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狼と尾とひとと  作者: 鳥居羊
15/36

剣と鞘(3)

         3


 床一面に敷かれた、(せっ)(ぱく)があった。毛足の長い、(じゅう)(たん)のように見えた。

 つやのある光沢は絹にも似るが、より(ちょう)(みつ)に思える。

 当然ではあるが、羊の毛織ではない。羊は、ディーたちガラエキアの民が、新たに持ちこんだものだからだ。

 おそらくは日々、丁寧に手入れされている敷物であったが、どこか年代を感じさせる。

 光沢の淡さかもしれない。生活のなかで自然と沈殿していく、かすかな日焼けの匂いかもしれなかった。


 月の出の時刻を過ぎていたが、明かりは充分にあった。

 天井近くの梁から、鎖に吊され、陶製の灯明が掛かっていた。

 客を招いたからか、()(しゃ)ゆえか、ひとつではない。同様のものが、三つも四つも()げられている。

 (へん)(ぺい)な瓜を模したような、あるいは巨大な豆の形の(とう)(みょう)には、いくつかの丸い口がある。(とう)(しん)を出すための小さな穴だ。

 たっぷり、すべての穴に灯心が差してあり、空気の流れに明かりが揺らぐ。時折、ちり、と小さな音をたてる。

 油の燃える灯心の臭いに混ざって、竜が飛び去ったあとの香気を、より甘く熟成させたような匂いもあった。


 ここは、人狼族の住処だ。彼らの家族のものだ、と感じる。

 例えば、足を投げ出して座るための、脚のない長椅子があった。湯を沸かし、あるいは菓子などを焼くための、小さな暖炉があった。

 居間のそこかしこに、親しいもの同士が暮らす、落ちつきと調和が見てとれた。

 ディーの躊躇を読みとったのか、部屋のあるじが声をかけてくる。


「お入りなさい。そして、そこへ座りなさい」


 軽やかでもなく、重くもない、静かで中立の声だ。

 奥の壁を背にして、低い椅子に腰かけている。ふたりの人狼族の女がいた。

 たっぷりと波打つひだをもつ丈の長いチュニックを着て、柔らかそうな毛皮で縁取った肩掛けを、ゆるく身にまとっている。

 ふたりの顔立ちはどこかよく似て、ことに、一方はシュトカと瞳の形が瓜二つだ。

 であれば、シュトカの大伯母と母親なのであろうが、それにしては見目が若い、と思ってしまう。

 入れと命じるのは、部屋のあるじの役目だ。この場で最も地位のあるものは、大伯母で間違いない。当然、(よわい)を重ねているはず。

 しかし、相応に美しく歳を経た、とでも言いたくなるような、凛とした風情を感じさせる。

 あるいは、まっすぐに伸びた背筋のためか。座した姿勢が、端整だ。同じことは、もうひとりの女性にも言えた。


 オウスヴァラの民は、どうにも年齢が掴みづらいと、あらためてディーは思う。それは、シュトカにも共通する。

 瞳が大きく、視線の先が読みづらい。鼻梁は小さく、丸みをおびた頬などは、(おさな)(がお)の特徴でもある。

 それでも、手指には、過ごした時間が自然と宿るものだ。

 部屋の女あるじは、背をまっすぐに起こしてはいたが、小さな両肩が、すぼまって狭い。

 膝の上に置いた両手は、ごく自然に、置いたらそのようになった、というふうに重ねられている。

 骨張った小枝のような、家仕事を長く務めてきたはずの、細い指だ。

 いくつかの指に、くすんだ黄金の輝きが()められていた。おそらく、オウスヴァラ王家を示す、紋章入りの指輪であろう。伏せる狼の半身が彫刻されている。


 ディーは、戸口で、ひざまずいて目礼する。

「失礼いたします」


 おそるおそる、部屋のなかに歩を進める。

 背後で侍女が戸を閉める、ぱた、と控え目な音がした。

 今のディーには、靴はない。素足で、板張りの廊下を案内されてきた。部屋の誰もが素足でいるから、掃き清めた室内を、靴なしで暮らす文化なのだ。

 そのことが、ディーには驚きであり、また足裏がなんともこそばゆかった。


