血盟(6)
6
待てと言われた意味は、すぐに明らかになった。
守り手の傭兵がひとり、怪我をして運ばれてきたからだ。黒革の鎧を身につけ、腰には剣を提げたままの軍装束だ。
別の者に両側から肩を支えられ、引きずられるように連れてこられた。
両脚に、まるで力が入らないのだろう。すぐに床に崩れこむ。
「ひどいものだ……」
ディーは、眉間に深くしわを寄せた。
兵の息は荒い。
意識はあったが、呼びかけても、うわごとのような聞き取れない言葉をつぶやくのみだ。
喉につかえる呼気を、えづくように吐く。額に大量の脂汗がある。体中が、汗でびっしょり濡れているようでもあった。
革鎧で護られていない腕や肩に、広範の擦過傷が見られた。利き腕が、親指から肘の近くまで、赤黒く変色していた。
顔を寄せて見れば、わずかだが、手首に水疱があった。
青黒い血豆のような水疱だ。その周囲の皮膚が、激しく腫れていた。ぎざぎざに引き攣れていた。
知らぬ者が見れば、恐ろしい呪いを受けた痕に思うだろう。
ディーは、かつての経験を思い返す。
毒を受けたのではないか――。
ある種の毒を飲めば、このような症状になるものだ。しかし、盛られたのではない。変色と水疱が、腕のみだからだ。
黒革の鎧に指先を触れさせてみれば、異様な冷たさがある。汗で濡れているのとは違う。地下水に湿った、洞窟の岩肌を思わせる。
さらに兵の手首を取ろうとすると、別の者が鋭い警告の声を出す。
「よせ。呪いは伝播するものだ。触れずに済ます手立てを、考えたほうがいい」
「おそらくだが、呪いではない」
「では、なんだ」
「毒を受けたように見える。だから、傷口を探す」
「探せるのか」
「やってみよう。だが、毒であれ呪いであれ、彼が受けたのであれば、どこかに投射した者がいるはず。今夜は雲が多い。このような闇の中であれば、だ。既に、内側に入られたとも考えられる。周囲を警戒してくれるか」
「ならば、見回ろう」
傭兵は、重々しい顔でうなずいた。
ディーの言葉を、真剣に受け取ったようだ。足音を忍ばせるようにして、部屋の外側へと出て行った。
片膝をついたディーの傍らに、シュトカが同じようにしゃがみこむ。
ひとがディーのみの時は狼の耳を見せていたが、今は、亜麻色の髪の中に巧みに隠し込んでいた。
灯りはわずかだが、柔らかな体温を感じるほどの間近だ。少女の息を凝らした吐息、瞬きの動きすら、鋭敏に感じ取れるように思える。
シュトカが囁いてくる。人狼族の言葉だ。
緊張しすぎたディーの神経を、しんと耳朶に残る声と、いつもの柑橘の香りがやわらげてくれるように思う。
「なぜ、呪いではないと思うの」
「そうと決まったわけではない。見極めは、魔術師にすら難しいものだ」
「でも、ディーは違うと思った」
「毒にせよ、呪いにせよ、準備には並ならぬ時間が必要だ。毒の抽出、あるいは呪詛に使う複雑な触媒の合成……。両者は同じものでは、とすら思う。同様のものを、一部を呪いだと言い、残りを毒だと言う。それだけのことではないか、と」
「だけれど、なにか小さな差異がある……?」
「そうだ。言葉そのものは違う。差異がなにかも、わかる。我々が毒と言うのは、どのように盛られたかわかっているときだ。口から飲まされたか、目に注がれたか、あるいは射し込まれたか。今で言うならば、おそらく射し込まれた」
わかった、というように、シュトカがうなずく。
「腫れているのが腕だけだから。つまり、この右腕に毒を受けた……」
「そうだ。ほかにも理由はあるが、まずはそこだ。右腕に、傷があるな」
ディーは兵の手首を軽く持ち、捻るように裏返す。
「親指の付け根だ。大きい痕は相当に古い。病避けのまじないによるものだ。そのすぐ下に、小さな傷がある」
途端に、兵が両目を大きく見開いた。
ディーに触れられたことで、混濁した意識が戻ってきたのかもしれない。
「ここは、いまだ水車小屋か――」
「そうだ。なにがあった」
「わからん。何も覚えていない」
兵の手足は、不規則に痙攣を繰り返している。
言葉も、どこかおかしい。
強い酒に酩酊した者に似るが、眼光が強い。追いつめられたような面持ちをしている。
