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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

教師にハンマー、それとチューリップとくちづけ

作者: 山郷ろしこ

 夜まで残った夏の湿気が、首筋で汗になって流れ落ちる。門柱のプレートに手を当てると、金属の冷たさもみるみる体温に溶けてしまった。


「しっかし暑いな。このままいつまで待ったらいいんだ」


 同期Aが舌打ちを漏らす。それに便乗するように、同期Bも不格好な唇を尖らせた。


「だいたい、なんで俺たちがこんなことしなきゃなんねぇんだ? こっちのほうはお前の仕事じゃなかったのかよ。なぁ大塚」


「うるせぇな。今さらガタガタ抜かすなよ」


 名前を呼ばれて、俺は同期たちを睨んだ。Bのだらしない二重顎と、Aのごっそりとこけた頬が、夜の紺色に馴染んで見える。


「お前らがいつまでも下っ端だからこんな仕事させられてんだろ? いいから大人しく黙ってろよ。学校の前で悪目立ちすると、善良な近隣住民はすぐ通報しやがるぞ」


 早口に言い、俺は門の向こうに目を戻す。大塚の金髪がいちばん目立ってるよ、というBの声は無視した。この暑いのに帽子やフードなんか被っていられるか。


 門柱の奥には、薄汚れた外壁がのっぺりと浮かび上がっている。金のない公立中学校は、防犯対策も笑えるほどずさんだ。警備員もいなければ校門も開けっぱなし。少しでも問題が起きるとニュースになることを除いては、俺たち「不審者」にとってこれほどやりやすい場所もなかった。少なくとも、敷地に一歩踏み入っただけで弾丸が飛んでくるようなことはない。


 校舎の屋上からは、吹奏楽部がコンクールに出場するとか何とかという垂れ幕が下がっている。少年少女の夏に退屈な全校集会を増やすことになっても、俺は仕事をしなくてはならない。今どき、カタギに迷惑をかけないヤクザ者なんかいないのだ。


「お、アレか?」


 Aが声をひそめた。玄関からひょろりとした中年男が姿を見せる。俺はジーンズのポケットからスマホを取り出して、保存した写真と見比べた。真っ黒な髪に尖った顎、フレームの細い眼鏡……。


「アレだな」


 腕時計を確認してから、男は早足に歩きだす。校舎脇の駐車場へ向かうようだ。上司に伝えられた通りの展開に、俺は小さくガッツポーズをとる。男が校門に背を向けたタイミングで、俺たちは敷地内に足を踏み入れた。


 硬いアスファルトが男の足音を響かせる。俺たちは息を殺し、つま先立ちになってそれに続く。男のピンと伸びた背筋は、俺の高校時代の担任に似ていた。堅苦しく四角四面な性格で、生徒たちには疎まれていたっけ。


 校舎の角を折れて駐車場に着くと、男は白いカローラの前で立ち止まった。これも上司からの情報通りだ。どうせ俺が連れてくるなら俺に下見をさせればいいのに、あの上司は自分がやるといって聞かなかった。要するに、俺は信用されていないのだ。


 男が車のキーを取り出す。校舎の陰からそれを確認すると、俺は間髪入れずに合図を飛ばした。


「いけ」


 Aが勢いよく飛び出し、男を羽交い絞めにする。男は目を見開いて振り返ったが、すぐに首の向きを戻され口をふさがれた。続いて駆け寄った俺は、チャリン、と落ちたキーを拾って車のロックを外す。そのまま運転席に乗り込むと、追いついたBが後部座席のドアを開けた。エンジンをかける背もたれ越しに、男がシートに倒れ込む音が聞こえてくる。ルームミラーに目を上げ、男の両隣にABが座っていることを確認してから、俺は車の鍵を閉めた。サイドブレーキを降ろしてギアをドライブに入れ、アクセルを踏みこむ。


「なっ、なんだ、君たち! どういうことだ!」


 口を解放され、男が怒鳴る。怒声なんて聞き慣れたものだが、こんな堅苦しい響きは久しぶりだ。


「なんだって言われてもなぁ」


「ヤクザだよ、ヤクザ」


 男を手際よく拘束しながら、AとBがおざなりに答える。手足を縛られる痛みに呻き、むなしい抵抗を試みながら、男は震える声をあげた。


「はぁ? な、何がヤクザだ、ふざけるのもいい加減にしろ! 何の目的で……どうして私が」


 助けを求めるような視線が、ルームミラーから俺に届く。真っ当な混乱だ。青白く生気を失った顔色が、男の生きてきた常識的な数十年間を物語っている。


 かわいそうな奴。俺は左にハンドルを切り、簡潔に答えてやった。


「あんたがマトモだからだよ」






 部屋の中央に男を放り出すと、ドサッと重い音がした。人が来ないことを確認してから、俺は後ろ手でドアを閉める。AとBは今頃、男の所持品と車の処理に追われているだろう。


