1 死後の世界
タイダは暗闇の中、膝をかかえてうずくまっていた。何も考えてはいない。ただぼうっと、その場に存在していた。
『本当に大丈夫なのか』
タイダの頭の中に声が響いてくる。
「……わからないよ。なにせ彼女が必要だって予言があっても、上手くいくって予言はないんだから」
タイダは目を開け、ゆっくりと立ち上がって言った。
「本当はあまり彼女の力を借りたくはないんだけど……、そうも言ってられないみたいだ」
タイダは振り返り、ある一点を見据える。
「彼女がこの世界へ来た以上、この件に関わらずに済むはずがない」
タイダが見据えた先には、二人の少年に連れられたウエルが姿を現した。
「こんばんは、ミス・ウエル」
タイダは左手を腰の後ろ、右手を腹の前にあてて、うやうやしく礼をした。
ウエルは気がつくと何もない真っ暗な空間の中にいた。そこは本当に真っ暗で、本来なら何も見えないはずなのだが、なぜだか異様に視界が良い。目の前に立つ金髪の少年の姿がはっきりと見える。表情までしっかりと読み取れた。
「こんばんは、ミス・ウエル」
暗闇にたたずんだ金髪の少年が礼をして言った。時間の感覚がいまいちよくつかめないが、「こんばんは」と言うくらいだから夜なのだろう。
「こんばんは、ミスター・タイダ」
ウエルは軽く苦笑して言った。自分で自分の顔は見られないのでわからないが、いくぶんか引きつっていたと思う。ただそれはタイダに会った時のことを思い出したせいなのか、それとも別の何かだったのかはウエルにすらわからなかった。
ウエルがタイダに初めて会った日のことは忘れようがない。あの日は人生の中で最悪の日だった。ウエルは当時六歳で、必死に森を駆けてあるものから逃げていた。
あるもの、それは殺人鬼。ウエルの父や母、そして弟を殺した非道な人間だ。
「うわああああ」
その日、ウエルは自分がけがをした時に使う薬草を、一つ違いの弟であるクラットと共に近所の森へ探しに行っていた。家に戻り、扉を開けたのはクラットだった。クラットが家の中へ駆け込み、ウエルはその後を追う。
「ただいま」
そう声を張り上げてもいつもなら返ってくるはずの返事がない。気づくと、クラットの姿も見当たらない。ウエルは不思議に思いながら、居間をそうっと覗いてみた。
そこに、あの男がいた。
思い出しただけで吐きそうな光景だった。床は一面血の海で、そこに表情のない目をしたあの男が立っていた。そばには人が二人倒れている。父と母だった。男の手にはまるで物でもつかむかのように、クラットの髪の毛がわしづかみにされている。床に倒れた父と母はもちろんのこと、クラットも血まみれでだらりとしたまま動かないので、一目でみんな死んでいるとわかった。わかった瞬間、ウエルは夢中で逃げ出した。
ウエルは、その日までいい人生を歩んできたとは言えなかった。
外に行けばたいてい何かしらの事故に遭遇する。例えばあるとても暑い日に川へ遊びに行った時などは毒蛇と鉢合わせになり、体のあちこちを噛まれて、三日三晩ベッドでうなされるはめになった。
山に行った時には普段なら絶対に起こりえない土砂崩れに遭い、今度は一週間ベッドでの安静を強いられたりもした。
家の中でも物が頭上に落下してきたり、ウエルの持ち物だけが壊れやすかったりするのはよくあることで、ウエルは常にそのような生活を送っていた。
そしてそんな生活をしていたものだから、周りの人々は疫病神だとウエルのことを突き放し、そのせいで友達らしき友達はいなかった。
(だけどそれでも、こんなのはひどすぎる)
父と母がいなくなって、誰に自分の存在を認めてもらえばいい?クラットがいなくなって、誰がわたしと遊んでくれる?父と母はわたしに愛情をそそいでくれた。クラットは今日も薬草を一緒に取りに行ってくれたし、いつだってそばにいてくれた。遊ぶたびに使った遊具が壊れたって、気にせず一緒に遊んでくれた。みんな、わたしの唯一の理解者だった。それなのにその唯一のものを、あの男が全て奪ってしまった。
すごく、恐ろしかった。
神はこれ以上わたしに何をさせたいんだろう。がんばって生きていれば、絶対にいいことが待っている。そう信じて今まで生きてきたのに、それがこの結果なのだろうか。
ウエルはついに力尽き、走るのをやめて木にもたれかかった。
