血盟(8)
8
虜囚が目を醒ました。
既に、襲撃の夜は過ぎ、淡い陽差しが白壁に反射していた。
小さな部屋ではあったが、牢ではない。黒々と重く変色した、木製の扉がひとつ。幅の狭い高窓がいくつか、天井近くに開いている。
微風がわずかに流れ込み、夏の枝葉と雨滴に濡れた下生えの、湿った森林の香りを運んできていた。
落ち穂をついばむ、鳥の囀りが聞こえる。
畑から畑へ、牛を追い立てる男たちの唄が響いてくる。鶏の群れが、壁の外でさざめいている。
反射光を取り入れるために、部屋の上方だけが漆喰壁だ。その下は、石組みが剥き出しのままになっている。
夜半の隙間風に冷えた壁が、しんとした早朝の涼しさを部屋じゅうに染み渡らせていた。
虜囚から少し離れた扉側に、ふたりの影があった。
あぐらをかいて床に座したディーと、寄り添うように傍らに立つシュトカだ。
柄のついた真鍮の小鍋と、いくつかの陶製のカップを目の前の床に置いている。鍋には蓋がある。焦げて木目が黒ずんだ、木製の蓋だ。小鍋と蓋の隙間から、静かに湯気がこぼれ、揺らぐ。
苦く焦げたような香りと、煮立てたミルクの匂いが混ざっていた。
まるで自らの居間にいるように、ディーは鷹揚に振る舞う。シュトカのほうは、緊張を隠せていない。刺すような瞳が、まっすぐに虜囚に向けられていた。
「なぜだ」
と、虜囚の男が口を開く。
仰向けになったまま、わずかにも体は動かさない。
薄い灰色の瞳も、同様だ。まっすぐ天井に向けられ、ディーを見ようともしない。放射状の虹彩は青く、小さな瞳孔だけが黒点となっている。
「なにから尋ねていいのか、わからないのか」
ディーが聞き返す。
虜囚は、眉間にしわを寄せた。細身だが、贅肉のない獣のような男だ。
武具はない。すべて、屋内に運び込む前に取りあげている。麻の胴衣のみを身につけているから、男の身体の様子は見て取れた。
日に焼けた浅黒い膚だ。
陽光を照り返す腕の皮膚が、つややかで青みがかってすら見える。昨夜の組み討ちによってついたものであろう、新しい打ち身の痕跡はあったが、すべて軽傷のようだった。
男は、自らの頭に指を触れさせた。おそるおそる、という動作だ。ぐるりと巻かれた包帯に気づき、顔をしかめる。
血痕は、焦げ茶色の染みだ。既に乾いていた。
自ら見ることができずとも、手当がなされている、と悟ったのだろう。同様の処置は、脚にも為されていた。
「なぜだ」
「なぜ生かしたか、ということであれば、必要がなくなったからだ。今は、殺傷の理由がない。だからだ」
「俺から、身代金は取れんよ」
低い声だ。囁くような呼気であるのに、声そのものは明瞭だ。どこか詩歌を吟じる趣すらある。
問いかけであっても、いまだ変わらず、男の両眼はディーを見ない。シュトカに視線を向けない。半眼に目蓋を落とし、ただ天井を見上げている。
「わかっている。水車小屋を襲うからには、その中身が欲しかったからだ。穀類の蓄えを奪うつもりだった。ならば、お前たち盗賊は、食い扶持に困る者ということだ」
「そうだ。既に、夏の小麦が運ばれる季節だからだ。持ち帰れば、冬に備えることもできたのだがな。身代金が取れぬとなれば、奴隷として売るか」
「どうかな。枷が効かぬと知れば、買い手は二の足を踏むだろう」
「だからか。俺を縛らないのは、そういうことか」
「その気になれば抜けられるなら、自由にしていても同じことだ。奇襲には本当に驚かされたが、あれは、修練か。それとも、生まれついてそうなのか」
「生まれつきではない。昔は違った。修練とも違う。変じたのだ。望むと望まざるとに関わらず、だ。気づいたときには、そうであったとしか言えない」
「そうか――。不思議なものだな。出身はどこだ。人狼の民には見えんが、言葉はよく似ている。隣接した他国より、流れてきたか」
「覚えていない。とても残念なことだが。今では、この辺りの森林を広範に巡回している。時には草原も越える。あてどない放浪の日々だ。群れなければ、生きることすら覚束ない。そういうことだ」
「元の暮らしに戻りたいとは、思わないのか」
「なぜだ。戻るものなどないと考えんのか。野盗どもは最初からこうであったのだ、と」
「生まれたときから、ではないだろう」
ディーは淡々と語る。
相手が目を合わせずとも、まっすぐに見つめ語りかける。
「お前は、覚えていない、と言った。ならば出自はあるはず。本当に忘れてしまったか。隠しているか。あるいは、思い出したくない強い理由があって、お前自身が記憶に拒絶されているか。いずれかだ」
「そうか……」
初めて、男が顔を横に倒した。ディーを見た。
そのまま、しばしの無言だ。男のほうからも、ディーを観察しているようだった。
