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狼と尾とひとと  作者: 鳥居羊
26/36

血盟(5)

         5


 スヴァロトは言い切った。

 (きょ)()であれば、歩みの幅も相応に広い。有無を言わさぬ岩盤のような背を、後ろのものに見せつけるかのようだ、とディーは感じる。

 かろうじて追いかける己の娘に、(いち)(べつ)もくれないのだ。

 歩みを緩める気配はない。


「なぜ、そのような話を」と、ディーは尋ねる。「たった今であることに、意味があるはず」


「無論だ、踏査官」


 スヴァロトが振り返る。

 息を切らさんばかりの娘に、ようやく肩を並べさせた。


「押してやる、と言っただろうが。お前の背だ。そしてシュトカ、お前のことでもある。ふたりに言っているのだ、俺は」


「父様は、私たちと交渉する。そういうこと?」


 見上げたシュトカが、眉をひそめる。察しがついたからだ。言葉の理由はわかる。既に、ディーも理解していた。

 王弟は、ディーとシュトカそれぞれの、為さねばならぬことを拒絶してみせた。

 意図はわかる。どのようにすれば、彼の拒絶が許容に変わるか、ふたりが同時に思いつくと予想してのことだ。

 (あい)()に誘い込まれたように感じるが、半ば彼の好意から出ているものだ、と理解もできる。

 いくつかの感情の衝突に、ディーは困惑させられていた。

 形はどうあれ、王弟の善意であれば不服は見せられない。そうではあるが、素直に受け容れるには、いささか強権すぎるではないか。


「しかし、と続けるはずだ、あなたは。クラヴィニスに向かうためには、私たちへの条件がある、と」


「そうだ。続けてやろう。しかし、だ」

 スヴァロトは、色素の薄い、灰味がかった唇の端だけで笑う。

「条件がある。血族であるならば、話は違う。我々の太初からの流儀として、仲間とみなす。我々の血族、群れの仲間が(りょ)(しゅう)であるというならば、取り戻すことはむしろ義務だ。一族の中から、最も信頼できる護衛も付けよう」


