第三話 剣と鞘(1)
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落雷を、絡みつかせている。
無数の鱗の列に、閃光が跳ねる。それは、巨大な竜の腹だ。
見上げた視界のすべてが、夕刻の暗い空が、竜の影で覆い尽くされている。
うねうねと波打つ群青の鱗に、金色の雷火が燦めく。
ほんのわずかな静寂を置き、無音の闇が砕ける。雷轟だ。
あまりにも近すぎて、耳で聞いたという感覚がない。頬の皮膚が、背中の肉が、その下の骨髄まで強く揺さぶられた、と感じる。
大地そのものが震えたのだ、とディーは躰を固くする。
大粒の雨が、ばらばらと顔を打つ。外套をまとった肩を打つ。
風雨が土の道を叩き、下生えを引きちぎりそうなほど揺する。森の匂いすら、ほとんど洗い流していた。
黒鹿毛の乗馬が、ぶるぶると呼気を吹きながら、首を振った。
それでも、乗り手よりよほど落ち着いている。
戦場を走り抜けたこともある、豪胆な馬だ。立ち止まることもなく、平然と泥道を駈ける。
ディーの手前に共乗りしていたシュトカが、思わず伏せる。たてがみに、しっかと両手で掴まっている。
「なんということだ――」
ディーはつぶやく。雨粒のかすかな味が、唇を濡らす。雨に濡れた前髪を掻き上げ、首を精一杯に反らす。
異様な景色が流れていくのは、ディーとシュトカの真上だ。
目まぐるしく、うねり、風雨を伴い、しかし飛翔そのものの音は聞こえない。
鱗が見える。ひたすらに連なる鱗だ。どのような魔法によってか、ぱちぱちと雷光をまとわりつかせている。
それらは竜の腹だ、とは思うが、ほんの一部しか見えていない。
竜という存在が、ひとの視界にとらえるには、圧倒的に巨大なのだ。
古い世界に遺された滅亡した帝国の城塞より、さらに威圧的で、より時を経ていて、もっとずっと大きく長く見える。
いわば、王城を囲む城壁がほどけて、そのままの巨大さをもって生物となった、それほどの威容だ。
火の息をする岩塊のようであり、遊弋する天空のけもののようであり、伝説に語られる翼持つ大蛇の化身にも思われた。
「間近に見るのは、初めてだ……このような低い空を、あれは飛ぶものなのか」
「こんなこと、めったにない」
シュトカがようやく身を起こし、ディーの外套に指をたてた。掴んで自分の頬に寄せる。
まばたく睫毛の先から、雨粒が跳ねて飛ぶ。
「なにかを見に――来たのかも。そういう感情があるのなら」
「なぜ、そう思う?」
ディーの胸もとから、ちり、と小さな音をたてて、銀の鎖が揺れて見えた。
雷鳴に呼応したのか、青白い燐光が鎖に跳ね、一瞬で消える。
「昔から。そんなふうに言われてる。語り部が詠うような、大きな変動があったとき。火の山が噴く、大洪水が押し寄せる、そうでなければ、戦争の前触れという話も、聞いたことがある」
「なるほど」
「語り部の歌を、ディーは信じるの?」
「わからない。なるほど、と言ったのは、同じだと思ったからだ。私たちの国でも、よく似た伝承を耳にした」
「私も――」と、シュトカは口ごもる。睫毛を伏せる。
「話は、あとにしたほうが良さそうだ。まずは、君を送る」
言葉が終わる前に、反射的に体がすくむ。
地面から体が引き抜かれる、そんな恐怖を感じる。強い風雨に煽られた、ただそれだけではない。かつて知っていた、どのような感覚でもない。
馬の背をしっかり押さえたはずの膝が、ゆら、と浮き上がる。
落下する方角が、まるで上空へと裏返ったかのようだ。
恐怖より先に、反射的にシュトカを抱き留め、馬のたてがみにしがみついていた。
再び顔をあげたディーの眼前に、ひとつ、ふたつ、水滴が浮く。
乗馬の周囲に、無数の雨粒が止まって見えた。空から降るのではない。むしろ、ゆるやかに上昇していく。魔法のような景色だ。
おそらく喩えではない。竜の使う魔法だ、と感じる。
左右に広げた蝙蝠じみた翼は、鳥のように羽ばたくものではなく、大気に魔法を乗せるものではないか。
