剣と鞘(7)
7
凍りついたように横たわっていたシュシチカが、突然、動いた。
半身にかけられていた毛皮が、はね除けた腕の動きで敷布の上に落ちる。勢いのまま、床まで滑り落ちる。
身を起こしたシュシチカは、痛みに耐えるように、強く眉根を寄せていた。
「シュトカは悪くない。私が頼んだから、私が望んでいたから、そうしてくれただけで……」
「ようやく、話ができた。この時を、待ちわびていました」
ディーは吐息をつく。強い視線を感じてはいたが、ここでは視線を合わせない。
睫毛を伏せ、穏やかな口調を意識して話す。
「こと剣だけに限定すれば、この件に、誰も悪者はいない。悪意はない。そういうことであろうと、予想はついていました。最初から、すべてが綺麗すぎたのです。脅しや、禍を呼び込もうとするには、あり得ないほどに」
シュシチカは、再び口をつぐむ。ほんのわずか、同意するような、うなずきの気配は感じられた。
代わりに、シュトカが聞き返してくる。
「綺麗、というのはなに? どうして?」
ディーは落とした視線を、剣の刀身に滑らせていく。
「なにかを動かすときには、どこかに意図が書きこまれる。ものの有り様、置かれた配置、あるいは動作そのものに。この砦に招かれたとき、あなたがたの大伯母君は、私に葡萄酒と蜂蜜酒を選ばせた。好きなほうを、という当たり前の申し出だが、無意識であっても意図は書きこまれる、と言っていい」
「覚えてる。ディーは、どちらかを、と答えた」
「そうだ。明確にではないが、私は、どちらの様式を好むのか、と問われた気がした。蜂蜜酒は、こちら側の文化だ。もうひとつの葡萄酒は、私たちの文化ということになろう。それを踏まえた上で、どちらでも、あなたがたの好む側を楽しみたい、と答えたんだ」
「それなら」と、シュトカは真面目な顔で言う。「大伯母様は、ディーに誉めてもらえて、とても喜んだと思う。なぜって、この国の造り出すものを、大伯母様は愛しているから。食べ物や、飲み物、吹く風の匂い、流れる水や湯の音を」
「喜んでもらえたのなら、私にとっても幸いだ。なにかを共に味わうというのは、言葉を交わすことと同じだと思う。杯を差し出すという小さな動きにすら、音によらない言葉が籠もる。この剣もまた、同様だ」
「ディーは、どんな意図を読みとったの……」
「いや」と、ディーは首を振る。「わからない。これは、当事者同士にしかわからない、いわば秘密の合言葉ではないか、と思っている」
シュトカが眉をひそめ、眉間に小さなしわを寄せた。
後ろへと寝かされていた狼の耳が、亜麻色の髪の中から、徐々に立ちあがり始めている。
チュニックの裾からのぞく銀灰色の尾が、ぱたりと床を打つ。
「私と、姉様の合言葉?」
「違う」と、ディーは即答する。「その合言葉は、シュトカ、君にすら本当の意味が掴めていないのではないか。剣を託されたのは君で間違いないだろうが、彼は言ったか? このような理由で、そのような気持ちを伝えたいから頼むのだ、と」
ふるふると、シュトカは首を左右に振る。
ディーを見つめてくる瞳孔が拡がって、大きく丸く見える。
近くに置いた魔法の火は、燃え尽きそうなほど、勢いを落としていた。それでも、灯明はある。薄暗さのせいで瞳が開いた、というだけではなさそうに思えた。
「私は、きちんと覚えてる。そんなふうには言ってない。彼が言ったのは、こう――」
シュトカは、語調を変える。
かしこまった顔付きで、眉根を寄せたまま、両目を閉じて話し始める。
「この剣をシュシチカに渡してくれ。元より彼女のものなのだから、どうすればいいかは、彼女が決めることだ。シュシチカが望むままに、どのような返事も受け容れるつもりだが、半身だけ我が元に残すわがままを、許せ。そのように伝えてほしい」
迷いがない。まるで辿ってきた路を、そのまま戻るかのようだ。
古い叙事詩を暗誦するように、記憶の言葉を語りきった。
