時(7)
7
ようやく真正面から向き直られて、ジェンテの機嫌も、多少良くなったのだろう。
どっかり、椅子の背もたれに片肘を載せ、足を組み直す。
まだ熱さの残る焼き菓子を頬ばりながら、ひとつずつ問題を指摘する。
「まず、俺は謝罪させられた。狼王の将軍、王弟スヴァロトに、だ。うちのものが、王弟の兵を傷つけたというのだから、それは当然のことだ」
「向こうは納得していただろう」
「そうだな。常であれば、賠償の品を支払うか、呑めないのであらば戦か、ということになる。ところが向こうは、簡単な詫びしか要求してこなかった」
「そうか、本当に良かった」
「だが、なぜだ。どうしてそれほど簡単にことを収める。人狼族は、極めて平和を欲する部族なのか?」
「極めて合理的だ、と言うべきだろうな。こちらの兵が、案内の言葉を聞き違えた。誤解から生じた、避けられない錯誤であると認めたんだ。ならば、事故として処理すべき。王弟殿下がそのように判断してくれたのは、幸いだったよ」
「そういうことを、王弟に、お前が判断させたのか」
「私と、シュトカが、だな。互いの言語で結論を語った。殿下は、静かにそれを聴いてくれた。値踏みするような目つきではあったが、元来、合理的な人柄なのだろう」
ううむ、とジェンテが唸る。話しながら、焼き菓子をほとんど食べ終えていた。
ふと、真剣な面持ちになり、ぽつぽつと言葉をこぼす。
「その夜、我々の兵が三人、連れ去られたのだろう。いずれ、その件にも対処せねばな」
「そうだな。向こうの出方待ちになるだろうが……身代金ということになれば、無論、交渉に出よう」
「親族は、こちらにいるのか?」
「内縁があるものがいる。だが、三人のうちだれが深手を負ったのか、わからない。生死も不明だ。だから、捕虜になっている、とだけ伝えてある」
「そうか。つらい役目を負わせて、すまなかった」
「いいさ。遅れて着いたとはいえ、私も当事者だ。伝える義務があったと思う」
「交渉には当然、オウスヴァラの協力がいるだろうな」
三者間の駆け引きになる、と暗に言っていた。
ジェンテの予感はわかる。取り扱いしだいで戦火にも繋がる、難事になりそうだった。
ふたりの間に、しばしの沈黙が続いた。隣に座るシュトカも、ディー自身も、焼き菓子を食べ終えようとしていた。
親指についた小麦の粉を唇に移しながら、ジェンテが目蓋を閉じる。
再び開いたときには、がらりと話題を変えてきた。
「菓子は、旨かった。なかなかの焼き具合だ。外縁をきっちり焼き上げたのに、内はほろほろと柔らかい。また作れ」
「そうしよう」
ディーが努めて微笑すると、シュトカが、まるで自分に向けられたかのように、頬にえくぼをつくった。
もちろん、誰のためであれ、期待されればいくらでも焼くつもりだ。
乾燥果実の蓄えは乏しくなってはいるが、秋になれば、新しい収穫の季節に入る。
夏の小麦収穫が終われば、ひと月ほどで、すぐに林檎が熟し始める。葡萄の収穫も同時期に始まるが、冬までずっと採れ続ける。
新しい食材が手に入るあては、この季節、存分にあるのだ。
「なあ、ディーよ」
肘掛けに頬杖をつき、ジェンテが問う。
「時制の欠落、と言っていたな。それは、いったいなんなのだ」
「そうだな……」
ディーは、睫毛を伏せる。自らも思考しながら、ひとつひとつ受け答えていく。
「例えば私たちは、過去に存在していたものを〈いた〉あるいは〈あった〉と言うだろう」
「そうだ。例えば、焼き菓子があった、と言う。食べてしまって、今はないが」
「人狼族もまた、同じように〈あった〉と言うのだが、我々の〈あった〉とは違う。梱包なんだ」
「なにかを包むのか。言葉で、か?」