そうしたものが、今の異様な感覚なのでは、とディーは思う。
目のくらむ閃光。音にできないほどの雷鳴が、衝撃となって轟く。
大地さえ、上下に震えて感じられた。
ディーの背中を、いななく馬の鼻面を、周囲の森すべての枝葉を、ばらばらと雨滴が打ち続けた。
風をはらんだ外套の裾を、荒々しく風雨が引く。
波打つ竜の腹が、次第に遠ざかる。
金色の雷火をまとったまま、流れていく。
ほんの瞬きの時間、雷光が枝を分かち、ささくれだち、竜の表面をちかちか踊るのが見える。
群青の宝石のような、鱗のつらなりを照らす。
巨大な竜の通過と共に、浮き上がるような感覚は消え去った。今度は逆に、雨粒をたっぷりと乗せた風が、下方へと叩きつけてくる。
記憶の匂いだ、とディーは思い出していた。
よく似たものを、幼い頃に、きっと嗅いだはず。今ならば、銅で造られた蒸留器の、滴り落ちるアルコールの匂いにも喩えられる。
遊弋する竜が残した香気は、このようなものではなかったか。
断言はできない。ディーは、竜のことを、事実としてはなにも知らないからだ。
あらゆる意味で、判断は尚早だ。
伝承に語られることが、そのまま真実だとは思わない。書物に記された記述も、同様に保留すべきだろう。
ディーは無意識のうちに、首に提げた銀鎖を片手に握る。
シュトカの指で、外套が引かれたためか。提げられたものが、こぼれ落ちそうになっていた。
心臓の上の皮膚に、あるかなしか、小さな熱を感じる。
銀鎖は、冷たいままだ。先端に提げられたものだけが、かすかに脈打つ。
「ディーの、それは……」
シュトカが見上げてくる。たずねる顔だ。
それ以上は聞かれなかったので、ディーは答えなかった。
まずは雷雨を避ける。びしょ濡れのままに、シュトカを置くわけにはいかないと思う。
波打つ亜麻色の髪は、風雨のなかでさえ、つややかに見える。濡れそぼちながらも、小さな宝石のように丸まった雨滴を、表面に滑らせていた。
ディーは、思わずまじまじと見つめてしまう。
狼の耳がふたつ、シュトカの髪の間からのぞいていた。
雷轟に驚かされたのか、すっと後方に寝かされて、しかし確かにディーの眼前に顕わになっていた。
そうだ、人狼族であったのだ、とようやく思い出す。
互いに異種族であるという境界を、どうしてかディーは忘れがちだった。
辺境外に、オウスヴァラに赴任してから、シュトカと行動を共にすることが多かったためか。慣れてしまっただけだ、とも考えられた。
市街のほうから、遠吠えが響いてくる。
寝かされていたシュトカの耳が、ぴんと立てられ、器用に回る。
音のする方角を、聞き定めているのだろうか。
「ディー」と、名前を呼んできた。
「誰か、知り合いの声か」
「大伯母様の」
「大伯母というのは……つまり、先代の狼王の……」
「お祖父さまの、ずっと上の姉」
「なるほど。であれば、言葉には重みがありそうだ。帰還を急かされているなら、こいつに頑張ってもらわねば」
ディーは馬の首筋を、やさしく叩く。
応えるように、いななきが返る。
「急かされてない。だから大丈夫」と、シュトカが首を振る。「大伯母様が言うのは、連れてきなさい、と。ディーのことを」
予想外の返答だった。
眉をしかめてしまったディーの耳に、再び、遠吠えの声が届く。
どのような言葉であるのか。呼びつける理由は、なんであるのか。言語から読みとることができない未熟さに、ディーは羞恥した。
「まだまだ、学ぶべきことが多すぎる……」
溜め息をつくディーの前で、シュトカの亜麻色の髪が揺れる。
狼の耳の和毛に、小さな雨滴が星座のように光る。月明かりだ、とディーは気づく。
あの巨大な竜が、彼方に過ぎ去ったためか。竜の魔法で、雷雲すらも引き連れていったのか。
重く暗い雨は、やみそうなほどの小粒に変わり、今や星空を映す霧雨になっている。
遠い森の陰から、月が昇り始めていた。
〈つづく〉