 足で踏み、爪先で触れて、絨毯に見えたものが毛皮だと知る。驚くほど純白の、信じがたいほど柔軟に沈みこむ、大きな毛皮だった。

 こじんまりした居間とはいえ、床を覆い尽くすほどに広げられる毛皮というものは、どういったものであるのか。

 あるいは()(みつ)な裁断と縫合で、一枚に仕立てられているのかもしれないが、この地に棲む幻獣の一種であると考えたくなる。

 示された場所に片膝を折って座し、意図して、敷かれた毛皮の上に手のひらを広げる。

 置いた指先が、沈まず、弾き返されもしない。しっとりと柔毛に浮かぶ感覚が、(しん)(ざん)の険しい(りょう)(せん)をひそひそと忍び歩く、神秘のけものを想像させた。


(がら)(こく)の踏査官、ディー・ジュバルと申します。到着の折り、熱い湯を用意していただき、誠にありがとうございます。また、このような立派な着替えまで借り受け、重ねて感謝を申しあげます」


 ディーは睫毛を伏せ、頭をさげる。深く目礼した。

 やや呼吸を置いて、あぐらをかくように、しっかりと両脚を組み直す。

 どうしてか、王弟スヴァロトに挨拶したときよりも、よほど緊張を強いられる。

 視線の強さが、どこか違う。こちらの心中までを、探るように見つめてくる瞳は似ているのに、彼女のほうが圧倒してくる。

 年の功ということか。住まいの奥深く招かれていることが、意識せずとも関係しているのか。


「キリユラと申します」

 一語ずつ、唇の外へと落ちるような、本当に静かな声だ。

「その子から聞いているでしょうが、シュトカの大伯母にあたります」


 わずかに顔を動かし、傍らのシュトカを示す。

 その子、と言われたシュトカは、やはり緊張を隠せないでいる。

 両膝を重ねて横に、絨毯の上に直接に座している。両手は、固く組んで膝上にある。どこか、かしこまった横座りだ。

 見知った住居にいる(あん)()と、なにかを警戒するような矛盾した態度が、姿勢のなかに混ざり合ってしまっていた。

 真新しく見えるチュニックの裾から、尾の先の(にこ)()がのぞいてしまっている。時折、絨毯をはたくように小さく動く。


「呼ばれた、と聞きました。雷雨を避けて走る馬上で、シュトカが〈呼びかけ〉を聞いたのです。それで、日も暮れた時分ではありましたが、このように参った次第です」


 ディーは努めて背筋を伸ばし、慎重に使う言葉を選んで話す。

 人狼族の語で、敬意を表す表現は、どうすればよいのか。外つ国の言語を話すときに、感情や態度を含意させるのは、常に難しい選択だ。

 同じ語であっても、抑揚の違いだけで、意味を転じることすらある。


「踏査官、あなたのことは、シュトカから日々、聞かされております」

 と、大伯母キリユラが言う。

「ですから、初対面という気持ちが薄いのです。それだけ齢を重ねてなお、とお笑いになるかもしれませんが、わたしども、堅苦しいのは苦手です。シュトカも同じ()()ですが、あなたは、それはもう身に滲みているのではありませんか」


「いいえ。けっして、そのような――」


 曖昧に否定してみせたが、なるほど、その通りだ。心中では、たしかにシュトカは堅苦しさとは無縁だ、と微笑んでしまいそうになる。

 なにしろ危急の用であったとはいえ、夜半に、()(くに)の砦にまで忍び入ったのだから。


「わたしどもにとって、この子はかけがえのない、守られるべき子狼の尾なのです」


 大伯母の目が細められ、首が傾いで、シュトカへと静かにまなざしが落ちていく。

 嘘偽りなく、そのように思っているのだ。そのように信じられる。

 聞き入ってしまうディーの心は、なんともしんみりとした感情に満たされるが、職業としての理性は、相手の意図にそのまま添っていくな、と警戒を囁く。


「この子のどんな性質であれ、理解され、受け入れられることはとても喜ばしい。ですから、そうしてくれるあなたに対して、見知った家族にするように、親しく口をきかせてもらってよろしいでしょうか」