「護衛、というのは――」


「誰をゆかせるか、論ずるまでもない。共にゆきたいものがいるだろう」

 スヴァロトの視線が、傍らの娘へと下げられる。

「シュトカ、お前であれば、だ。我らの信頼に値する。最も近しい場所から、こいつを見張り、護ることができるだろう。お前は、そうしたいと思うか」


「――思う」


 わずかな(ちゅう)(ちょ)、そして尾の揺らぎ。こくりと、シュトカがうなずく。


「聞いたな、踏査官。ならば、どうする。我が一族に加わるか、加わらぬのか。いくさが始まる前に決めることだ」


 既に、扉の前だ。

 水車小屋の扉は、誰の背丈よりも大きい。分厚い板材に、(たん)(てつ)の飾り枠を打ちこみ補強したものだ。

 守りの扉を前にして、スヴァロトが振り向く。

 表情とわずかな尾の動きで、外にやつらがいる、賊どもの気配だ、と告げてくる。

 唇が、口腔が渇く。視野すら狭まってしまった気がする。

 眼前にあるいくさへの恐怖であるのか、少女に一大事を頼む緊張からか、判断がつかない。


 ディーは、シュトカと視線を合わせる。そこにあるのは、大きな瞳だ。

 人狼族の、ひとならざる碧玉色の瞳が、まっすぐに見返してきた。ディーが欲するものだ。

 世界のなにものにも曲げられず、(ぎん)(れい)の地下鉱脈の奥深く、竜が棲まうほどさらに深く、深奥に結晶した宝石のようだ。

 ひたむきで、あるべき姿だからだ。愛しいと思う。


「シュトカ。銀狼の神に誓ってくれるか」

 ディーがたずねる。


「そうする」と、シュトカはうなずく。「ディー。その言葉を、声に出して」


 どのような言葉か問うまでもない。既に聞いて、知っていた。


「銀狼の神に誓う。互いに()(おと)となり――」


「銀狼の血筋を地に広める、と……」


 約定は為された。

 慎重に発声したディーの言葉は、人狼族の法に沿ったものであったに違いない。

 シュトカは、両手を胸の前で組む。両の親指に唇を触れさせ、祈りのまじないを唱えた。そのように見えた。



「良し。確かに、この耳で聞いた」


 スヴァロトが、編み込んだ(あご)(ひげ)を親指の腹で擦る。唇の端が捲れあがり、鋭い犬歯を見せた表情は、ディーが読み取れぬ種類のものだ。

 今は、言葉通りの肯定とは違う。親族としての喜びや、寿(ことほ)ぐ意味合いは、おそらく含まない。

 理解できないということに、どうしても畏怖を覚えてしまう。


「祝い代わりに、だ。踏査官、お前には晒しても構わんと思うが、どうだ」


「どのようなものを」


「銀狼の古き血だ。太初よりの血統が、いまだ一族に継がれし証を、だ」


「見て構わぬものですか」


「一族のものであれば、そうだ。娘と共に暮らせば、いずれは目にする。ならば、今ここであっても(さわ)りはない」


 スヴァロトは、答えを待たない。

 ごとりと音をたて、蹴るように靴を脱いだ。太い素足が、自らの影を踏む。

 陽は落ちている。壁際に提げられた灯明(ランプ)がひとつ、ふたつとあったが、ちらちら揺らぐ炎は小さい。

 炎の周囲を、小さな蛾がくるくると舞う。音はない。

 スヴァロトの足元に映る影に、意識が向いた途端のことだ。


 闇に近かった屋内が、さらに暗く、静かなものに変わった気がした。

 床にある黒々としたものは、はたして彼の影か。元からあった汚れのようにも思える。

 いつの間に落ちたのか、血潮の(にじ)んだ(あと)にも見える。ぼたぼたと垂れる液体が描く染みのような、いくつもの(はん)(こん)じみた影だ。

 影のはずだ。

 連なって複数の染みになっているのは、光源がいくつもあるからだ。

 石の床に静かに留まっていないのは、炎が揺れる加減ではないか。どうしてか、拡がっていくように見える。

 影は、繋がって大きな染みとなる。石造りの床上を、じわりと()う。

 ディーの(はだ)、剥き出しの肘から先のうぶ毛が、静かに逆立った。


 もはや、目の錯覚とは思えない。そのように(うごめ)くものが、影であるはずがない。

 では、なんだ。理解はできない。

 ディーは小さく首を振り、意識の拒絶、強い畏怖を振り払う。そうすることで初めて、ただならぬ異様さを意識し得た。

 ちらと横目でシュトカを見る。

 少女の目に畏れはある。しかし、きっと理解もしている。なにが起きているか、これからどのようなことになるか、知っている顔だ。

 ならばこれは、とディーは思う。人狼族にとって、(じん)(じょう)の出来事なのだ。畏怖すべきではあっても、恐怖するものではない。

 そのように理解できはしたが、感情はままならない。

 恐れが過ぎるからか、声さえ出せぬ緊張が視野を惑わしたか、スヴァロトの巨躯が遠ざかるように見えてしまう。


 小さくなっていくのだ。

 岩塊のような肉体が縮む。ディーの背丈よりさらに低く縮む。

 足元の影の中に溶けこむかのように低く丸くなり、背中を丸めたけもののような姿になる。あるいは本当に、スヴァロトが床に伏せたのか。

 ディーは、睫毛をせわしく瞬く。眉間に皺を寄せる。

 既に、スヴァロトの姿はないように見えた。床に、なにかがうずくまっている。

 毛皮の外套(コート)だけが覆いかぶさり、薄いなにものかが床に伏せている。そうとしか見えないのだが、目を凝らして見つめ続けていたディーには、信じがたかった。


 彼は、自らの影の中に溶けたのだ。

 宮廷の道化が演じる奇術の類とは、とても思えない。

 ならば、本物の魔術か、彼ら銀狼族の神秘ということになる。

 抜け殻のように、(ごう)(しゃ)な衣服だけが石床の上に落ちている。すべてスヴァロトが身につけていたものだ。

 革のベルトも残されていた。吊された剣も、鞘のまま転がっている。


 やがて、ゆるりと毛皮が揺れた。

 黒褐色の毛皮だ。スヴァロトが羽織っていた毛皮の外套(コート)が、ゆらゆらと左右に(うごめ)きながら盛りあがる。

 苦しげな(うめ)き声が、ひとつ。

 びしゃりと大気を打つ湿った響きは、けものの長大な舌の音か。

 突然、いずれの隙間風が吹き消したのか、灯明(ランプ)の炎が一斉に揺らいで消えた。


 部屋の中に、青白い闇が満ちる。

 天井近くに開けられた窓からの、わずかな月明かりのみが照らす。

 風もまた、なんらかの魔法の作用だ、とディーは思う。

 畏怖と緊張、それらが()()ぜになった感覚に、冷気に当てられたように(はだ)(あわ)()つ。


 闇の中、スヴァロトの影絵が立ちあがる。

 ひとのように、ではない。

 四つ脚だ。

 床に落ちた影を媒介にして、人が狼に変貌したのか。

 毛皮の色が薄れ、淡い輝きをまとった銀灰色に染まっていく様は、まさに魔法そのものであった。



 今や、目の前には、(まった)き狼が一頭いた。

 わずかな月光の下だ。

 銀灰色の毛並みは、かろうじて見てとれる。それ以外は、すべて闇の中にあった。石床との境目も定まらぬ、熊ほどもある巨大な影だ。

 部屋の大半を、四つ脚の巨大なけものが占めている。呼気が感じられるほどの間近から、ふたりを見下ろしていた。

 びしゃり、舌が垂らされる。はふはふと、荒い呼気がある。(あなぐら)のような喉奥から低い唸り声が漏れ出で、シュトカがうなずいた。


「わかるのか、狼の言葉が」

 と、ディーが尋ねる。


「奥で、隠れて待て。そう言ってる――」

 シュトカが答えた。 



〈つづく〉

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