血盟(7)
7
明かりは、小さな灯明だけだ。
地階には、三基の水車が並列して回っているはずだが、今は輪郭しか見えない。それほどの闇だ。
濃い影と、完全な闇とがある。色彩はない。水車は、回転する影絵だ。
石と煉瓦で組まれた重い上階を支えるために、柱の数は多く、太い。
水気で湿った真っ黒な石柱が立ち並び、それら影の交叉が、景色を寸断している。水車の動力を挽き臼に繋ぐ、軸と歯車の影も視界を塞ぐ。
奥行きこそないものの、小さな地下迷宮に続く入り口にすら思える。
水飛沫をあげているのは、巨大な水車の影だ。
板材が素早く水を切る音が、規則的に響く。重く湿った木槌で、こつこつ板を打つような音も混じる。
どちらも、巨大な水車がたてるものだ。
素早く回転する羽板の先で、水切りが流水を切って回る音だ。
心棒の軸が、揺らいで軋む。軸受けとの狭間でわずかに跳ね、重い打音となる。
砦を兼ねて造られた水車小屋であるから、部屋の中央には、川から引きこんできた水路が流れる。
水車を回すための水路は、狭い。
垂直に切って組んだ、石造りによるものだ。自然、通過する水の音は、河川よりも細く鋭いものとなる。
石と木の打音、それらが混ざり合った音が、うるさいほどに室内に響いていた。
水車そのものは、ひとの背丈より頭ひとつも、ふたつも高い。その回転する輪板の陰から、一筋の明かりが、ぽつりと姿をあらわす。
揺らぐ炎の足元に、影が落ちる。
陶製の灯明を手に持った、踏査官ディーの影だ。
無言のまま、静かに石床を踏む。三連に並ぶ水車の脇を回りこみ、やがて片膝をつく。床に屈みこむ。
水飛沫が打ちかかる距離だ。石床も一面、びっしょりと濡れている。
ディーは床に手のひらを触れさせ、指先の感触をたどった。
皮膚に、ざらりと触感がある。
手のひらに付着するものがある。泥と、微細な砂の混じったものだ。
見回りの傭兵どもが、足裏に付けて運んだものか。そうであるなら、これほど水車の間際まで寄って見張るだろうか。
おそらく彼らは、そうしない。絶え間ない音と飛沫で、周囲の気配から遠ざけられることを厭うだろう。
ならば、なにものがこのような跡をつけた?
まるで――と、ディーは思う。
得体の知れぬものが、水路から侵入した。回る水車との隙間から、ゆるゆると這い出したかのようだ。
流水は極めて速いが、泳法に達者なものであれば、あるいはやれるかもしれない。泳ぎ、辿り着くところまではできる。
困難となるのは隙間だ。ひとが通り抜けるには、横幅が足りない。
小さな場所に潜む技があることは、見知っている。宮廷の道化の中には、信じがたいほどの柔軟さを持つ者がいた。
手脚を折りたたみ、全身を奇妙に捻る。小箱や壺の中に己の姿を隠してしまう。
そうした技量があれば、侵入できるだろうか。無理に思える。
あるいは別の奇術もある。特異な者どもは、一部の関節を自在に外す。例えば親指の関節を外して、頑強な手枷から抜けてみせる。
ディーは鼻梁にもう片方の手指を当て、屈んだ姿勢のままで考える。
シュトカの言葉がすべてだ。
語られた一切のものごとを、そのままに受け取る。
すべて事実であると信用すればいい。ならば、たった今、目の前で見たことすべてが一繋がりになる。
「誰かが、ここから侵入した――」
声に出した。断言した。気配を隠さずに立ちあがる。
的中しているのであれば、その音によって、何かが起こるはずだ。
予想したのではない。起こりうる出来事の期待でもなく、過去にそうであった、とディーは知っていた。
シュトカが語ったからだ。
影が動く。
暗闇が突如として凝集したように、そのものの影が壁際に映った。
走るほど速くはない。歩むほど緩やかでもない。だが、突然だ。まったく動き出しを予想させない。
背を屈め、石床を滑るように近寄ってきた。
気づいたときには、ぶつかっていた。相手の体が、どん、とディーの胸板にぶつかる。
予期せぬものであれば、簡単に地に倒されたことだろう。兵もまた、このようにされたのだ、とディーは知っていた。
ぶつかってきたのは、肩だ。
頭を低くし、肩からディーの胸もとにぶつかって、吸い付くように体を寄せる。
