剣と鞘(2)
2
人狼たちの生活で、最も風変わりな風習は、風呂だ。彼らは湯を張る。
それも、並みのやり方ではない。
ありとあらゆる場所に、ということだ。大地の底に古くからある、湯のありかを熟知しているように見える。
例えば部屋の中に、ひとひとり悠々と入れる大桶を置く。そこに湯を張る。
あるいは、岩石を隙間なく敷き詰め、窪地を造る。そこに湯を張る。
時には、出先の宿営地でさえ、湯を用意してしまう。どのようにしてか、水脈の匂いを嗅ぎ当て、熱水が湧き出す泉を窪まで導く。
人狼族の国、オウスヴァラの市街を歩くと、あちらこちらに、そのための設備があるのだ、と気づかされる。
街の通りは、おおまかに土の路面だ。
ひとの住む世界の大半は、踏み固められた土の街路と共に生きているが、人狼は芝草の生えた道を好む。
街道でしか牛車を用いないため、市内に轍は見られない。
ごく稀に石畳で補強した、立派な小径に踏み入れることがある。
それは、湯道が地下に通るしるしだ。
屈んで耳を澄ませば、石畳の奥底から湧いてくる、不思議な湯音を聞くことができる。しゃらしゃら、しゃらしゃら、かすかに流れる熱い水路の音だ。
背の高い三階建て民家の並ぶ狭い路地で、路面に敷かれた岩の割れ目から、湯気がほつほつと噴き出す。そんな景色を見ることもある。
地下を流れる熱水の路を、人狼族は熟知しているらしい。
天然の地下水脈を、巧みに分岐させている。彼ら自身が掘った水路に流しこみ、市街の家々で利用する。そのような文化だ。
「驚くべきことだ……」
と、ディーは、吐息と共につぶやく。
人狼族が造った風呂のひとつに、肩まで浸かっていた。
真っ白な湯気が、部屋中に立ちあがっている。
かろうじて高窓から差しこむ残照と、揺らぐ灯明の火が混ざり合い、漆喰の壁に反射していた。
木製の湯桶は、まるで小舟そのものだった。
たっぷりと湯を張るため、船縁は高く造られている。あるいは水面に浮かべれば、そのままに使えるかもしれない。
右舷に肘を乗せて見回せば、真っ白な天幕が、幾重にも吊り下げられている。
四方を覆う、天幕の仕切りだ。周囲から隠されたその内側に、熱い湯気が溜まって揺らぐ。
立ちのぼる気流で、天幕はゆらり、小さく静かに波打っていた。
「シュトカ、君は、そこで見張る役目なのだろうか……」
「見てない。私は、こっち側だから」
シュトカの薄い影が、天幕の向こう側にある。
声は、どこかおずおずとしていて、普段とは少し違う気がする。
「熱すぎたら、言って。熱い水脈と、冷たい水脈を混ぜる仕組みがあるの。ディーは、遠吠え言葉を使えないから、きっと向こうまで伝わらない。だから代わりに私が――」
遠吠え言葉、などと半ば無意識に訳してしまっているが、人狼族の言語を直訳すれば〈呼びかけ〉であろうか。
「そうか」とディーは納得し、うなずく。「自然の水脈だから、時節で温度が異なるのか。程良く調節しているんだな、どこかの水門で調節して」
「見張りは頼まれてないの。だけど、確かめてきなさい、とは言われた」
「いったい、なにを」
「危険なもの。特に、魔法の品物を。外つ国には、私たちを害する、とても恐ろしい魔法がある。そういうふうに聞いてるの。少なくとも、長老たちはそう信じてる」
「なるほど。君たちが言う危険は、例えば、火筒のことであろうが、私はあれを持たない。よほどのことがない限り、手元に置きたくないんだ」
「ほ……づつ……?」
聞いたことがない、という声だ。〈火の筒〉と、オウスヴァラの言葉にそのまま訳したのだが、あるいは別の言葉が、既に用意されているのかもしれない。
「魔法の武具だ。火を吹き、離れた場所まで届く。役目で言えば、弓のようなものだろうか」
「わからない。きっと違うものだと思う。大伯母様たちが畏れるのは、もっと危険なもの。小さな魔法じゃなくて、家や、国そのものにかかるような……」
「シュトカが見たら、それがあるかどうか、私が持っているのか、わかるものなのか?」
「わかるはず。見たこともあるから」
「どうもわからない」
まるで謎かけのようだ。後々わかることもあるだろうと、ディーは、大きく息をつく。
全身が浸かった湯の、染み入ってくる熱さが心地良い。
無数の小さな気泡が、こつこつと底から浮き上がってくる。あまりにも気泡が多すぎて、透明な湯が、薄く色づいている気すらする。
肩や胴、腕、ずっと足の指先まで、浸かった全身にびっしりと気泡がまとわりつき、くすぐられるようにこそばゆい。
このような湯船というものは、ガラエキアの民も活用していいのではないか。温水脈の利用を容易にしている、豊かな土地柄をうらやましく思う。
「ディー、これは、なに?」
シュトカの声だ。天幕の向こうから聞こえてくる。
手元にあるのは、おそらく、ディーが脱ぎ捨てた衣類だろう。
軽く絞ってはあるが、いまだ濡れそぼち、床に雫を垂らしているはずだ。
「そう言われても、わからない」と、ディーは答える。「私の持ち物か。検分するのは構わないが……どんなものを見つけた、シュトカ」
「これを……」
天幕の合わせ目から、華奢な腕だけが突き出されてくる。
シュトカの横顔もわずかに見えるが、うつむいて、睫毛をすっかり伏せている。
「ほんの少し、もしかしたら……竜の香り……」
「わかるのか」
ディーは、大きくうなずく。
