うん、そうだ。さわってはいかんよ」
あぶない、と子どもを諭すように、男は言う。
地面に近づけた手のひらを、扇ぐように振る。手の真下には、籠を逆さまにした形状の、重そうな石蓋が置かれていた。
石蓋の側面は、なだらかに傾いている。
その上に、まだ熱気のこもる砂のような灰が、たっぷりとかけてあった。
「下には、陶板があるんだ。窯で使った燃えさしの薪で、そいつを熱くするね。そしたら、薄く伸ばしたパンを置く、ずっと置かれているね。蓋を被せる。窯から掃き出した、熱々の灰もかぶせる。すると、余熱で程よく焼けるんだ」
パンを焼き上げることに、美味にすることに、誇りを持っているのだろう。
口調と、揺れる尾の動きから、それがわかる。
男の言葉には、極端に聞き取りづらい低音、ごろごろ唸るようなところがあったが、大まかに意味は掴めた、とディーは思う。
「なるほど、素晴らしいものだ」
「うん、そろそろ焼き上がるさ。わしらは、こいつを旅窯と呼んでいるね」
〈つづく〉