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狼と尾とひとと  作者: 鳥居羊
23/36

血盟(2)

         2


 いまだ、半信半疑であった。

 王弟スヴァロトは、娘のシュトカを呼んだ、と言った。できないことを言う理由がない。ならば真実であろう。

 しかし、そのようなことが容易にできるものか。

 まず、距離の問題がある。

 ここは、ひとの造った、入植のための水車小屋だ。人狼族の領地から、即座に到達できる場所ではない。

 行程は短いとはいえ、高低差がある。うねってもいる。半ば以上が険しい山道だ。

 先日来の長雨が降りしきった後であれば、当然、(でい)(ねい)に変わっている場所もある。ところによっては、足首までぬかるみに埋まってしまうことだろう。

 それほど困難を極めるから、泥土の道は、多くの者が通行を諦めるのだ。


 疑いようのないことは、ディーはたしかに遠吠えを聞いた、ということだった。水車小屋の(やぐら)に登り、伏せながら森の奥をうかがっていたときのことだ。

 大気を震わせ、太くうねる、どこまでも(わた)っていきそうな声を聞いた。

 おおおん、おおおん、と連続して、かすかに遠方でこだました。

 いくさの場でなければ、聞き惚れてしまいそうなほどだ。

 角笛にも似るが、意図して音を揺さぶる弦楽器の響きに、より似ているように思えた。


「疑っているのか、踏査官」

 元の部屋で、石床の上に、どかりと座したままのスヴァロトが尋ねてくる。


「わかりません。疑うほどの知識すら、持ち合わせていないからです。判断できない。正直に申せば、そのようなことです」


「娘のことは、良く知っているだろうに。ことに、シュトカから聞かされるお前は、実に親しげであったな。ひとというものが皆、そうであるというのではないし、お前も、誰にでもというわけではないように思える。どうやらシュトカにだけ、特別に口上手になるらしい。おそらく初対面の時から、だ。あれはひどく羞恥していたのだぞ」


「いったい、どのような――」


 心当たりはなかった。

 警戒心を抱かせぬために、いかにも物腰柔らかなふうを装いはした。交渉ごとを任される立場であれば、常のことだ。

 しかし、スヴァロトの物言いはどうも違う。

 まるでディーが、娘に馴れ馴れしく言い寄った、とでも言いかねない口調なのだ。

 無論、()()った態度など、はなから無理だと自身がよく知っている。(はい)(けん)などしても、武技など身についていない。

 修練が苦手だったというわけではない。若者の集団の中では、ひとより勝利への渇望が薄かった。闘争心のようなものが、どうにも心に生まれてこなかった。

 そうした生まれつきの(さが)ゆえに、学問の道を選んだと言ってもいい。

 剣を置き、代わりに(せっ)(ぴつ)を取り、首都の大学に上った。聖堂付きの大学でジェンテと知り合い、共に学び、踏査官となったのだ。


「どうにもわからんな」

 スヴァロトが、ごつりとした手のひらで頬杖をする。太い親指と人さし指で(あご)を挟み、銀灰色の髭を擦る。

「装いであるのか、素のままを(さら)け出しているのか、こちらこそ判断できぬ」


「私が、でしょうか」


「そうだ。今、この目の前のお前は、本気で悩んでいるように見える。俺は、お前が娘の心を(かどわ)かしたと思っていたのだが、それは間違いか」


「それは……」

 (ちょく)(さい)な言葉を聞いて、ディーは赤面してしまう。

「決して、そのようなことは……しかし、あるいは、意図せずに――」


 感情を、どのように表現すればよいのだろう。

 母国語でさえ、言葉選びに(こん)(きゅう)する事態ではないか。

 まして順を追って正しく人狼族の語に直していくのは、今のディーには不可能ごとに思える。耳朶に血が上っている、と自身で感じるほど、強く動揺してしまう。


「言葉に詰まるか、踏査官。兵同士が(にら)みあう、あの場にあってさえ雄弁に語ったお前が、よもや今、このような話で言葉を失うとは」


 スヴァロトが、声に出して笑い始めた。

 岩塊から切りだしてきたような幅広の両肩が、こらえるような、くつくつという声と共に豪快に上下している。

 その顔が、破顔した様相はそのままに、眼光だけが鋭く変わる。

 獲物を狙う猛禽のように細められた。


「おい、踏査官」


「――はい」


「まずは、目の前の、この場をどうするか、我らのことを考えようか」


「はい。私も、それを話し合いたいと望んでおりました」


「娘のことは、娘が来てからでよいと思い直した。お前を困らせるのは面白くはあったが、そうしたことは、娘のほうが得意であろうからな」


「――――」


 これほど自信に満ち溢れたものを、ひとであれ、人狼族であれ、そのほかの稀に見る異種族を含めて、ディーは見たことがなかった。

 賊軍の包囲にあって、石壁の内側に釘付けになっているというのに、怖れる感情の気配さえない。


「ひとつ聞くが、踏査官。お前の仕事は耳目である、というのは本当なのか」

 興味本位で尋ねた、という声だ。あくまでも飄々としている。


「まったくの真実です」と、ディーは答える。

「それは、たった今、ここで、置かれた状況の有り様を知らねばならない、という類のものです。有り様がわからねば、対応する行動を選べないからです。道筋は一つなのか、二つなのか、より分岐した多数の道が残されているのか」