 硬い床で頬をしたたかに打った男は、芋虫のように身体を丸めている。背中で縛られた両手では、痛む箇所を優しくさすることさえできまい。


「ごくろうさま。案外早かったね」


 部屋の奥から、リネンのTシャツを着た女が言う。こいつが俺の上司だ。寂れたビルの殺風景な部屋の中でも、その栗色の髪はツヤツヤと光って見える。長い睫毛に高い鼻、ほっそりとした輪郭と何拍子も揃った美女だが、俺にはその美貌がかえって不気味に感じられる。


「エリさんの指示通りにやりゃあ、大抵のことはあっという間に済みますよ」


「そう」


 せっかくお世辞を言ってやったのに、まるでにべもない。エリは白いハイヒールでカツカツと男に歩み寄ると、尖った爪先でうつ伏せの顎を掬いあげた。


「きみ、名前は?」


 男より二十は年下のはずだが、小さな子供を相手にするような口調だった。男は縛られた手を震わせつつも、明瞭に答える。


「荒木、荒木康之(やすゆき)


「そう。人違いをしていなくてよかった」

 エリは爪先を荒木から離し、興味を失ったように視線を外した。その無表情が恐ろしくなったのか、荒木は急に声を張る。


「待て、説明をしてくれ。ここはどこだ? あなたは誰なんだ? 私に何をするつもりなんだ」


「待つのはきみでしょ。そんな一気に言われても困るよ」


 言いつつ、エリは少しも困っていない様子で荒木を見下ろす。俺はドアの外を気にしながら、二人の会話に耳を傾ける。


「でもきみ、冷静だね。学校の先生って頭が固そうだから、こういうサプライズにはものも言えなくなっちゃうかと思ったのに」


「トラブルに冷静な対応ができなければ、子供たちを守ることはできない」


「ふぅん、かっこいいね。騎士様みたい」


「質問に答えてくれ」


 ふぅ、とため息をつき、エリは透き通った声で答える。


「ここは、この辺りで麻薬を売ってる子たちが拠点にしてるビル。私はその子たちのグループに潜入してる、暴力団員のエリ。あなたにはこれから『身代わり』になってもらう。分かる?」


「……分からない」


「分かるように言うとね」


 切れ長の目が面倒くさそうに細くなる。


「私たちヤクザは、縄張りの中で色んなことをしてお金を稼いでるの。たとえば、怖いお薬を売ったりしてね。でも、最近その売り上げがよくなくて。調べてみたら、このビルを使ってる子たちが、私たちよりも上手にたくさん麻薬を売ってたんだ。あなたの生徒の何人かも、ここの薬にお世話になってるかもね」


「そんなことは」


「あるよ。そこが子供の可愛いところでしょ? ……まぁそれはいいや。とにかく、そういうことをされると私たちは困るの。だからここを潰さなくちゃならない。だけど私たちの動きに、ここのグループの子たちも気づいちゃったんだ。そこで、あなたの出番ってわけ」


「私に、何をしろというんだ」


「ヤクザの仲間だって振りをして、ここの子の尋問に耐えて。何も知らないあなたなら、何にも答えられないから」


 荒木の動揺が、空気に乗って伝わってくる。


「そんな……。こ、この場所が分かっているなら、君たちの組織もすぐに対処できるんじゃないのか」


「もちろん対処はするよ。でも、ただ対処するだけじゃ全面戦争みたいになっちゃうから。きみにここの子たちの気を引いていてほしいの」


「しかし……」


 荒木は俯いた。そして言葉を探すような間のあと、恨めしげな顔を上げる。


「どうして、私なんだ」


「きみのクラスに女の子がいるでしょ? やんちゃで生意気で、夏の雷みたいな子」


 エリがその生徒の名前を言うと、荒木は訝るように頷いた。その名を耳にするだけで、俺はうんざりと額が重くなる。


「普段は隠してるみたいだけど、その子、私の組のお嬢様なんだよね。その子があなたにとっても怒ってるの。前にひどく叱られたからって。だから、私たちはあなたをどう利用してもよくなった」