「驚いたな。お前は、外つ国びとか」
「そうだ。外つ国びとの水車と知って、襲ってきたのではないのか」
「水車小屋の建つ前だ。縄張りを見たからな。あの川辺に水路を導き、縄張りをしたものは人狼だった。人狼族が指示して建てたからには、当然、人狼のものと思うだろう」
なるほど、とディーはうなずく。
「土地は借り受けのものだ。そのためだ。我らは、オウスヴァラの人狼族と取り引きしている。移民であれば、自由にならぬことも多い。縄張りは、ここにこうであるなら造っても良いとする、人狼族の寛容によるものだ」
「俺が咬んだ兵は、やはり外つ国びとか」
「そうだ。我らひとの傭兵だ。彼の様子を、見に行ってみるか」
「なぜだ」
「そうする理由がわからない、ということか」
「そうだ。手酷くやってしまったからな。向こうは、俺などに会いたくないだろう。処刑の場でない限りは、だ」
「会わせるとは言っていない」
ディーは小鍋の蓋をとる。
陶器のカップに、なにかを注ぐ。土を溶かしたような、黄土色の液体だ。湯気がたって、熱そうに見える。
陶器の半ばまで注いでしまえば、薄茶色の泡が自然と膨らんでいく。
飲み口まで溢れそうなほど膨れて、程よく止まった。細かな泡だ。芳ばしい匂いで部屋じゅうが満ちるほど、強い香りがたちのぼった。
ディーは虜囚の前に、手のひらで押すように差し出した。
「どうだ、まずは口を潤しておくのは。行くとしても、それからだ」
「しかし」
半身を起こした虜囚は、眉をひそめる。匂いを嗅ぎ、さらに鼻の頭に皺を寄せる。
「これは毒ではないのか。違うのか」
「果実の種子を煎ったものだ。それを細かく砕き、砂糖と共に牛の乳で煮込む。すると旨味のある泡が浮かんでくるので、上澄みを掬って飲む。そのような飲み物だ」
「まったく聞いたことがない」
「珈琲というものだ。甘く、そして苦い。大断崖を超えたこの地には、おそらく存在しなかった。私の祖国でも、より南方の外つ国から学び、手に入れた。最も新しい文化のひとつだ。いまだ馴染まぬ者のほうが多い。だが、私は気に入っている」
「人狼の娘も、そいつを飲むのか」
「勧めたことはない。どうかな――。シュトカ、試してみるか」
ディーが仰ぎ見ると、シュトカはうなずく。
いまだ警戒の背筋のまま、静かにディーの隣に座す。おずおずと身を寄せ、ディーの腕に触れながら、陶製のカップを受け取った。
「この珈琲というものもそうだが、お前たちもだ。まるでわからない」
と、虜囚は言う。眉をひそめながら、カップに口を付ける。
「外つ国のひと族と、オウスヴァラの人狼がいかにも親しげだ。どのような利益あって、共にいるのか。同盟なのか。だが、それにしても、男と女だ」
「これは、血盟。まだ為されたわけではないけれど。半分だけ。たった昨夜のことではあっても、私たちは夫婦になったの」
シュトカは、事実を置き並べていくように、はっきりと語る。
虜囚が呆れたような声を出しても、お構いなしだった。
「そうか。驚いた。そんなことがあり得るとは、だ。この煎じものにも驚かされたが、まるで異境の地だ。あるいは俺は、頭を打たれたまま、いまだ夢の中か」
「お互い様だ」
ディーは、口元に微笑を見せる。
「私もまた、驚かされることばかりだ。私の名は、ディー・ジュバル。大断崖の南、ガラエキアより、踏査官としてこの地に来た」
虜囚は、名乗らない。
両眼を細めたまま、じっとなにかを考えこむ。そのような表情だ。
「私は名乗った」と、ディーは続ける「名を、聞かせてはもらえないか」
「わからない。既に、覚えていない。取りあげられたのだ。名乗ることを許されず、だからこそ、あのような場所にいた。流浪の賊に混じるより、ほかに道がなかった」
「名を――取りあげるのか」
今度は、ディーが考えこむ番だった。
形ある物ではなく、名を取りあげるという。なにがしかの処罰のように思える。おそらく相当に重たい罰だ。
しかし、取りあげられた者が思い出せないというのは、あり得ることなのか。
「きっと、禁忌を犯したから」
シュトカが、虜囚に変わって答える。傍らで、ディーの困惑を読みとったのだろう。
「神に係わる罪。考えるのも恐ろしいことを、ほかのものに伝え広めた罪。村や市に深刻な危険をもたらした罪。そうしたときに、私たちは名を取りあげられるの」
「だが、シュトカ。名乗りを許されないだけでは、己が誰か、覚えておけるだろう。自らの名を忘れてしまうのか。なんらかの魔術でそうなるのか」
「魔術かどうか、わからない……」
シュトカは首を左右に振った。自らのカップに口をつけ、びくりと身をすくませる。
隠していた狼の耳が、亜麻色の波打つ髪からわずかに立ちあがった。
