血盟(5)
5
スヴァロトは言い切った。
巨躯であれば、歩みの幅も相応に広い。有無を言わさぬ岩盤のような背を、後ろのものに見せつけるかのようだ、とディーは感じる。
かろうじて追いかける己の娘に、一瞥もくれないのだ。
歩みを緩める気配はない。
「なぜ、そのような話を」と、ディーは尋ねる。「たった今であることに、意味があるはず」
「無論だ、踏査官」
スヴァロトが振り返る。
息を切らさんばかりの娘に、ようやく肩を並べさせた。
「押してやる、と言っただろうが。お前の背だ。そしてシュトカ、お前のことでもある。ふたりに言っているのだ、俺は」
「父様は、私たちと交渉する。そういうこと?」
見上げたシュトカが、眉をひそめる。察しがついたからだ。言葉の理由はわかる。既に、ディーも理解していた。
王弟は、ディーとシュトカそれぞれの、為さねばならぬことを拒絶してみせた。
意図はわかる。どのようにすれば、彼の拒絶が許容に変わるか、ふたりが同時に思いつくと予想してのことだ。
隘路に誘い込まれたように感じるが、半ば彼の好意から出ているものだ、と理解もできる。
いくつかの感情の衝突に、ディーは困惑させられていた。
形はどうあれ、王弟の善意であれば不服は見せられない。そうではあるが、素直に受け容れるには、いささか強権すぎるではないか。
「しかし、と続けるはずだ、あなたは。クラヴィニスに向かうためには、私たちへの条件がある、と」
「そうだ。続けてやろう。しかし、だ」
スヴァロトは、色素の薄い、灰味がかった唇の端だけで笑う。
「条件がある。血族であるならば、話は違う。我々の太初からの流儀として、仲間とみなす。我々の血族、群れの仲間が虜囚であるというならば、取り戻すことはむしろ義務だ。一族の中から、最も信頼できる護衛も付けよう」
「護衛、というのは――」
「誰をゆかせるか、論ずるまでもない。共にゆきたいものがいるだろう」
スヴァロトの視線が、傍らの娘へと下げられる。
「シュトカ、お前であれば、だ。我らの信頼に値する。最も近しい場所から、こいつを見張り、護ることができるだろう。お前は、そうしたいと思うか」
「――思う」
わずかな躊躇、そして尾の揺らぎ。こくりと、シュトカがうなずく。
「聞いたな、踏査官。ならば、どうする。我が一族に加わるか、加わらぬのか。いくさが始まる前に決めることだ」
既に、扉の前だ。
水車小屋の扉は、誰の背丈よりも大きい。分厚い板材に、鍛鉄の飾り枠を打ちこみ補強したものだ。
守りの扉を前にして、スヴァロトが振り向く。
表情とわずかな尾の動きで、外にやつらがいる、賊どもの気配だ、と告げてくる。
唇が、口腔が渇く。視野すら狭まってしまった気がする。
眼前にあるいくさへの恐怖であるのか、少女に一大事を頼む緊張からか、判断がつかない。
ディーは、シュトカと視線を合わせる。そこにあるのは、大きな瞳だ。
人狼族の、ひとならざる碧玉色の瞳が、まっすぐに見返してきた。ディーが欲するものだ。
世界のなにものにも曲げられず、銀嶺の地下鉱脈の奥深く、竜が棲まうほどさらに深く、深奥に結晶した宝石のようだ。
ひたむきで、あるべき姿だからだ。愛しいと思う。
「シュトカ。銀狼の神に誓ってくれるか」
ディーがたずねる。
「そうする」と、シュトカはうなずく。「ディー。その言葉を、声に出して」
どのような言葉か問うまでもない。既に聞いて、知っていた。
「銀狼の神に誓う。互いに夫婦となり――」
「銀狼の血筋を地に広める、と……」
約定は為された。
慎重に発声したディーの言葉は、人狼族の法に沿ったものであったに違いない。
シュトカは、両手を胸の前で組む。両の親指に唇を触れさせ、祈りのまじないを唱えた。そのように見えた。
「良し。確かに、この耳で聞いた」
スヴァロトが、編み込んだ顎髭を親指の腹で擦る。唇の端が捲れあがり、鋭い犬歯を見せた表情は、ディーが読み取れぬ種類のものだ。
今は、言葉通りの肯定とは違う。親族としての喜びや、寿ぐ意味合いは、おそらく含まない。
理解できないということに、どうしても畏怖を覚えてしまう。
「祝い代わりに、だ。踏査官、お前には晒しても構わんと思うが、どうだ」
「どのようなものを」
「銀狼の古き血だ。太初よりの血統が、いまだ一族に継がれし証を、だ」
「見て構わぬものですか」