 荒木は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだろう。生真面目で鬱陶しい教師ほど、生徒を無条件に信頼しているものだ。


 ドアの向こうに、足音が現れる。エリさん、と俺が呼ぶと、上司は静かに頷いた。


「ごめんね、荒木さん。エメラルドの海や光るオーロラのことでも考えていれば、少しはマシなはずだから」


 抑揚のない声に重なって、足音が大きくなる。






「お、エリ。今日も可愛いね」


 部屋に入ってきた若い女が、エリに馴れ馴れしく呼びかける。爬虫類のような両目が、相変わらずいやらしく笑っていた。エリも柔らかく微笑み返す。荒木と俺は仲良く蚊帳の外だ。


「おかえりなさい、石野さん。私もちょうど返ってきたところなんです」


「へぇ! そりゃあ運がいい。これから晩飯でも奢ってあげようか」


「ありがとうございます。でも、今日は……」


 エリは言葉を濁し、床に横たわる荒木に視線を落とした。荒木はハッと顔を上げてから、逃げるように俯く。石野はヒュウと口笛を吹いた。


「まさかこれ、例のヤクザのとこの?」


「はい。でも、私じゃなくて彼が連れてきたみたい」


 指を差され、俺は辛うじて口角を上げた。石野は俺を見るなり顔から感情を消し、ああ、とつまらなそうな声を漏らす。腹の立つ女だ。


 エリには劣るものの石野もそれなりの美女だが、顔面の美しさよりも内面の汚らしさのほうが際立っている。グループのボスとして十分に残酷であることは間違いないが。


「そうだね。今日はこいつの面倒みてやんなきゃならないか」


 石野は真っ黒なショートヘアをかき上げる。


「ごめんねエリ、食事はまた今度。そのときにはまた服でもコスメでも買ってあげるから」


「ええ。そのときにはぜひ」


 小さく頭を下げると、エリはそのままこの場を去った。石野と荒木、そして俺が残された部屋には、重苦しく冷たい沈黙が広がっている。


「……で、こいつは?」


 石野が、今までよりも数トーン低い声を発する。俺はこれ以上彼女の機嫌を損なわないよう、間を置かずに答えた。荒木の縋るような視線が俺を刺す。哀れな男だ。


「荒木康之。組の中堅で、うちとのことも聞いてたらしいです」


「こいつを攫っても、うちに害はないんだろうね」


「こいつ一人消えたところで、向こうがわざわざ報復にくることはないでしょう」


「ふぅん」


 石野は鼻を鳴らし、荒木の前にしゃがみ込んだ。荒木は血の気の引いた顔で目を見開いている。


「それで……アンタらの上司は何て?」


 ドスのきいた問いに、荒木は唇を震わせるばかりだった。無理もない。彼の上司は学年主任やら教頭やら校長やらなのであって、ヤクザの幹部なんかではないのだから。

 俺の肝が冷えると同時に、パン、と乾いた音が部屋に響く。石野が荒木の頬を張ったのだ。


「こういうときは早く答えなきゃ駄目でしょ。こっちもね、いつまでもアンタの相手してられないんだから」


「わ、私は何も知らない」


 石野の目尻がつり上がる。弱々しく唇を歪ませながら、荒木はなおも主張した。


「本当だ。何も知らない。私は、ヤクザの一員ではないんだ」


「ふざけるんじゃないよ」


 怒気をはらんだ声のあと、荒木の髪が乱暴に掴まれ、頭ごと持ち上げられる。


 俺も、おそらくエリも、荒木が真実を語ることには何の恐れも抱いていなかった。グループと自分自身の存亡をかけた情報戦の前に、石野は決して冷静になれない。


「あのさぁオッサン、そんな程度の低い嘘であたしが騙せると思ってんの? それとも時間稼ぎするつもり?」


「違う! 私は本当に」


「もういい」


 そう言い放つと、石野は荒木の顔を床に叩きつけた。鈍い音に続いて、鼻にかかった呻き声が俺の鼓膜を震わす。のたうち回る荒木をよそに、石野は俺を振り返った。


「道具。早く」


「はい」


 俺は頷き、部屋の隅のスチール棚から工具箱を手に取った。板も、と指示を加えられ、棚に立てかけられた鉄板も抱える。今までにもこういう場面は何度かあったが、今回は特に展開が速い。それだけ焦っているということだろう。あまり早くに飽きられても困るが、今はまだ様子見だ。