「そちらが、それで構わないと仰せならば」

 ディーはうなずく。


「もちろん、構いません」と、キリユラが微笑む。「シュトカの話す通りのあなたであれば、そのような返事と思っておりました。葡萄酒でもいかが? それとも、蜂蜜酒のほうがよろしい?」


 視線の先に、小さな鉄瓶がふたつ、置かれていた。

 暖炉で(くゆ)る炭の近くに、脚つきの太い網が渡してある。その上で、ゆるゆると酒を温めているのだ。

 部屋に入ったときに嗅いだ香りは、ふたつの種類の酒が混ざり(かも)し出したものだ、とディーは理解した。

 なるほど、菓子などを焼くための網であろうが、うまく鉄瓶を使っている。

 このような場で酒は困る、と思いつつ、味覚の好奇心には打ち()てない。


「では、お言葉に甘えまして……その、どちらかを。ふたつとも、とても良い香りです」


「それなら、まずは、こちらの蜂蜜酒を。わたしどもはきっと、あなたがたの国より養蜂に()けていると思いますよ。口あたりの良い蜂蜜酒の醸しかたも、よく知っているつもり。そう言ってしまっては、これは(おご)りになるのかしら」


 キリユラは、まずは自らの杯に酒を()ぎ、次いで、客人用であろう杯に続けて注ぐ。

 女性の手に合わせて造られたものか、陶製の小さな杯だ。簡素な素焼きに、波状の模様が薄く彫られている。

 丸い木の盆に差し出されてきた杯を、ディーは、手に取って答える。


「いいえ、とんでもないことです。それは、むしろ誇りと言うべきもの。殻国は、あなたがたの国から、素晴らしい蜜を買い付けております」


「そうでした。あなたは、あなたがたは、交易のために遙々やって来たのですね。あの恐ろしい大断崖を越えてまで」


「殻国使節の目的はそうです。交易のための、株式社団ですから。私のみに限って言えば、また別の動機がありますが」


 慎重に答えながら、ディーは杯に口を付ける。

 先にキリユラが一口含むところは目に入っていたが、毒見のあるなしにかかわらず、杯を受けるつもりだった。

 どのみち儀礼的なものだ。このような場で、疑っているそぶりを見せられるはずがない。


 酒の温度が、杯にまで移りつつあった。

 素焼きのざらつきが唇に触れ、傾けると、白く透き通った温かさが流れこんでくる。

 ほろりと甘い。果実由来のものか、少しの苦みもある。また、蜂蜜とは別種の甘さが、未発酵のままに残されている。

 熟成が若い、軽やかな酒なのだ。

 おそらく発酵時の細かな泡が、()(ばた)で温められることで浮き上がって、さらに軽い口あたりに仕上げているのだろう。


「なんとも舌触りの優しい、素晴らしいものです。なにかの果実を使っているのでしょうか」


「シトロンを皮ごと蜜漬けにして、蜂蜜酒と共に醸したものです。苦みが強くて食にむかない果実ですが、こうして若いお酒にすると、なかなかのものでしょう?」


「なるほど。温めると余計に、甘みが溶けだして、喉まで染み入ってくるようです」


「お気に召したようで、なにより。さあ、まだ鉄瓶にたっぷり残っております。こちらの葡萄酒も、もちろん、お試しになるでしょうね」


 あまり酒に強くないディーにとって、これは、ありがたいもてなしだ。

 勧められるまま、つい杯を重ねてしまう。



〈つづく〉

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