「一族のものであれば、そうだ。娘と共に暮らせば、いずれは目にする。ならば、今ここであっても障りはない」
スヴァロトは、答えを待たない。
ごとりと音をたて、蹴るように靴を脱いだ。太い素足が、自らの影を踏む。
陽は落ちている。壁際に提げられた灯明がひとつ、ふたつとあったが、ちらちら揺らぐ炎は小さい。
炎の周囲を、小さな蛾がくるくると舞う。音はない。
スヴァロトの足元に映る影に、意識が向いた途端のことだ。
闇に近かった屋内が、さらに暗く、静かなものに変わった気がした。
床にある黒々としたものは、はたして彼の影か。元からあった汚れのようにも思える。
いつの間に落ちたのか、血潮の滲んだ痕にも見える。ぼたぼたと垂れる液体が描く染みのような、いくつもの瘢痕じみた影だ。
影のはずだ。
連なって複数の染みになっているのは、光源がいくつもあるからだ。
石の床に静かに留まっていないのは、炎が揺れる加減ではないか。どうしてか、拡がっていくように見える。
影は、繋がって大きな染みとなる。石造りの床上を、じわりと這う。
ディーの膚、剥き出しの肘から先のうぶ毛が、静かに逆立った。
もはや、目の錯覚とは思えない。そのように蠢くものが、影であるはずがない。
では、なんだ。理解はできない。
ディーは小さく首を振り、意識の拒絶、強い畏怖を振り払う。そうすることで初めて、ただならぬ異様さを意識し得た。
ちらと横目でシュトカを見る。
少女の目に畏れはある。しかし、きっと理解もしている。なにが起きているか、これからどのようなことになるか、知っている顔だ。
ならばこれは、とディーは思う。人狼族にとって、尋常の出来事なのだ。畏怖すべきではあっても、恐怖するものではない。
そのように理解できはしたが、感情はままならない。
恐れが過ぎるからか、声さえ出せぬ緊張が視野を惑わしたか、スヴァロトの巨躯が遠ざかるように見えてしまう。
小さくなっていくのだ。
岩塊のような肉体が縮む。ディーの背丈よりさらに低く縮む。
足元の影の中に溶けこむかのように低く丸くなり、背中を丸めたけもののような姿になる。あるいは本当に、スヴァロトが床に伏せたのか。
ディーは、睫毛をせわしく瞬く。眉間に皺を寄せる。
既に、スヴァロトの姿はないように見えた。床に、なにかがうずくまっている。
毛皮の外套だけが覆いかぶさり、薄いなにものかが床に伏せている。そうとしか見えないのだが、目を凝らして見つめ続けていたディーには、信じがたかった。
彼は、自らの影の中に溶けたのだ。
宮廷の道化が演じる奇術の類とは、とても思えない。
ならば、本物の魔術か、彼ら銀狼族の神秘ということになる。
抜け殻のように、豪奢な衣服だけが石床の上に落ちている。すべてスヴァロトが身につけていたものだ。
革のベルトも残されていた。吊された剣も、鞘のまま転がっている。
やがて、ゆるりと毛皮が揺れた。
黒褐色の毛皮だ。スヴァロトが羽織っていた毛皮の外套が、ゆらゆらと左右に蠢きながら盛りあがる。
苦しげな呻き声が、ひとつ。
びしゃりと大気を打つ湿った響きは、けものの長大な舌の音か。
突然、いずれの隙間風が吹き消したのか、灯明の炎が一斉に揺らいで消えた。
部屋の中に、青白い闇が満ちる。
天井近くに開けられた窓からの、わずかな月明かりのみが照らす。
風もまた、なんらかの魔法の作用だ、とディーは思う。
畏怖と緊張、それらが綯い交ぜになった感覚に、冷気に当てられたように膚が粟立つ。
闇の中、スヴァロトの影絵が立ちあがる。
ひとのように、ではない。
四つ脚だ。
床に落ちた影を媒介にして、人が狼に変貌したのか。
毛皮の色が薄れ、淡い輝きをまとった銀灰色に染まっていく様は、まさに魔法そのものであった。
今や、目の前には、全き狼が一頭いた。
わずかな月光の下だ。
銀灰色の毛並みは、かろうじて見てとれる。それ以外は、すべて闇の中にあった。石床との境目も定まらぬ、熊ほどもある巨大な影だ。
部屋の大半を、四つ脚の巨大なけものが占めている。呼気が感じられるほどの間近から、ふたりを見下ろしていた。
びしゃり、舌が垂らされる。はふはふと、荒い呼気がある。窖のような喉奥から低い唸り声が漏れ出で、シュトカがうなずいた。
「わかるのか、狼の言葉が」
と、ディーが尋ねる。
「奥で、隠れて待て。そう言ってる――」
シュトカが答えた。
〈つづく〉