剣と鞘(4)
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「あなたは実際に見て、聞いて、匂いを嗅いで確かめる。そうしたことを、生業にしていると聞きました」
と、シュトカの母親が言った。
彼女の名は、フラロッカ。立場は、王弟の妃、ということになる。
ディーの母国であれば、このように内々に招かれることなど、許されるはずもない。
人狼の国、オウスヴァラの決まり事には詳しくないが、薄氷を踏んでいるのではないか、という畏れは充分あった。
なぜ踏みこんでしまうのか、ディー自身にもよくわかっていない。
危険を承知で、竜の尾を追いかけているのと変わらない、とも思う。まるで、シュトカの一族に、抗えない力で引き寄せられている。
「私の職業を、くだいて語れば、そのようにも言えます」
ディーはまだ蜂蜜酒の残る杯を、ゆるりと、口もとに掲げるようにして話す。
今はもう、唇を濡らす程度だ。
意識して、飲み干さずに酒を残す。しらふに近い意識でいることが、この場には必要な気がしたからだ。
「踏査官というのは、世界を見知ることが役目になります。地理や気候は当然のこと、周りにある自然、けもの、草木や果樹、這う虫のたぐいに至るまで、我々を生かしてくれる環境を把握する。このすべてが、生業というわけです」
「私たちは、そうしたものごとを、ひと言で〈生きる〉と言いますよ」
大伯母キリユラが、おかしそうな声で言う。
「我らの国でも、そうです」
ディーも自然に、笑みをこぼしてしまう。単純明快な指摘だった。
「曲がりくねって語りすぎたと、恥じ入る思いです。私は、それだけ単純な、誰もがすることをしている。まさに、それだけのことです」
「けれど、ひと言で言えることが、簡単なこと、というわけではないでしょう?」
大伯母キリユラの言葉に、フラロッカがうなずく。
「言葉にしたことを、みなが簡単にできるのなら、暮らしがずっと良くなる。そのようなことは、身の回りにいくらでも転がっているものです。違いますか、踏査官どの?」
「そのように思います。私自身、簡単に為せていないことばかり。身につまされます」
ディーは反省するように軽くうつむくが、実際には、遠回しに持ち上げられたのだ、と知っている。なんとも面はゆい。
みなが、かすかな微笑のなかにあったが、フラロッカが、ふと重く睫毛を伏せた。
ああ、やはり――と、ディーも背筋を伸ばし、しっかりと座り直す。
「実のところ、わたしども、あなたに頼み事があって招いたのです」
母親の言葉に、シュトカが耳をわずかに動かす。
大伯母のキリユラもまた、すっかり口を閉ざし、推し量るように目を細めている。
「そのようなことも、あると思って参りました」
ディーは努めて、微笑を絶やさぬように言葉を継ぐ。
「私に、できることであればいいのですが」
「娘に起こった出来事を、それがなんであるのか、わたしどもに教えてほしいのです」
「シュトカに、ですか――」
驚いて、とっさに視線を移してしまう。
シュトカは、ぶるぶると首を振る。両手を膝の上で握りしめ、違う、と全身の態度で答えている。
「いいえ。上の娘のことです」と、フラロッカが言う。「シュトカの姉、シュシチカの身に起こったことについて」
「私は、あなたがたから見れば、外つ国のものです。教えるどころか、見当外れで、かえって惑わすだけかもしれない。また必ず、話したことで益をもたらすとは限らない。それでも良いと、任せるに足るとお考えですか」
「下の娘のことは、シュトカの頼みには、親切にしてくれたと聞いています」
「あれは――羊に関する件は、結果としてうまくいった、というだけです」
「それでも、助けた、ということは事実。シュトカはわたしの、わたしたちの、大切な子狼の尾です。あなたを信用する理由としては充分でしょう?」
同じような会話を、以前にもした、とディーは思い出す。その時の相手は、彼女の夫、王弟スヴァロトだ。
つくづく縁がある、とでも言うのだろうか。
「どうにも私は、あなたがた一族に、過大に評される癖があるようです。期待に添えるよう願うばかりですが、まずは話を聞かせてください」
フラロッカは、そっとうなずく。
壊れものをそのままにしておきたい、とでもいうような、すべてが静かな所作だ。
「上の娘、シュシチカのところに、このようなものが送られてきました」
焦げ茶に染まった麻布が、脇に置かれていた。
細長いなにかを布で包み、中ほどを革紐で縛ったものであろうか。
フラロッカは、包みをそっと手に取った。毛皮の敷物の上、ディーの目の前に、滑らせるように置き直す。
長さは、手のひらふたつほどだ。布の表面が、灯明の揺らぐ炎を照り返している。
光沢のある色合いは、おそらく亜麻の油と蜜蝋を混ぜ、薄く塗り乾燥させたものであろう。
そのやや強張った麻布を、紐を解き、ゆるゆると広げてみせる。
「これは――」
ディーは、反射的に眉をひそめる。
鋭い刃が、ちか、と明かりを反射した。短剣だ。
両刃で、柳の葉のように曲線を描き、切っ先にゆくほど細く尖る。
柄には、銀の象嵌が施されていた。小さな翠玉も填めこまれていた。施された模様は、森に潜む狼か。
使いこまれたものではない。柄にも刃にも古びたところがなく、研ぎも鋭くなされている。
精緻極まる、見事な細工の短剣と言えた。
「刃が、剥き出しのままですが、鞘はどうしたのですか」
「ありません」
「そちらの麻布で包まれていた?」
「いいえ。これは、こちらで包んだもの。見つけたときは、そのままに刃が置かれていました」
「いつのことですか。いったい、どのように」
「ある朝、娘が見つけたのです。この館で、娘の寝所から回廊へと出る、その扉の前で」
「短剣が、剥き出しのままに置かれていた、ということですか」
「はい。娘は、シュシチカはそれを見て、悲鳴をあげたと聞きました」
フラロッカは、怖れる母親の顔になっていた。
眉をひそめ、睫毛を伏せ、置かれた刃を見つめている。
深く強く、どのようなことをしてでも守りたいと願う、子の危険を怖れる親の顔だ。
「聞いた……ということは、その場に、ほかに誰もいなかった?」
「はい。駆けつけた侍女が、うずくまるシュシチカを見つけました。刃も、そのまま置かれていたそうです」
「なるほど――」
ディーは、しばし短剣を見下ろし、ややあって顔を上げた。
フラロッカの引き結んだ唇が、わずかに震えそうになっている。
きっとまだ、話には続きがあるはず。本当に訴えたいことが喉につかえている、そのような表情に思えた。
「だいたいのところは、わかりました。短剣がなぜ置かれていたのか、置いたのは誰であるのか、そのことを調べ、お伝えする――。出来る限りのことはやってみましょう。付け加えて、言っておくことはありますか」
確認というよりは、促すためだ。
怖れから口に出せないことであれば、なおさら、この場で聞いておいたほうがいい、と思う。
「娘は、シュシチカは、それ以来、口がきけなくなっているのです」
フラロッカが、ようやく言葉をこぼす。
つまっていた息を吐き出すような、ひと言ずつ、床へと落ちていく重たい声だった。
〈つづく〉