「そうだ、シュトカ。君なら、わかるかもしれない、とは思っていた。竜の一部だ。ほんの、爪の先ほどのかけらにしか過ぎないが。それでも、確かにそれは、竜の躯から切り放された。証拠はここにある」
湯船から、ディーはざぶりと半身を起こす。
左肩をシュトカに向けて回し、心臓の上までを、見えるように大きく晒す。
「シュトカ、君は、語り部の歌をそのままには信じない、と言っただろう。先刻の竜との遭遇の中で、私も、と言いかけた続きは、そのような言葉だったはず。違うだろうか」
「違わない……」
「私も同じだ。本当のところを知りたい、と強く思う。同じ好奇心を持つ仲間として、私が語る竜の物語を、目にしておいてほしい」
おずおずと、シュトカが睫毛を持ち上げたのがわかった。
まだ伏し目がちではあるが、顔は正面を向いて、両手でぎゅっと天幕の合わせ目を握りしめている。
「ディー、それは――」
翡翠色の瞳が、大きく丸くなる。
強い驚きからか、ぱちぱちと瞬きが繰り返される。
「まだ少年の頃だ。竜の爪が、私を撫でていったことがある。少なくとも、私はそのように記憶している。残された傷痕が、これだ」
肩から左胸へ、内側に心臓が鼓動する真上にかけて、不可思議な瘢痕がある。
湯の熱で、全身の血脈が温まるにつれ、浮かび上がってきたのだ。
傷痕というよりも、誰かが意図して描いた、花びらの連なりに似る。中央の花蕊から拡がる花弁が、隣り合う花弁とせめぎ合い、歪んだ六角形の並びを形づくる。
肩口に向かって、蔓草に似た螺旋模様が、複数の尾のように伸びている。
それは、心臓めがけて墜ちる、燃えさかる流星のようでもあった。
皮膚の上に、なにかの結晶構造が成長し、顔をのぞかせた。そのようにも見えた。
「私の父は、竜を追う者どもを率いていた。無論、竜を斃すことなどできない。不死そのものだからだ。火山は滅ぼせない。竜巻を討つことは不可能だ。それらと同じように竜は不死だが、残滓を集めることはできる」
「ひとは、竜の欠片を集めて、持ち帰ろうとしているの? 奥国にやって来たのは、それが目的?」
「そうだな……。ほかにも様々な目的はある。しかし、交易で求める最も重要な品目は、やはり竜だろう。鱗の完全な一枚であれば、小さな領地を買えるほどの価値を持つ。殻国に限らず、諸侯が競って求める品だ」
「父様も、その話はしてた。外つ国に売りつけるために、竜を狩る相談もしていたの。そんなこと、誰もやったことないのに」
「シュトカは、やるべきではない、と思っているのか」
「私だけじゃない。母様も、大伯母様も、とんでもなく罰当たりなことだって」
「そうか。君たちの、ある種の信仰でもあるのだな。よくわかる気がする。あれは、討伐するとか、打ち倒すとか、そのようなものではない。我々の上を通り過ぎるものだが、ごく稀に近づきすぎて、傷痕を残す――」
「ディーの肌の模様も、そのようにして出来た?」
「そうだ。それは、戦いと呼べるものではなかった。ただ、竜が通過した。我々の側を通り過ぎて、擦れ違いざまに、どうしてか私に触れていった。ただそれだけのことだったが、父が率いる隊の半数は死傷し、私も九死に一生を得た」
ディーは、言葉の最後を、かすれるようにこぼした。
目蓋を閉じ、再び肩まで、熱い湯にどっぷりと沈みこむ。
「シュトカ。君が手にしているそれは、私の傷から抜き取った破片だ。竜の爪先が割れ刺さったものだ、と呪術医には言われた。以来、なぜか手放せず、そうして鎖に提げている。あるいは、道標になってほしい、と願っているのかもしれない」
「竜とまた遭うための、道標に?」
シュトカは、銀鎖に指を絡め、目の前に欠片を持ち上げていた。
立ちこめる湯気がすぐにまとわりつき、竜の欠片に、霧を吹いたように無数の水滴がつく。
ちかちかと灯明の光を反射し、ゆるやかに回転するにつれ、炎の赤から深淵の青へ、色彩を次々と変えていく。
「さあ、昔語りは、このあたりにしておこう」と、ディーは話を切り上げる。「呼ばれているのだろう。濡れ鼠では失礼とはいえ、あまり待たせるのも悪い」
「濡れた服は、そのまま吊しておいて。新しいものを用意してきたから」
「ありがとう、シュトカ。温かい湯も、嬉しいもてなしだった」
「それは、大伯母様に良く思ってほしければ、匂いを……」
「私の匂いは」
考えたこともなかったが、指摘されて、思わず手の甲を鼻に近づけてしまう。
「では、つまり……シュトカは、どう思う?」
「私は――――」
シュトカの波打つ髪から、いつの間にか、狼の耳が見えている。後方に寝かされ、震えるように立ちあがりかけ、また倒れこむ。
かき分けられていた天幕が、大きく揺れて、閉じ合わさった。
シュトカの姿は、ついと、向こう側に引っこんでしまう。
そうだ、とディーは気づいた。
シュトカもまた、おそらくは湯浴みし、衣を替えて出てきたのだ。
それでもいつもの残り香が、ほんのわずかに漂っている。涼やかな匂いだ、とディーは思う。
おそらく人狼族は、視覚と同等に、あるいはそれ以上に、嗅覚によって構築された世界で生きている。
言葉の基礎に、匂いを置いていると言ってもいい。
それらについて聞くことは、あるいは繊細な問題であったのかもしれない。
どうにも困った――と独りごち、ディーは湯船から身を起こす。新しい着替えは、天幕のすぐ向こうに、確かに用意されていた。
〈つづく〉