いまやディーの左脇のすぐ下に、襲撃者の頭があった。
脇腹に、耳を押しつけられた感触がある。固く冷たい両腕が、獲物を捕らえるように腰のあたりを掴んできた。
武人にとって、左脇腹より下の空間というものは、提げた武具を抜き放つために必要な空間だ。
その位置に、相手の頭と右腕が密着している。骨張った広い背中が、壁のような障害物となって、左右どちらの腕も剣の柄に届かない。
そのものが、ぐいと頭を振ってきた。押しつけた側頭と肩で、ディーの長躯を捻ろうというのだ。
片側からの一方的な力だ。
こらえる間などない。左の踵が、石床から浮いてしまう。
そのものは、ディーにかぶさるように体を回し、背中から床に落とそうというのだ。
捻り落とす。字義通りの、見事な技量だ。見えずとも、闇の中であっても構わない。密着したもの同士の、いくさの技だ。
毒でやられた兵は、このようにして倒されたのだ。それもまた、ディーは知っていた。
シュトカと話したからだ。
兵と違うのは、ディーは右手ではなく、左手に灯明を持っていた。陶製の灯明だ。先端が注ぎ口のように尖り、小さく燃える灯芯が差しこまれている。
ディーは、灯明を激しく叩きつけた。
襲撃者の側頭めがけ、弧を描くように振り下ろす。互いに密着した組み討ちの近さだ。はずすことはあり得ない。
炎が落ちる。
陶器の破片が飛び散り、それからあとは完全な闇だ。
組み伏せにきた力が、はっきりと緩む。
倒れこみながら、ディーは襲撃者の左腕を握る。手首と肘をがっちり掴み、自らの肩を載せるようにして回す。
双方が床に落ちたときには、ディーが上になっていた。
ほんの一瞬であろうが、意識が飛んだに違いない。腹這いに倒れたものを、後ろ手に捻りあげることは容易であった。
次に起こった出来事は、ディーが半信半疑であったことだ。
がつりと、殴られた。
半ばまで疑っていたために、真っ向からではない。かろうじて頭を振って逃げてはいる。それでも、確保の手は緩む。
完全な闇の中だ。相手の殺意が、呼気が、どうとディーの顔に叩きつけてきた。
恐ろしい膂力で両腕を掴まれ、ぐるりとひっくり返されるのを感じる。上と下、互いの姿勢が入れ替わる。
床に伸びていたはずの襲撃者の腕は、今やディーの腕を掴み、口元へ引き寄せようとしている。
そうか、とディーは思う。
兵は、このようにして咬まれたのだ。襲撃者は、水路の狭い隙間から、ゆるゆると這い上がってきたのだろう。
両肩の関節が、自在に抜けるのかもしれない。抜けずとも、背後に曲がるほど柔軟だとも思える。だからこそ、だ。
今、このように、背中が腹側であるかのように拳を振るうことができる。
王弟スヴァロトは、奇妙な混じりものが多い、と言っていた。夜が来ればわかる、とも。
わかった気がした。あるいは、蛇ではないか。喩えれば人狼族は、ひとと狼の混じりものと言える。
同様に、ひとと蛇の混じりものは、どうか。あり得るのではないか。
ならば、その牙は毒だ。避けねば、と思う。
背筋にぞくり、と。
暗闇で見えない。それでも、凶事を予期してしまう。それは、針のように尖ったふたつの牙だ。
毒蛇の唾液を滴らせ、手首に突き立つ――。
ごう、と咆哮がすべてを止めた。怒れる、けものの声だ。
びりびりと石壁を叩き、四方八方に反射し、耳朶の内側から脳までを麻痺させる。
意思とは無関係に、ディーの体はすくみ上がる。生き物が、そのようにできているからだ。
襲撃者もまた、同じだ。一瞬の体の強張りがある。
わずかな隙を、けものは逃さない。
入り口から突進したのは、ひとほどもある大きなけものだ。毛皮を逆立てた狼の影が、襲撃者の脚を咬みくわえる。
ぶるぶると首を振る。振りながら、石床の上を素早く引きずってゆく。
もはや、蛇の牙を突きたてるどころではない。
「やめてくれ」
と、襲撃者が、呻き声の合間に叫ぶ。
流れ出た血潮が、石床に黒々と蛇行を描く。
首筋に恐ろしい牙が触れ、はふはふと呼気を叩きつけられてしまえば、降伏のほかに道はない。
狼は、シュトカだった。ディーのために変じた姿であった。
〈つづく〉