見事なものだ、とディーは感心する。
少しでも曖昧な部分があれば、このような語り口は持てないだろう。
ひょっとしたら、語句のひとつひとつ、語尾のわずかな変調すべてに至るまで、耳で聞いたままに再現したのではないか。
それほど言づてを真剣に、大事と信じて聞いたのだ。そう思わせる表情が、今のシュトカにはあった。
「ありがとう、シュトカ。君の言葉が、なによりの助けだ。今の言葉で、彼とシュシチカの秘密の符号が、はっきりと見えた」
ディーは刀身に置いていた視線をあげて、シュシチカをまっすぐに見据える。
「そうした言葉を言うべきものは、ただひとり。クラヴィニス王の息子ジグリク。シュシチカ、あなたの夫だ」
「だけれど……違う、彼は、もう私とは……」
言いかけたシュシチカは 口もとを手のひらで覆った。
やはり、内に籠もった言葉の重さが、整然と外に出すには大きすぎる、と見える。
「ジグリクの元に、あなたが剣を置いてきた。それは事実ですか?」
「……はい」
「それが、目の前にある、この剣ですね」
「はい」
「受け取ったはずのジグリクが、あなたの妹に剣を託した理由は、わかりますか」
「――――」
シュシチカは、うなずかない。首を左右に振ることもない。
青ざめた小さな唇を引き結んで、瞬きも少なく、ディーと視線を合わせている。
「この砦まで、決して楽な道のりではなかったはず。それどころか、誰かに見つかれば、命に関わるような情勢にある。それほどの困難をおして、あなたの妹に託したということは、剣に籠められた言葉は、とても重い」
「ディーには」と、シュトカが口を挟む。「剣の、そこにある言葉の意味が、わかるの?」
「ここにある言葉を、私の言葉で、代弁して構いませんか」
ディーは、剣に指先を触れさせる。
姉妹の視線がそろって、導かれるように刀身に落とされた。シュシチカが、今度は、はっきりとうなずいた。
「最初に言ったとおり、本当のところは、私にはわかりません。当事者ではないものが、傍らから推測しただけの言葉になるでしょう。真実を知り得るのは、おそらくジグリクと、あなただけだ。それでも、構いませんか」
再び、シュシチカがうなずいてみせる。
「順を追って話すために、シュシチカ、あなたが出せないでいる言葉も、同じように代弁させて頂きます。もしも違うのであれば、そのときは、首を振って否定してください」
「……はい」
「あなたがクラヴィニスから帰されてくる前に、ジグリクの元に、剣を置いた。それはそれで、ひとつの言葉だったはず。伝えたい心が、置いていった剣に籠められていた。剣の意味を言うならば、こうであったと思います。あなたを害することはできない。だから、その手段を放棄する、と」
「なぜ? 姉様が、どうして害するの?」
たずねたのは、シュトカだ。
「彼は、姉様をとても愛していた。姉様も、同じくらいそうだと思う。だから、どんなに大変でも、剣を届けに来たのでしょう?」
「シュシチカは否定していない。だから、おそらく事実だ。ならば、彼女がオウスヴァラ王家の剣を持たされていた理由は、相当に危ういものであっただろう。あるいは、なにか不都合があれば、ジグリクを殺害して故国へ戻れ、と。そのように、父親から言われたかもしれない。侍女や、持参金として付けた下僕を通じて、逃走手段も充分に用意されてあったと思う」
シュトカは驚きに、尾の先を緊張させていた。
銀灰の毛並みが逆立ってふくらむ。
「シュトカ、君も、自らの腕前に自信があるはず。ずっと気になっていたことがあった。オウスヴァラの兵と、我らの兵の間に割って入っていったときに、シュトカは私に付き添ってくれた。覚えているか」
「もちろん。ディーは、私たちのために来てくれた。だから――」
「将軍は、そうしろと?」
「言った」シュトカはうなずく。「もしも争いが起こったなら、私が、ディーを囲みから連れ出しなさい、と」
