第一話 尾(1)
第一話 尾
1
岩石で造られた、蜂の巣だ。そのように見える。
異質で巨大な生き物が、営巣としてうがったのか。
それとも、成長する結晶のように、自然のふるいまいが形づくったのか。
どちらともとれるような、幾何学模様の洞穴群だった。
山岳と草原の出遭う緩やかな丘陵に、異様な光景をつくり出していた。
六角形が整然と並ぶ黒々とした洞は、そのうちのひとつでさえ、人馬が歩めるほど大きい。
今、ひとりの男が、馬上からそれらの洞穴群を仰ぎ見ていた。
名を、ディー・ジュバルという。踏査官として、この地にやって来た。まだ年若い。体の線も細い。
半ば閉じかけたような二重の目蓋の下、青みがかった灰色の瞳が、あるいは、ゆったり瞬きする睫毛が、物思いにふけっているような印象を与える。
彼は、来た道を見返り、城塞のようにそびえる灰褐色の岩壁を仰ぐ。
黒染めの亜麻のシャツ、黒の革上衣という姿だ。
何者にも染まらぬという意思を表す法曹か、闇夜のもとで人知れぬ仕事につく者か。そのような風情だった。
肩から吊した外套は、なめした黒牛の柔らかな毛皮。
ゆるく毛羽立ち、湿った土と青草の香りが濃厚に溶けこんだ微風に、外套の裾が揺らぐ。
ディーがいるのは、短い夏草に半ば覆われた、緑の小道だ。
彼が知る石畳の街道には程遠く、辺境の農道ほども整備されていない。
馬車が通る道幅はかろうじてあったが、轍のたぐいは見当たらない。
ディーを背に載せた馬は、ひづめに絡む道草をはねのける。青々と葉を散らす。
田舎の道を、踏みしだきながら進む。
だく足の音に驚かされた小さな虫たちが、パチパチと羽音をたてて逃げる。
馬もまた、乗り手に合わせたような堂々とした黒鹿毛だ。
額から鼻筋にかけて、星々の道のように白い毛並みが流れていた。
ひづめの音をたてながら、ゆるやかに馬が首を巡らせ、乗り手に道中を急がせているように見えた。
ディーは、馬の首筋を軽く叩き、ぴんと立った耳もとに頬を寄せて囁く。
「すまんが、少し寄り道をさせてくれ」
静かな声、まるで独り言をつぶやくような低音だったが、不思議なほど発音が明瞭だ。
言葉を理解したように、馬が進路を変える。歩速を落とし、並足に移る。
ゆるりと道を外れ、柵で覆われた空き地へと向かう。
丸木の柱に、横木を頑強な蔓と枝で結わえた柵だった。
よく整備され、柱の間隔も計ったように等幅だ。測量されている、とディーは思う。
つまり、土地の所有者が、有力貴族であることを示している。
ゆるやかに曲がって続く柵の終点には、ひとりの少女がいた。
扉を支える支柱に片手をかけている。
なにかが気になって、急いているかのように、揺すっている。腕と脚、そして華奢な体も、なにもかもを――。
柵の上に、体を持ち上げようとしているのだろう。少女の身分もまた、容易に予想できた。
ディーは手綱を引き、馬を止め、飛び降りる。
そうして、わざと大きな音をたて、相手に注意をうながす。
視線を合わせるよりも先に、深々と一礼してみせた。
「驚かせて、すまない」と、ディーは謝罪する。
先ほど、自らの馬に語りかけたのとほぼ同じ語調、水面に波紋が拡がっていくような、ゆるやかな音律。そして、伏せた睫毛を静かに持ち上げる。
片手を腰の革ベルトにひっかけ、小刻みに指で揺らし、話す。
「私の名は、ディー・ジュバル。殻国より、踏査官としてこの地に来た」
「踏査官……? 殻国というのは、断崖より向こうの、大地の果ての外つ国ね」
少女が口を開いた。想像していたよりも声が幼い。そして、視線の先が読みづらかった。
まっすぐに見つめられている。
そのはずなのに、ディーの背後で待つ馬に、それとなく目を向けているようにも思える。どこか曖昧だ。
