時(5)
5
不幸中の幸いか、案内の男の傷は浅かった。
あるいはガラエキアの兵も、心に迷いがあったのか。
刃は、革鎧の分厚い胴を叩き、しかも、引き切っていなかった。無意識であれ、手心が加えられていたのだろう。
シュトカには、けもののくだりは伝えていない。
あまりにも血生臭く思えたからだ。
案内が殺されずに良かった。そうなっていたなら、とても協力など頼めなかった。
「話せるか」と、ディーが問う。
案内は、静かにうなずく。
ディーとシュトカが、添うように共にいることが、なにか信用を与えたのかもしれない。
痛みに訥々となってはいたが、素直に受け答えてくれる。
「なにかを追うのは、いつものおれの役割だ。そう簡単というわけじゃないが、できる」
「そうだろう。人狼族は、追跡の名手と聞く。彼らの話を先に聞いたが、私には、きみの追跡は成功しているように思えた」
「そうだ。おれは、見つけた。嘘ではない」
「夜目が利くとしても、草むした森の道では分が悪い。足跡など、見つけられまい」
「足跡など、最初から諦めていた」
そうだろう、とディーはうなずく。
彼らは、視覚をさほど頼りにしていない。より鋭い感覚を持つからだ。
「見えたのは、やつらの姿だ。そこにいた、ずっといた。はっきりとおれは見た」
「このまま追おう、と兵に言われたな? それで追跡を続けた」
「言われた。ずっといた、もうずっといた、というわけではかったから、おれもそれでいいと思った。命じられるままに追いかけた」
注意深く聞かなければわからなかったが、たしかに言葉が違う。語尾などの明らかな変化ではない。より単語全体にわたる、発音の変調だ。
ディーとて、正確に逐語訳できていない。いい加減なものだ、という自覚はある。
「追跡の間、ずっと同じ返答しかなかった、と兵は言っていたが、その通りか」
「まさか」
案内は、心底、意外そうに首を振る。
「おれは追跡者だ。できないのなら、最初から任されない。いつもどおりだ。やつらがいたか、きちんと教えた」
「最初は、どう答えた」
「やつらがいた、ずっといた、と」
「では、その時、匂いはどうだった」
「もう答えた。ずっといた。どう違う」
「匂いの――濃度だ。見えていたのだろう」
「当然だ。やつら、来るときは消してきただろうけど、幾日も森を歩けば戻ってしまうさ。はっきり見えていた」
「それは、どのように見えていた」
「道なりに、だ。ほとんど途切れなく、ずっと繋がっていた。風が緩かったからな。森の狭間では余計に濃く残るよ」
「なるほど、よくわかった。次は、どう答えた」
「やつらがいた、と」
「匂いは?」
「どんどん濃くなっていた。やつらが歩いている姿が、はっきり見えたよ」
「それは、より丁寧に表現すれば、同じものが一列に、連なって見える、という感覚であっているか?」
「一列に……」
案内は眉をひそめ、目をまるくし、初めて聞く詩を吟味するような顔になる。
それはそうだ。なにかを見るときに、これは大きく見えるので近くにある、あれは小さく見えるので遠くにある、そのように見ているか、と問われたようなものだろう。
「なるほど、確かに、そんなふうだ。でもそんなことは当たり前で、みんな見ているだろうが。薄く、かすれてゆく、連なった姿が見えるはずだ」
私たちには、ひとには見えないのだよ、とはディーは答えない。
代わりに、最後の質問をする。
「結果として、追跡は見つかってしまったわけだが、その直前、きみはなんと言った?」
「どうだったかな……」
怒りを噛み殺す、つぶやくような声だ。葛藤に震える尾が、彼の心情を表している。
「本当に直前だったんだ。皆が慎重に、物音たてず忍ぶだけだ。風もよかった。あれだけの濃い匂いの後ろを取っていれば、必ず獲物を仕留められた。そのはずなんだ」
「はっきり、言葉を思い出せるか」
「思いだした。ここにいる、だ。まさに目の前に、だ。おれは、そう言った。見たからだ。触れられそうなほど濃密な、やつらをだ!」
結論は出ていた。ディーは睫毛を伏せ、無言でうなずく。
「成し得ていたな。確かに、言葉どおりだ。王弟殿下も納得するだろう。向こうだ、直接に説明するといい。私たちも共にゆき、足りない事実を埋めて語ろう」
ディーは、ガラエキアの兵達に向けて叫ぶ。
「私は、踏査官だ。今も、社団の総督、トヴァスス伯の令により、調査の任にある。道を開けよ。この者を証人として連れてゆく」
トヴァスス伯ジェンテは、辺境外に駐屯するガラエキア兵の首領だ。
彼らの、九人いる雇用主のひとりでもある。
それ以上は、あえて言わない。
平然と口を引き結び、背筋を伸ばして歩むディーの前に、兵たちは後ずさる。譲るように左右に分かれていく。
使節団すべてを統べる長の名を出したのだ。道が開くのは当然ともいえた。
負傷の案内を支えてゆくディーの、すぐ脇をシュトカが進む。かばうつもりで背にしたはずが、いつの間にか半歩、前にいた。
ディーの態度は、つくったものだ。予想はできても、無事に通される確信はない。
内心を隠したディーなどより、シュトカの姿勢はまっすぐだ。よほど堂々と、美々しい歩みに見えた。
兵たちの群れを通りすぎて、ディーは、背をかがめて隣に囁く。
「シュトカ、すべて、君の言う通りだった。彼は〈いた〉などとは一度も言っていない」
あえて、舌足らず、と言われてしまうような言葉を混ぜる。
「そう、言ってない。私も聞いてたから、よくわかる。ひとには、案内の言葉が通じてなかったの?」
「そうだ。聞き取れていなかった。聞くこともできず、言うこともできない。本当の〈そこにいた〉を発声することは、私にも難しい」
「今の声は、似てる」
シュトカは、口もとに指を添える。
小さな手のひらから、くすくす笑いがこぼれそうな、そんな表情だ。
「ディーは、きっと耳がいい。だから、できるはず。もう一度やってみて」
「やってはみるが――」
そ・こに・い・た。音節の各所を、意識して真似る。
シュトカがうなずき、目を細めて微笑んだから、おそらく近似の発音を為せたのだ。
良かった、と思えた。やるべきことを為せて、まず良かった。この先も人狼族と共存するつもりなら、必ず習得せねばならないものも見えてきた。
安堵から、吐息が長く長くこぼれた。よもやの惨事とすれ違ったためだ。
長い夜だ。
天空では、二つの月が寄り添って、森の陰に沈もうとしていた。
〈つづく〉