自由に舌が動かないのだ。彼自身が、そのように訴えたい。もどかしい感情をディーは読みとっていた。
「いいや、覚えているはずだ」
「俺は、倒れた。叫んだ。おそらくは助けを呼んだ。なにがどうしたのか、本当にわからんのだ」
「この傷はどうした」
「わからん。呪いだ。きっと呪いを受けた――」
「そうか。ならば、思い出せる」
ディーの口調には、確固とした断定があった。
なぜだ、と兵が眉をひそめる。
「どうしてだ。なにを思い出せ、という」
「お前は、受けた、と言っただろう。誰かから、だ。そこには相手がいるはず。誰だ、お前にその腕の傷を負わせた相手は」
「――――」
兵が、固く目蓋を閉じる。
ディーは、揺るぎない口調を装った。
できると、兵に信じさせるためだ。記憶に足がかりを作り、ひとつずつ、落ち着いて語らせるためでもあった。
効果があったのか、やがて兵が両目を開ける。眉をひそめ、混迷の中から思い出したことを語り出す。
「けものではなかった。確かに、ひとだ」
「我らと同じ、ということか」
「見た目は、そうだ。しかし人狼がひとに化けるように、正体は別であったかもしれん」
「無論、その可能性はある」
応えながら、ディーはシュトカを見やる。
身振りで、すまない、と謝罪した。
この男は、未だ混乱の内にある。
傍らにシュトカがいることすら、失念しているだろう。
だから不躾な物言いをしているが、本来は悪気はない、気を遣える男なのだ。あとで必ず陳謝させよう。
そのように伝えた。
シュトカは短く、わかっている、とうなずく。続けて、と促してきた。
「歩き方はどうだった」
「我らと同じだ。二本の脚で立ち……」
「手には、なにかあったか。長物か、短いものか」
「そうだ……そこがおかしかった。だから油断した。妙だ、と思った」
「油断したのか。なぜだ」
「素手だったのだ。なにも持たずに、暗闇に立っていた。あれは真の闇だ。松明もなく、月明かりも差さぬ。水車の回る地階の通路だ。やつは、壁際にそっと潜んでいた」
「お前も、灯りを持っていなかった。そういうことか」
「そうだ。突然に、息づかいで気づかされた。かすかな気配だ。わかるだろう、踏査官。いくさ場で、襲いかかってくるものの呼吸だ。音を聞いたか、目で見たのかもわからない。それでも、皮膚に感じる。あの気配だ」
ディーは、うなずく。
目の前に横たわっている男は、練達の傭兵だ。
いくさ場の骸とならずに済んでいるのは、それなりの理由がある。
「よく生きのびた。日頃の鍛錬の賜物だろう。それで、相手は、どのように襲ってきた。素手であれば、組みついてきたか」
「そうだ。わかるのか」
「闇の中、組みつかれ、激しく争ったのだろう。互いの距離が近すぎて、剣は使えなかった。だから腰に帯びたままだ」
「そうだ……だが、なぜだ……思い出せん」
「なにが起こったのか、まだ思い出せないのか」
「違う。なぜ、だ。なぜ俺はやられた。どのようにして負けた。まったく思い出せんのだ……」
兵の目蓋が、突如として落ちた。
手指の痙攣は止んだ。体中の力が抜け、ただ石床の上に横たわるのみだ。再び、意識を失ったのだろう。
ディーは、兵の顔に耳を寄せ、呼吸の音を聞く。手首から脈を取る。
手のひらを返し爪の間を検めて見れば、小さな鱗のようなものが挟まっていた。
「よし。生きている」
「これから、どうするの」
「シュトカ、頼んでもいいか。この男から見えることを、そのままに話してほしい。手首からは、特にだ」
請われて、シュトカはディーの顔を見上げてきた。
大きな丸い瞳で、睫毛の瞬きで、当然そうする、と答えてくる。
「手首に見えるのは――」
このような場にあってさえ、物怖じのない囁き声で、シュトカが語り出す。
ディーは頬を寄せ、静かに耳を傾ける。
彼女が語る言葉は、見ているものは、ディーの目には映らぬ景色だ。微風のようにそよぎ、水霧のように留まる、匂いの世界だ。
シュトカの声であれば、同じ景色を想像できるのではないか。人狼の棲むその世界に、分け入ってゆきたいのだ、とディーは思う。
鼓動が速まっているのを、なんとも面映ゆく感じる。
愛しさゆえか、危急に迫られているためか。区別する方法は、ないように思えた。
〈つづく〉