(そういえば、何で逃げてきたのかなあ。生きていたってどうせ何にも残っていないのに。死んだらまたクラットといっぱい遊べるのかなあ。今日家に帰ったらカルタをする約束だったんだ。クラットは薬草を取りに行く直前、わたしに「帰ったら一緒にやろう」って言っていた)
そう思った瞬間、何だか無性に悔しくなってきた。
もっといっぱい遊びたかったのに。もっといっぱい話したかったのに。もっともっといっぱい一緒にいたかったのに。
ウエルの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちそうになった時、一人の少年が目の前に姿を現した。その少年はまるで透明人間に色が塗られていくように、暗闇からすうっと現れた。
髪は驚くほどきれいな金髪で、思わず目がいった。自分の住む村にもいろいろな髪の色をした人間がいたけれど、これほどまでに整ったきれいな金髪は見たことがない。
美しい髪をした少年は、誰もいないはずの虚空をじろりと見て言った。
「君たち、やりすぎだ。小言を聞きたくなければさっさと帰ることだね」
すると不思議なことに、さっきまですごい形相で自分を追っていた男は急に向きを変え、そのまま何事もなかったかのように去っていってしまった。ウエルがあっけにとられてその場に立ち尽くしていると、少年はウエルに向き直って言った。
「ごめんね。君のところに闇人が五人も集まってきてたんだ。君は何でか、彼らに好かれる体質をしているみたいなんだ。今度からはきちんと注意を払っておくよ。もう二度と、こんなことが起こらないように」
ウエルにはその意味がさっぱり理解できなかった。
「闇……?」
ウエルが心底わからなそうな顔で少年を見つめると、少年は軽く笑ってから言葉を発した。
「闇人。霊界……いわゆる死後の世界の中の、闇の国に住んでいる人たちのことだよ。正式には『闇の住人』っていうんだけど。他にも光の国とか天の国の……」
少年は矢継ぎ早に話していくが、「その辺りでやめるんだ」と、少年の後方、少し薄暗いところから聞こえてきた低い声がそれをやめさせた。
「もう、いいだろう。早くしないと、これ以上は限界だ。早く……するんだ」
「ああ、ごめんラガー。あまりにも楽しかったから」
一方的に話すのがそんなにも楽しかったのだろうか?少年は顔だけで後ろを振り返り、正体の見えない声に向かって答えていた。それからウエルの方へと向き直る。
「ここってそうそう来られるところじゃないんだ。闇人たちを止めるためにきたんだけど、どうしても嬉しくって」
少年はそう言ったあと、じゃあ、と口にして背を向けた。ウエルは思わずそれを制止する。
「待って!あ……あなたは、誰?名前は?わたしは、スロウ・ウエル」
少年は振り向いてウエルを見た。
「僕はタイダ」
そして少し寂し気な表情を浮かべ、言う。
「続きは何?なんて聞かないでよね。僕はそれ以上もそれ以下もない、ただの『タイダ』なんだから」
またもやウエルにはよくわからない話だった。しかしその意味を考える間もなく、今度は先ほどとは逆で、透明人間に塗られた色が落ちていくように、すうっと闇の中に溶けていった。そしてウエルは立ちつくし、少年が消えていったところをぼうっと眺めていた―――。
ウエルは女性だ。しかし、成長したウエルは傍から見ると男以外の何者でもない。それは言動はもちろんのこと、服装まで男らしいものを選んで着ていることに起因している。その上、女性の中でも長身の方なので、なおさら男にしか見えなかった。
唯一、髪の毛は肩を十センチメートル以上越していて女性らしさが見受けられそうな部分ではあるが、ウエルはその髪を乱暴にくくっているので「女性」と言える要素はほとんど見当たらない。
こんな風になったのには、この幼少期の出来事が大きく関わっている。ウエルはこの事件の直後、自分の弱さを知った。その上、一人で生きていかなくてはならない大変さを知った。家族を失ったウエルは親戚の家に預けられることとなったが、味方は誰一人として存在せず、たいていのことは一人でこなさなくてはならなかったからだ。
「強くならないと」
ウエルはそう考え、努力してきた。その結果が、今の自分である。強く、強くと思えば思うほど男に近づいていき、今の自分が確立された。十一年前の、あの日から。
長かったので分割しました。