剣と鞘(3)
3
床一面に敷かれた、雪白があった。毛足の長い、絨毯のように見えた。
つやのある光沢は絹にも似るが、より稠密に思える。
当然ではあるが、羊の毛織ではない。羊は、ディーたちガラエキアの民が、新たに持ちこんだものだからだ。
おそらくは日々、丁寧に手入れされている敷物であったが、どこか年代を感じさせる。
光沢の淡さかもしれない。生活のなかで自然と沈殿していく、かすかな日焼けの匂いかもしれなかった。
月の出の時刻を過ぎていたが、明かりは充分にあった。
天井近くの梁から、鎖に吊され、陶製の灯明が掛かっていた。
客を招いたからか、華奢ゆえか、ひとつではない。同様のものが、三つも四つも提げられている。
偏平な瓜を模したような、あるいは巨大な豆の形の灯明には、いくつかの丸い口がある。灯心を出すための小さな穴だ。
たっぷり、すべての穴に灯心が差してあり、空気の流れに明かりが揺らぐ。時折、ちり、と小さな音をたてる。
油の燃える灯心の臭いに混ざって、竜が飛び去ったあとの香気を、より甘く熟成させたような匂いもあった。
ここは、人狼族の住処だ。彼らの家族のものだ、と感じる。
例えば、足を投げ出して座るための、脚のない長椅子があった。湯を沸かし、あるいは菓子などを焼くための、小さな暖炉があった。
居間のそこかしこに、親しいもの同士が暮らす、落ちつきと調和が見てとれた。
ディーの躊躇を読みとったのか、部屋のあるじが声をかけてくる。
「お入りなさい。そして、そこへ座りなさい」
軽やかでもなく、重くもない、静かで中立の声だ。
奥の壁を背にして、低い椅子に腰かけている。ふたりの人狼族の女がいた。
たっぷりと波打つひだをもつ丈の長いチュニックを着て、柔らかそうな毛皮で縁取った肩掛けを、ゆるく身にまとっている。
ふたりの顔立ちはどこかよく似て、ことに、一方はシュトカと瞳の形が瓜二つだ。
であれば、シュトカの大伯母と母親なのであろうが、それにしては見目が若い、と思ってしまう。
入れと命じるのは、部屋のあるじの役目だ。この場で最も地位のあるものは、大伯母で間違いない。当然、齢を重ねているはず。
しかし、相応に美しく歳を経た、とでも言いたくなるような、凛とした風情を感じさせる。
あるいは、まっすぐに伸びた背筋のためか。座した姿勢が、端整だ。同じことは、もうひとりの女性にも言えた。
オウスヴァラの民は、どうにも年齢が掴みづらいと、あらためてディーは思う。それは、シュトカにも共通する。
瞳が大きく、視線の先が読みづらい。鼻梁は小さく、丸みをおびた頬などは、稚顔の特徴でもある。
それでも、手指には、過ごした時間が自然と宿るものだ。
部屋の女あるじは、背をまっすぐに起こしてはいたが、小さな両肩が、すぼまって狭い。
膝の上に置いた両手は、ごく自然に、置いたらそのようになった、というふうに重ねられている。
骨張った小枝のような、家仕事を長く務めてきたはずの、細い指だ。
いくつかの指に、くすんだ黄金の輝きが填められていた。おそらく、オウスヴァラ王家を示す、紋章入りの指輪であろう。伏せる狼の半身が彫刻されている。
ディーは、戸口で、ひざまずいて目礼する。
「失礼いたします」
おそるおそる、部屋のなかに歩を進める。
背後で侍女が戸を閉める、ぱた、と控え目な音がした。
今のディーには、靴はない。素足で、板張りの廊下を案内されてきた。部屋の誰もが素足でいるから、掃き清めた室内を、靴なしで暮らす文化なのだ。
そのことが、ディーには驚きであり、また足裏がなんともこそばゆかった。
足で踏み、爪先で触れて、絨毯に見えたものが毛皮だと知る。驚くほど純白の、信じがたいほど柔軟に沈みこむ、大きな毛皮だった。
こじんまりした居間とはいえ、床を覆い尽くすほどに広げられる毛皮というものは、どういったものであるのか。
あるいは緻密な裁断と縫合で、一枚に仕立てられているのかもしれないが、この地に棲む幻獣の一種であると考えたくなる。
示された場所に片膝を折って座し、意図して、敷かれた毛皮の上に手のひらを広げる。
置いた指先が、沈まず、弾き返されもしない。しっとりと柔毛に浮かぶ感覚が、深山の険しい稜線をひそひそと忍び歩く、神秘のけものを想像させた。
「殻国の踏査官、ディー・ジュバルと申します。到着の折り、熱い湯を用意していただき、誠にありがとうございます。また、このような立派な着替えまで借り受け、重ねて感謝を申しあげます」
ディーは睫毛を伏せ、頭をさげる。深く目礼した。
やや呼吸を置いて、あぐらをかくように、しっかりと両脚を組み直す。
どうしてか、王弟スヴァロトに挨拶したときよりも、よほど緊張を強いられる。
視線の強さが、どこか違う。こちらの心中までを、探るように見つめてくる瞳は似ているのに、彼女のほうが圧倒してくる。
年の功ということか。住まいの奥深く招かれていることが、意識せずとも関係しているのか。
「キリユラと申します」
一語ずつ、唇の外へと落ちるような、本当に静かな声だ。
「その子から聞いているでしょうが、シュトカの大伯母にあたります」
わずかに顔を動かし、傍らのシュトカを示す。
その子、と言われたシュトカは、やはり緊張を隠せないでいる。
両膝を重ねて横に、絨毯の上に直接に座している。両手は、固く組んで膝上にある。どこか、かしこまった横座りだ。