彼女は、この地の住人だ、とジュバルは確信している。
よどみのない現地の言葉と、祖国や周辺の小国家群、断崖より手前では見ることのなかった、独特の服装からわかる。
袖口の広いチュニックは、肩から袖にかけ、葉と蔓草を交えた紋様が織り込まれている。
胸下からはドレープが施され、足首まですらりと流れ落ちる。
袖口には精緻な刺繍が施され、糸の染料は、群青と黒だ。深い青を出すことは、ディーの祖国では難しかった。
少女はまなじりを、珊瑚色の粉で彩っている。そのためか、やや目元にきつさを感じさせる。
光のあたり具合か、濃淡が奇妙に変化する、碧色の瞳だ。
縁取る薄い色の睫毛は、絹糸のように細く、蝶の羽のように素早くまばたく。
ゆるく波打つ亜麻色の髪は、耳もとを完全に覆っていて、左右非対称に編みあげた三つ編みが、後ろ髪で合流して結われている。
歳の頃は――と一瞬ディーは考えるが、すぐにやめる。
この地に来て、間もないからだ。彼が旅立ってきた国は、母国語でガラエキアといい、その言語では、この地を「新世界」という。
言葉も、見るものも、なにもかもがまったく新しいのだ。
髪結いひとつとっても、風習の違いを感じさせる。
新世界に棲むものは、見かけがどれほど似ようとも、ひととは違う種であると聞いていた。
異種の住人の、実際を見るのは初めてだ。見かけで年齢を確かめる手段などない。
ディーは、自らの片目を覆うように、手のひらをあてて考える。踏査官の職務の五分までは、外交であり、争いを未然に防ぐこと。
であれば、決めつけをせずに、概して受け手に回ればよい。
「言葉が上手」と、少女が言う。「外つ国のひとは今までもたくさん来たけれど、みんな蛮族のような話し方をする。途切れ途切れで、まるで途中の言葉を、わざと抜いて話しているみたいに」
「ありがとう。言語は、我らの最も大事とする職務だ。世辞もあるのだろうが、誉められるのは嬉しい。名を聞いてもいいのだろうか?」
「私は、シュトカ。あなたのことは、ディーって呼んでもいい? それとも、踏査官と?」
ガラエキアでは役職で呼ぶのが正式であると、充分、わかっているのだ。
想定していたよりも、ずっと賢い。そして、気取っていながら、子どもじみた物言いでもある。
ディーはこらえきれず、くすりと笑みをこぼす。
シュトカは、感情を意図的に言葉から隠している。
おそらくは、女性が見知らぬ相手に感情を表すのは、無作法とされている。
あらかじめ聞き学んできたところでは、そのような理由だった。
ために、半ば筆談しているかのような平坦な会話であったが、表情の変化だけは読み取れた。
「ディーでかまわない。握手は――?」
差し出された手のひらを、シュトカは、まじまじと見つめた。
おずおずというふうで、最初はゆっくりと、恐いものにでも触れるようにディーの手に触れ、一瞬だけ離す。
それでも、再び握ってきたときは、ぎゅっと力強い。
堂々と、誰とも対等な、おとなのような握手だ。
手のひらが小さく、骨格が華奢だ。
透き通るような血色のよい肌色、肌理の細かさと皮膚の弾力から、ディーは相手の地位を量る。
両手を労働で使い続ければ、水気のようなものが失われていくはずだが、そんなことはない。
であれば、貴族の子女であろう。
それにしても、きちんと親指を上に広げ、こちらの意図を知っているように振る舞う動作には舌を巻く。
握手に慣れているわけではない。
しかし、即座に対応して、自らの知識を活かす機知がある。
シュトカはぎこちなく、親指をくるくると回す。
おとなであればしない動作で、握ったディーの親指の付け根をつついて、小さなまるい瘢痕を探った。
上目づかいにディーを見上げてくる瞳が、どう? と尋ねてくるようだった。
〈続く〉