「言葉で、だ。〈あった〉という言葉に包まれているのは、時間的な経過だ。言葉そのものはほぼ同じ長さの単語だが、内側に梱包されている時間の経過が、変調で表現されている。微妙な変化だ。舌の震わせかた、発声するときの呼気の量……」
「待て、ディー。発音のしかたは今度でいい。今は、中身を教えてくれ」
「簡単に言ってしまえば、我々が一括りに〈過去〉と言っているものを、人狼族はより細分化している。様々な〈過去〉を使い分けている、ということだ」
「ちょっと前、それより少し前、もっとずっと前、というふうにか」
「喩えるなら、そういうことになる。しかし、だ。そもそも、一対一の対応ができない数量違いのものを、これはこう、それはそれ、と直訳することはできない。なにしろ、我々はそんな細分化された時間など、考えてみようともしなかった」
「いや、少しは考えるだろう」
「どうかな。では、焼き菓子はいつ食べ終えた。正確に言えるか。時の単位で」
「さっきだ。時刻であれば一時間以内と言いたいところだが、それでは大雑把すぎるな。さっき、としか言いようがない。ああ、そうか」
ジェンテが、納得したというふうにうなずく。
「日時計も、教会が打つ鐘の音も、錬金術師が造る絡繰り時計でさえも、すべて時間単位なのか。生きていく上で、それ以上の細かさを必要としていない……」
「まさに、そういうことなんだ」
ディーもまた、あごと頬に手を当てて、考えこむ。
「無論、今のは喩えただけで、話の本当はそうではない。ただ、我々がなにかを追跡するときに、足跡を見つけたとする。それがどの程度の過去についたものなのか、雑にしか知りようがない、ということだ。だから、人狼族の言葉に対応できない」
「生きていく上で必要がなければ、言葉は生まれないか。ましてや違いがわからなければ、当然だな」
「ディーは、言えた」と、シュトカが言う。ひとの言葉だ。「そこにいた、と」
「いや……本当に言えた、ということではない」
ディーは思わず、ガラエキア語で答えていた。ジェンテが目を見開いていた。口がぽかんと開きかけてさえいる。
シュトカが首をかしげたので、ディーは、オウスヴァラの言葉で言い直す。
「あれは本当に言えた、ということではないんだ、シュトカ」
「だけど、ほとんど一緒だった。ディーは、きっと言葉がわかると思ってた」
「真似こそ、できたかもしれない。だけど、それはただの口まねだ。私自身の言葉としては語れていない。少なくとも、今は無理だ」
「なぜ?」
「君たちは、目と鼻で、視覚と嗅覚を同時に使っている。闇の中で人狼族が見るのは、匂いだろう。鼻で嗅いで、漂っている残像を見る。きみは、そうしていたはずだ」
「そんなふうに切り離して考えたこと、ない」
「まさに、そのことだ。生まれたときから、ずっと周囲にあったものだからだ。だが、私たちには、そうした世界はなかった。感じ取れる世界の差が、そのまま私たちの差異になってしまっている。とても残念なことだが――」
納得いかない、というふうに、シュトカは首をふるふると振る。
先ほど一度だけ話したような、ひとの言葉はなかった。人狼の言葉もなかった。
すっくと椅子から立ち上がり、きびすを返す。
炉端から離れ、壁に掛けられたタペストリーを見に行こうとしてか、小走りに駆けていく。
「ひとの言葉が」と、ジェンテがつぶやく。「わかっていた……のか」
「まさか。多少は聞き慣れたかもしれないが――」
ようやく聞き覚えた言葉を、一度きり使ってみただけではないか。
流れに沿った会話であったのは、偶然であるのか、雰囲気を感じてのことか。
思えば、シュトカはそうであった。馬にもすぐに慣れた。向こうから見れば人外のはずのディーに対して、もとより物怖じしていない。