見知った住居にいる安堵と、なにかを警戒するような矛盾した態度が、姿勢のなかに混ざり合ってしまっていた。
真新しく見えるチュニックの裾から、尾の先の和毛がのぞいてしまっている。時折、絨毯をはたくように小さく動く。
「呼ばれた、と聞きました。雷雨を避けて走る馬上で、シュトカが〈呼びかけ〉を聞いたのです。それで、日も暮れた時分ではありましたが、このように参った次第です」
ディーは努めて背筋を伸ばし、慎重に使う言葉を選んで話す。
人狼族の語で、敬意を表す表現は、どうすればよいのか。外つ国の言語を話すときに、感情や態度を含意させるのは、常に難しい選択だ。
同じ語であっても、抑揚の違いだけで、意味を転じることすらある。
「踏査官、あなたのことは、シュトカから日々、聞かされております」
と、大伯母キリユラが言う。
「ですから、初対面という気持ちが薄いのです。それだけ齢を重ねてなお、とお笑いになるかもしれませんが、わたしども、堅苦しいのは苦手です。シュトカも同じ気質ですが、あなたは、それはもう身に滲みているのではありませんか」
「いいえ。けっして、そのような――」
曖昧に否定してみせたが、なるほど、その通りだ。心中では、たしかにシュトカは堅苦しさとは無縁だ、と微笑んでしまいそうになる。
なにしろ危急の用であったとはいえ、夜半に、外つ国の砦にまで忍び入ったのだから。
「わたしどもにとって、この子はかけがえのない、守られるべき子狼の尾なのです」
大伯母の目が細められ、首が傾いで、シュトカへと静かにまなざしが落ちていく。
嘘偽りなく、そのように思っているのだ。そのように信じられる。
聞き入ってしまうディーの心は、なんともしんみりとした感情に満たされるが、職業としての理性は、相手の意図にそのまま添っていくな、と警戒を囁く。
「この子のどんな性質であれ、理解され、受け入れられることはとても喜ばしい。ですから、そうしてくれるあなたに対して、見知った家族にするように、親しく口をきかせてもらってよろしいでしょうか」
「そちらが、それで構わないと仰せならば」
ディーはうなずく。
「もちろん、構いません」と、キリユラが微笑む。「シュトカの話す通りのあなたであれば、そのような返事と思っておりました。葡萄酒でもいかが? それとも、蜂蜜酒のほうがよろしい?」
視線の先に、小さな鉄瓶がふたつ、置かれていた。
暖炉で燻る炭の近くに、脚つきの太い網が渡してある。その上で、ゆるゆると酒を温めているのだ。
部屋に入ったときに嗅いだ香りは、ふたつの種類の酒が混ざり醸し出したものだ、とディーは理解した。
なるほど、菓子などを焼くための網であろうが、うまく鉄瓶を使っている。
このような場で酒は困る、と思いつつ、味覚の好奇心には打ち克てない。
「では、お言葉に甘えまして……その、どちらかを。ふたつとも、とても良い香りです」
「それなら、まずは、こちらの蜂蜜酒を。わたしどもはきっと、あなたがたの国より養蜂に長けていると思いますよ。口あたりの良い蜂蜜酒の醸しかたも、よく知っているつもり。そう言ってしまっては、これは驕りになるのかしら」
キリユラは、まずは自らの杯に酒を注ぎ、次いで、客人用であろう杯に続けて注ぐ。
女性の手に合わせて造られたものか、陶製の小さな杯だ。簡素な素焼きに、波状の模様が薄く彫られている。
丸い木の盆に差し出されてきた杯を、ディーは、手に取って答える。
「いいえ、とんでもないことです。それは、むしろ誇りと言うべきもの。殻国は、あなたがたの国から、素晴らしい蜜を買い付けております」
「そうでした。あなたは、あなたがたは、交易のために遙々やって来たのですね。あの恐ろしい大断崖を越えてまで」
「殻国使節の目的はそうです。交易のための、株式社団ですから。私のみに限って言えば、また別の動機がありますが」
慎重に答えながら、ディーは杯に口を付ける。
先にキリユラが一口含むところは目に入っていたが、毒見のあるなしにかかわらず、杯を受けるつもりだった。
どのみち儀礼的なものだ。このような場で、疑っているそぶりを見せられるはずがない。
酒の温度が、杯にまで移りつつあった。
素焼きのざらつきが唇に触れ、傾けると、白く透き通った温かさが流れこんでくる。
ほろりと甘い。果実由来のものか、少しの苦みもある。また、蜂蜜とは別種の甘さが、未発酵のままに残されている。
熟成が若い、軽やかな酒なのだ。
おそらく発酵時の細かな泡が、炉端で温められることで浮き上がって、さらに軽い口あたりに仕上げているのだろう。
「なんとも舌触りの優しい、素晴らしいものです。なにかの果実を使っているのでしょうか」
「シトロンを皮ごと蜜漬けにして、蜂蜜酒と共に醸したものです。苦みが強くて食にむかない果実ですが、こうして若いお酒にすると、なかなかのものでしょう?」
「なるほど。温めると余計に、甘みが溶けだして、喉まで染み入ってくるようです」
「お気に召したようで、なにより。さあ、まだ鉄瓶にたっぷり残っております。こちらの葡萄酒も、もちろん、お試しになるでしょうね」
あまり酒に強くないディーにとって、これは、ありがたいもてなしだ。
勧められるまま、つい杯を重ねてしまう。
〈つづく〉