「やはりか。並みの親であれば、娘をあのような場所へは行かせない。よほどの信頼がなければ、睨みあう兵どもの間に、着いてこさせはしなかったはず。あるいは将軍は、自ら君たちに、特別な武技を教えたのではないか」
シュトカとシュシチカは、顔を見合わせていた。
肯定も否定もしないというのは、答えのひとつではある。
それは、身内の間だけに収めておく話かもしれない。魔法がそうであるように、武技もまた、知られていないことが強さに繋がるからだ。
「答えはいらない。そうであると仮定したまま、話を続けよう。ならば、剣を置かれたジグリクは、どうしたか。たとえ事実と認められなかった婚姻であっても、近しく過ごした時間は一年にわたる。真実、心を知りたいと思うほど愛していたのならば、妻の残していったしるしの意味も、きちんと読みとったのだと思う」
シュシチカは、どこも否定しなかった。
ただ黙って、上目づかいに、睨むような視線を向けてくる。
シュトカの耳がそうであるように、和毛に覆われた狼の耳が、亜麻色の髪の中から立ち上がり始めている。
良い兆候だ、とディーは思う。心をなくした人形の顔であるより、生きた人狼族の表情を見せるほうがよほどいい。
青ざめていた血色も、頬と唇だけではあったが、徐々に赤みが戻りつつある。
「では、ジグリクはどうしたか。彼は、妻がしたようなことを、自らもしようと考えた。忍んで奥国まで潜入するには、あるいは、先の騒ぎが好都合であったかもしれない。王弟殿下と側近の兵どもが出払って、内側の護りは手薄になっただろう。
そうしたことを、謀ったわけではない、と私は思う。はかりごとにしては杜撰だ。落ち着いて考えれば、よりよい方法もあったはず。しかし、彼は待てなかった。シュシチカへの感情に、突き動かされていたからだ。偶然であれ、兵どもの衝突があれば利用する。それくらいの運を頼る気持ちで、奥国へ来たのだ、と思う」
ディーは、オウスヴァラ王家の剣、剥き出しになった刃へと、再び指を下ろす。
滑らかに研がれた薄い刃は、しんとした金属の冷たさを、そろえた指の腹に伝えてくる。
「ジグリクが、誰にも見つからずに済んだということは、おそらく、単独行か、それに近いものであったはず。人狼族は森林に潜み、また気配なく走るのが巧みと聞いている。それでも、だ。いかにジグリクが匂いの薄い男であったとしても、街中までは入れまい。シュトカ、剣を託されたのは、羊の世話のときか? それも早朝の――」
「そう。朝だった」シュトカがうなずく。「朝靄の中から現れたの。だから、幻を見ているのかと疑った。だけど彼は確かに、シュシチカの愛したジグリクで、私の義理の兄だった。偶然に私と出遭えたのを喜んで、その場で片膝をついて、銀狼神に祈ったほど」
「そうか。ならば、私の推測も、だいぶ真実の道を辿れたということだ。外つ国のものが、寛容にも銀狼の神に祈りを捧げて良いものならば、後ほど、私もそうしよう。神懸かった偶然なくしては、剣の言葉は生じ得なかった。そのことが、よくわかった」
「許されるはず。大伯母様は、あなたの神を怖れていたの。ディーが、外つ国の神を持ちこまないのであれば、銀狼神に祈ることも、その恩恵を受けることも、生涯をオウスヴァラに住むことだって、きっと許される」
意外なところで、予想もしていなかったことを聞かされた。
ディーは一瞬、心がたじろぐのを感じたが、表情には出さない。なるほど、湯浴みをしている間に、シュトカが探していたのはそれか、と納得する。
彼女たちは、神への祈りに使う詩編か、時祷書のようなものを、最も危険なものと怖れていたのだ。
「では、銀狼神に誓って、次のことを事実としよう。シュシチカは、害意を捨てる証として剣を置いてきた。ジグリクは、剣をシュシチカの元に返しに来た。これで、最後の謎だけが手元に残る」
ディーは、吐息を剣の上に重ねるように、顔をうつむけ静かに話す。
「彼が、この剣に託した言葉は、なにか――」
〈つづく〉