ガラエキアの言葉も、本当に覚えてしまうのではないか。そのように思えた。
「なあ、ディーよ。どうだった。失言などしていないか、俺は」
どこか困ったような、気遣うときの声だ。ジェンテは、いつもどおりの男だった。
ディーにとっては、そこが好ましい。そうであるから、仕える身でありながら、学友の頃のように接し続けていられる。
「大丈夫だ」ディーは、冗談めかして言う。「そのもの、などと呼ばわったのはいけないが、きっと聞き取れていなかった。気になるなら、謝罪しておけばいい。お前の気持ちを、尽くした言葉に訳してやろう」
「いいや、そこまでするな。今はしないが、いいか、仮にだ。言うときは、言葉を覚える。代弁で済ませてどうする、そんな謝罪を」
ジェンテが、ふと思いだしたように言葉を切った。
「そういえばだな――」と、眉をひそめる。「王弟スヴァロトだがな。傷兵に対しての、案内のものに渡す賠償の品は受け取った」
「それが、簡単な詫び、ということだな。納得できるものだ。どこの世界であれ、治療には金がかかる。働けぬ間の補償も必要だろう」
「だが、王弟自身は、彼の軍や、国に対する賠償は拒否した。いらぬ、受け取れぬ、と言ったんだ。その話はしたな」
「ああ、聞いた。良かったじゃないか」
「しかし、だ。どうしてもというなら、ひとつ欲しいものがある。そのように言った。それを思いだした」
「なぜ忘れる。なかなかそれは、大事なことじゃないのか。外交の要点だ」
「冗談だと思った。だから、だ。いいか、今、はっきり全部を思いだした。くれるというのであれば、模造の尾など腰につけた、あの背の高い踏査官を貰い受けたい。そう言ったんだ、王弟スヴァロトは」
「――――なるほど」
それは、冗談だと思うだろう。
いきなりの話だ。彼が、どれほどディーのことを知っているというのか。
役に立つのか。信用できるのか。いくらの扶持を与えれば仕官するのか。皆目わからないはず。
まして、それが外つ国からやって来た、同族ならざるものならば――。
王弟の真意が、まったくわからない。
「それで、ジェンテ。どう答えた?」
「考えておく、と。適当に濁すしかないだろうが。やつだって大笑いしたんだ、俺の肩を叩いて。酒を出されていたんだ。ああ、忘れていたのは、そのせいもある。濃厚な、実に濃厚な蜂蜜酒だった。まずまず旨い酒ではあった」
なるほど酔っていたのか、とディーは納得する。頬杖した手のひらの奥で、隠すような溜め息をつく。
王弟も同様であるのなら、酒の席の戯れだ。深く考える必要はない、とも思える。
ちらりと、シュトカを視線で探す。予期した場所には見つからない。首を回して見ると、いつの間にか、また長椅子の背後にいた。
どうしてか、耳をそばだて、ふたりの会話を聞いていたようにも思えた。
どれほど理解しているのだろうか。
言葉はわからずとも、好奇心から側にいたのか。
そういえば、彼女は王弟の娘であった、と今さらながらに思い出す。
夜中、ひとを呼びつけるために寄こしたり、よそ者の砦に出入りすることを、どうしてか王弟は許している。
すべての人狼族が、そのようであるとは思えない。
娘に対する絶対の信頼であるのか、自由をそれほど重んじるのか。
目元は、親子で似ているのだろうか。シュトカの頬の輪郭を視線でたどっていると、まっすぐに目が合ってしまった。
ほんの一瞬、なにかを問う視線がある。
睫毛がしばたたく、それだけの時間で、またきびすを返してしまう。
走り去るシュトカは、以前に見たときと同じように、チュニックの裾をぎゅっと掴む。
わずかに尾の先端がのぞく。
華奢な尾の先端が、揺らいで語る。(はやく外へ――)
それでディーは、小さな背中を追うため、ゆっくりと立ちあがった。
〈第二話 終わり〉