「だから、耳目というわけか。耳で聞き、目で確かめる。すぐれた狩猟者であれば、鋭敏な耳目を持つものだ。なるほど、あいつがお前を大事にする理由がよくわかる」


 あいつ、などと言うのは、ジェンテのことだろうか。

話し相手の部族の長に対して、やけに()(しつけ)な物言いだ。それでも不審を表情には出さず、ディーは会話を続ける。


「この先、どのような選択が可能かといった道筋を探るのも、まずは今を知ることからです。実際に目で見て、耳で聞いた情報を、上官なり必要な者に伝達する。私の職分は、そのようなものです」


「実際に見聞きしたことでないものは、どうする」


「それは、どのような?」


「例えば、だ。お前が尋ねた相手が、どこそこの森に、これこれの獲物が逃げていったのを見た、と言う。お前はそれを見ていない。隠れる音を聞いていない。足跡を嗅いだわけでもない。そうしたときは、どうするのだ。報告せぬのか」


「無論、します。なにも変わりません。それが己の五感によるものではなく、誰かから聞いたことであっても、職分の本質は変わらない。どこそこの(なにがし)が、このように言っていたと、ありのままを伝えればいい。耳目というのは、そのような意味での耳目です」


 (たん)(そく)があった。

 太い呼吸で、ふむう、とスヴァロトが唸る。


「よし。では、語れ。お前は、どのように見てきた」


「それでは、伝えます」


 既に、ディーは、水車小屋の狭い通路を通り抜け、あらゆる場所を駆け回っていた。

 高く(はし)()をかけた(やぐら)の上から、あるいは石壁に穿(うが)たれた狭間の隙間から、周囲の様子を観察し終えていた。


「水車小屋を取り囲んでいる者どもは、およそ三十名。森林に隠れた伏兵があるかもしれませんが、まずは今の攻め手の人数は、そのようなところです」


「多いな。森に棲まう盗賊の類にしては、大層な数を集めたものだ。小勢同士で縄張を争い、勝った側が手下を取りこみ、膨れあがって食うに困ったというところか」


「盾を持つもの、持たぬもの。本来は馬上の槍をただ持つ兵もいれば、手慣れた歩兵集団が使う長槍を構えたものも見えました。その長槍も、大勢で揃えているというわけではないので、(じゅう)()の用途を知らぬのでは、と私は思います。各地からの寄せ集めであれば、そこに矛盾はないでしょう」


「ならば、打って出ていけそうか」


「いいえ。こちらの手勢は、社団の傭兵が六名。王弟殿下の近衛が二名。合わせて八名ということになります。木々に潜む伏兵を勘定に入れずとも、四倍に近い差であれば――」


 ディーは、淡々と報告する。

 座して聞くスヴァロトは、編み込んだ(あご)(ひげ)を指の背で擦りながら、再び低い唸り声をこぼした。


「お前と俺がいるだろう。それで十になるな」


「私は兵ではありません、殿下。充分な練兵ではない、ということです。必要とあらば剣も取りますが、一人前に勘定すれば兵力を誤ります」


「俺も兵ではないさ」

 と、スヴァロトが愉快そうに唇の端を(まく)りあげる。

「だが、勘定に入れておけ。お前と俺とで、まず二人前と見なそう」


「見なしてもなお、取るべき策は変わりません。十対三十であれば、砦に()もるには充分です。むしろ守勢が有利でしょう。あるいは、向こうにもそれがわかるものがいて、強引に登ってこようとしないのでは、とも思います」


「勘定のできるものが、ということか。ふむう」


 また、スヴァロトが小さく、低く唸った。

 意味合いが汲みづらい、なんとも曖昧な声であった。機嫌がいいのか、不満であるのか、助言をどのように受け取ったのか。

 判断する言葉の素材を、いまだディーはなにも手に入れてない気がした。


「あるいは、やつらも」

 と、スヴァロトが独り言のようにつぶやく。

「いくさは、日暮れてから、と思っているのだろう」


「それは、どのような――」


「この辺りには、奇妙な混じりものが多い、ということだ。夜が来れば、わかる」


 スヴァロトが笑みを見せる。唇の端を捲る、あの獰猛な微笑だ。

 薄い端正な唇に隠されていた牙を剥き出し、これから来たるものを待ち構えているぞ、と()(かく)しているかのようだ。


「お前が走り回っている間に、遠吠えておいたからな。じきに、娘もやって来る」


「たしかに、聞こえましたが――」


「娘が来るのも、おそらくは日暮れ前だ。それまでは、なにもせずに待つ。お前も待ちかねておけ、踏査官。どのようにシュトカが返事をするか。楽しみにしているのだ、俺は。そのときのお前の返答も、だ」


 スヴァロトは目を細め、今度こそ、言葉どおりの表情を見せた。

 どこかに裏表があるにせよ、座した背の裏側に垣間見える尾は、感じているままを述べている動きだった。



 やがて、彼の言ったとおりになった。

 紫がかった紅色の空が、日没の夕闇と混ざり合う頃に、シュトカが到着した。

 どこから入りこんだのか、まるでわからない。攻め手の包囲を乱した音もなく、守勢の見張りに警笛を鳴らせることもなかった。

 いずれにしても、たしかに水車小屋の高い石壁を乗り越え、スヴァロトとディーの目の前に現れたのだ。

 色白の頬を、真っ赤に上気させていた。息切れに、(きゃ)(しゃ)な肩がわずかに上下している。

 珊瑚色の粉が、まなじりを薄く彩っている。

 素早くまばたく睫毛の奥から、碧色の瞳がスヴァロトへ、次いでディーへと向けられる。まるでいくさに挑みに来たような、真剣な眉と眼差しをしていた。


〈つづく〉

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