「初めてであれば、奇異に感じて当然だ。無理につきあうことはない」
ディーが手を差し伸べたが、シュトカはもう一度、首を振る。
両手を温めるようにカップを持ち、縁におずおずと唇をつけながら話を続ける。
「咎人は、一切の持ち物を持たされない。ただ羽織る毛皮一枚を与えられたきり、境の森に放り出されるの」
「追放ということか。戻っては来られないのか」
「いずれは。月日は罪の重さで変わるけれど、確かなことはひとつ。誰も名を呼んであげられない。迎えにはいかない。だから、戻って来られたものは、どうにかして名を思い出したということ」
「思い出せなかったものは、どうなる」
「その時は、ひとの姿ではいられない。奥国の民なら、銀狼神に導かれる以前の、知恵なき姿に戻ってしまう」
「狼の姿に――それも、森で見かける小さきもの、ということか」
「一匹の、けものに」
シュトカが囁く。
わずかな震えの、短い言葉に籠もるものは、おそらくは畏怖だ。
「恐ろしいことだよ」
虜囚がつぶやく。カップから口を離し、怪訝そうな顔をした。
「俺もいずれ、一匹の蛇に変じてしまうのかもな。地を這う、ものを感じることすらない毒蟲のたぐいに」
「ならば、やはり行かねばならんな」
「どこにだ」
「見ておくべきものの場所に、だ。傷の痛みはどうだ。歩けぬようなら、無理にとは言わんが」
「この程度の傷――」
虜囚は、頭の包帯に触れた。手のひらを下ろし、手当された脚に添える。まるで筋肉の動きを手のひらで探るように、ゆるりと動かす。
そうした確認が済むと、最初のときと同じ囁く声でディーに問う。
「どうということはない。だが、なぜだ」
「今度はなにを聞く。枷も付けず、お前を歩かせる理由か」
「そうだ。俺は賊だ。実際に水車を襲撃もした。今もまた、お前たちを襲うと思わんのか。逃亡するとは考えんのか」
「どうかな。これだけの道具を並べたのだ」
ディーは、珈琲の入った小鍋と、陶器のカップを手のひらで指し示す。
いまだ白い湯気がたち、香気がゆらゆらと昇っている。
「そうするつもりなら、既にやっていただろうに。熱い湯を奪い、かぶせてもいい。手にしたカップは鈍器になる。割れば刃物だ。事実、これらを前に、お前は戦いを選ばなかった。私の話を聞くほうを選んだ、ということだ」
「とんでもないやつだ、お前は――」
虜囚は、眉間にしわを寄せた。呆れたように、ふうと息をつく。
「いや、踏査官、ディー。俺がどうするか、見極めるためのものだったのか。そのための外つ国の道具立てか」
「それだけではないさ」
ディーは唇に、静かな笑みを浮かべる。虜囚に手を差し伸べる。
名を呼ばれたのは良い兆候だ、と思う。暴力で屈服させるべきものではなく、会話を交わす相手として認められた、ということだ。
「珈琲は良いものだったろうが。頭も、すっきりしたはずだ」
「口の上手いやつだ。たしかにな。俺は、お前の話を聞きたいと思ってしまったのだろう。今もだ。次は、なにを話す」
「おいおいと、だ。道行きで話そう。だが、まずはひとつ聞いておきたい」
「どのようなことだ」
「名乗る、名だ。やはり、知っておかねばならん」
「取りあげられた、と言っただろう。思い出せない。なにをしてもだ」
「それでもいい」
ディーは、自ら答えない。どうだ、という顔をシュトカに向ける。
興味深げな視線と、立ち上がりかけた狼の耳を目にしたからだ。澄んだ翡翠色の瞳に、好奇心がある。
瞳孔が丸く大きく膨らんで、ことの中心に近づきたがっている。そのことが、ディーには良くわかった。
「あなたは、いずれ蛇に変じてしまう、と怖れていた」
物怖じのない声で、シュトカが問う。
「それなら、他のものたちは。名を取りあげられたものは、あなただけ?」
「いいや。皆、似たようなものだった。咎人の集まりだ。警吏に追われ、生まれた市から逃れ、自ら名を捨てた者すらいた」
「そういうものたちが賊として集まったなら、きっと互いに協力しあうはず。誰かに名付けてもらうか、自ら工夫して名乗るか。そうやって仮の名で、お互いの不安を消そうとする。違う?」
「そうだ――」
虜囚は、ゆっくりとうなずいた。驚きを隠せぬ瞳を、シュトカに、そしてディーに向ける。
「すべてお見通しか。とんでもない夫婦だ、お前たちは」
「では、教えてくれるのだな」
差し出されたままのディーの手のひらに、虜囚が手を重ねる。
「ショズ」と、自らの胸を指す。「意味などない、ただのショズ。誰かが思いつきで叫んだ語だ」
「確かに聞いた、ショズ。いつか真実の名を取り戻すまで、そう呼ぼう」
ディーの返答に、虜囚は、ぎこちなくうなずいた。
〈つづく〉