尾(2)
2
「それでいい。私のしるしは確認できたと思う」と、ディーがうなずく。
「この三つのしるしが、外つ国の病を防ぐ、まじないなのね」
シュトカは小首をかしげ、手のひらに顔を寄せてくる。
睫毛を伏せ、なにかの香りを嗅ぐかのように――。
「そうだ。ひとからひとへと拡がってゆく、畏るべき病があるためだ」
ディーは、ゆっくりと握手を離す。
「このまじないは、草原を渡る遊牧の民が始めたものだが、我らにも伝わり、やがて交易を助けた。ガラエキアの街道がこの地に届いてよりこのかた、多くの犠牲を出しながらも、同じように双方に定着したと言われている」
「聞いたこと、ある」少女は、もっともらしくうなずく。「病に打ち克ったひとの最後の膿み血を、打ち克つ魔力を宿すために植える。親指の付け根を刃で刺して、膿み血と傷とが触れるようにして――」
「まさしく、そのようなものだ。先遣の隊商どもが、わずかな交易路を開いて三十年。互いに生き残るために、まじないと握手でしるしを確かめる風習が根付いた。そう聞いている。願わくば、私が、あなたにとって禍の運び手でなければいいのだが」
「私も、同じことを願う。はじめまして、ディー」
シュトカは、ほんの少し、ぎこちなさの残る笑顔を見せた。
「はじめまして。シュトカ」
反射的に挨拶を返して、ディーはかたわらの柵に片手をかけた。
「きみは、ずっと、柵の向こうを気にしている。それはつまり、あれが珍しい?」
「あれは……」と、シュトカは、足元の横木に爪先を乗せる。
素足に薄い革の靴をはいていて、かかとから足の甲へと回して結ぶ革紐が、飾り帯のように繊細な作りだ。
新世界の豊かさか、それとも、少女が富裕の生まれにあるためか。
シュトカは、片足ずつ足をかけて柵をのぼる。
なかば身を乗り出せるようになると、まっすぐ指をさす。
「この子たち、名前はなんというの? ディーたちが連れてきたのでしょう?」
ヴェ……、ヴェ……と、鳴き声が響いてくる。柵の内側からだ。
くすんだ灰色の、まるまると長毛を膨らませた獣の群れ。
ディーはシュトカの隣に立つと、柵に手のひらを軽く乗せた。
「羊、というものだ。献上品として、友好のしるしに連れてきた。殻国では普通に見られる家畜だが、このあたりでは見かけない。だからこそ連れてきたのだが、きっと、この地にも馴染むだろう」
ひしめいて、押し合いへし合い、群れ全体が流れて移動するさまは、大空をゆるゆる滑る雲海を思わせる。
群れのなか、一頭があげた声が連鎖して、草を食んでいたものも顔をあげる。
次々に他の羊たちも鳴く。
シュトカは、小首をかしげる。細い喉を宙にさらすように、おとがいを持ち上げ、わずかに鼻を動かす。
「不思議な声、それに匂い。今まで生きてきて、こんなの嗅いだことない」
「私からも、聞いていいだろうか」
「どうぞ。なんでも聞いて」
「きみたちの国では、けものや鳥を、育てることがあるのだろうか?」
「いずれ役立てる、食糧としてではなく?」
「そうだ。ただ共にあるためだけに、という意味で」
「ないわけじゃあ、ない。とても珍しいことだけど……」
「ありがとう、聞かせてくれて。最初の疑問が解けた」
悟ったような微笑を向けられて、シュトカは眉をひそめる。
再び体を揺らし、足を載せられた柵が、カタカタ音をたてた。
「疑問というのは、なに?」
「きみは、羊の心配をしていた。どうなってしまうのか、を。きっと、きみたちの風習は、献上されたものを、そのままにしてはおかないのだろう。酒であれば客にも振る舞い、肉であれば最上の調理をし、もてなす。そのような流儀だ」
「そう、そのとおり……」
シュトカは見返り、まったく目を丸く開いていた。碧玉のような、好奇心の瞳。
「どうして、そんなことがわかるの?」
「それが私の、踏査官としての役目だからだ。主として言語を任されている。だから、上官から呼ばれるあだ名は〈耳〉という」
ディーは自らの耳に、ここが由来だ、というように指で触れる。
「でも、私は」と、シュトカは首を左右に振る。「そんなこと、言ってない。この子たちを、どう思っているかなんて――」
「言った。今もだ。最初からきみは、この子たち、と呼んでいた。そこには感情がある。ものとして見るならば、羊は羊だ」
「それが……ディーの役目なのね。言葉を、しっかりと聞くことが」
「そうだ。もうひとつ。きみは羊を〈この子〉と言った。柵があり、距離があるにも関わらず。なぜ〈あの子〉ではないのか。理由は思いつく。だから今度は、シュトカの頼みを聞こう。あの子らを、シュトカの友だちにしたい?」
「――そうして!」
飛び上がるように、シュトカは、実際に、柵を蹴って離れる。
幅跳びをするかのように、驚くほど長く跳び、また跳んで戻り、ディーの目の前に顔をあげる。
すべてが、一呼吸のうちだ。
銀雪を散らしたような睫毛が、素早くまたたく。
ひとよりも瞳が大きいのだ、とディーは気づく。
そのぶん、視線の行く先が、曖昧になるのだろう。
シュトカの真剣なまなざしが、ずっと下から、ディーの瞳を突き刺すように見上げてくる。
「そういうことが、ディーには、できるの?」
「できる、と言いたいところだが、ひとりではできない。協力者が必要だ」
「それが私、ということなのね」
「そうだ」
ディーは、己が言語に、自信を固くする。
「こちらの言葉が通じているようで、良かった。実際を言えば、私は、まだ外つ国に不慣れだ。学んでは来たが、奥国の言葉が、本当の意味で通じるのかどうか、不安だった」
「とてもそうは見えない。まるで、ずっとここで生きてきた、という匂い。自信に満ち溢れていて」
「そうであるなら、きみと私が違う種族であるためだ。自信などないよ。最初から少しも」
ディーはほんのわずか、肩をすくめ、苦笑した。
「あの子ら、の話に戻ろう。そのために必要なことは、道行きで話す」
「それがいいと思う」
うなずいて、シュトカは、自ら近寄りすぎていたことに、今さらに気づいたのだろう。
跳んできたときと同じ速さで、一飛びで後方に跳び戻る。
「あなたの尾――」
と、指をさした。警戒心と気恥ずかしさが、上気した頬に混淆している。
睫毛を伏せて、挑むような視線を向けてくる。
「とても本物には見えなかった。最初から、模造したものとわかっていたけど、黙っていただけ」
「そうか――」
なるほど、とディーは、ベルトに添えていた手を開く。おそらくはぎこちなかった、模倣の動きを反省する。
「だが、これがなければ、言語は完成しない」と、独りごちた。
奥国では、という意味だ。ひとの世界では、尾は必要ない。
しかし、辺境のさらに先、大断崖を越えてきた異国であれば、発声によらぬ表意が、言語に求められることがある。
そのための――と、ディーは思う。針金と毛皮で造った絡繰りだ。繰る腕前は、まだまだ修行せねばなるまいが……。
吐息にあわせ、模造の尾は、頼りなげにゆらり、揺れた。
〈続く〉