 工具箱を手渡し、足元に鉄板を置く。石野は俺を見ることもなく、慣れた手つきで工具箱を開いた。


「あたしらとしてもさ、こんなことさっさと終わらせてあげたいわけだよ。そういう親切心くらいはあるからね」


 石野は荒木に体育座りをさせると、両の靴と靴下を脱がせ、素足を鉄板に載せた。荒木は割れた眼鏡の破片を目の周りに食い込ませ、鼻血をワイシャツにぼとぼと落としたまま、へろへろとした抵抗を試みている。身体をひねって足をずらそうとするので、すかさず俺が押さえつけた。


「だからね? 質問には素早く、ちゃあんと答えてくれなくちゃ。アンタのことを駒としか思ってないような組のお偉いよりも、自分の身のほうがずっと大事でしょ」


 工具箱からゴムハンマーが取り出される。荒木の顔がはっきりと強張った。俺は思わず首をすくめる。


「さぁ、荒木サン」


 指で器用にハンマーを回し、石野は下品な笑顔を見せた。


「アンタの組は、あたしたちを、どうしようとしてるのかな?」


 ゆっくりと、一音一音を耳に貼りつかせるような口調だった。荒木は青ざめた顔で口をぱくぱくと動かし、それから小さく、しかしはっきりと言った。


「知らない」


 い、の発音の寸前、鋭い風が起こった。ゴギャ、と何かが砕ける音に、荒木の短い悲鳴が重なる。石野が音もなくハンマーを上げると、醜く潰れた右足の親指があらわになった。爪が割れ、妙な方向に頼りなく曲がった親指は、硬い鉄板の上で青く腫れている。こういうのは多少見慣れているが、それでもあまり気分のいいものではなかった。


「つまんない意地を張るからだよ。ほら、痛がってる暇なんかないよ。もう一回訊くから答えな。アンタらはうちをどうするつもりなの?」


 喘ぐ荒木に、石野は抑揚なく問いかける。かわいそうな捕虜はヒュウヒュウと呼吸を続けながら、か細く上擦った声で繰り返した。


「し、知らない、本当に知らないんだ」


 舌打ちと同時に、また同じ風が起こる。さっきよりも高い悲鳴が響き、今度は左足の親指が潰される。

 俺は荒木を見た。血にまみれ、苦痛に歪み、急に老け込んだようになった顔。しかし涙のたまった両目にはまだ、抵抗の意志と強い正義感が宿っているようにも見えた。


「呆れた……今日はちょっと頭冷やしなよ。また明日来るから」


 そう言うと、石野は工具箱にハンマーを投げ入れた。エリを食事にでも誘い直すのだろう、スマートフォンを操作しながら、「そいつ見といてね」と指示を飛ばしてくる。


 俺は荒木の瞳を横目に見ながら、工具箱の蓋を閉めた。






 それからずっと、荒木は一言も話さなかった。俺が鼻血を拭ってやるときも、レンズの破片を取り除いてやるときも、ずっとだ。時折外から聞こえてくる酔っぱらいの声なんかには反応したが、それも窓のほうへ首を回してみせるくらいで、大した動きは見せなかった。部屋の真ん中で、使い物にならなくなった足の指を見つめながら、ただただ静かに座っている。


 かといって、彼はこの状況を諦めているふうでもなかった。足の親指を動かそうとして小さく呻くことが何度かあったのだ。その声には、はっきりとした悔しさが含まれているように思えた。諦めに想像力を支配された奴には、あんな呻き声は発せないだろう。


 できることならこの足で立ち上がり、そこの若造を張り倒してでもこの部屋を出ていきたい……荒木の表情からはそういう思いが見て取れた。その賢い頭ではきっと、いくつもの脱出計画を組み立てていたに違いない。今まで立ててきた学習計画や授業計画と同じような、意外性にも面白味にも欠ける計画を。


 そんなこんなで俺が十二回目のあくびを済ませたとき、部屋のドアが静かに開いた。俺はハッと体勢を整え、ドアの向こうにガンを飛ばしたが、そこに立っていたのはエリだった。彼女は数時間前と同じ服装で同じような無表情だったが、その手には武骨な手提げ金庫がある。


「エリさん。どうしたんですか」


「荒木さんと話しに来たの」


 俺の質問に素っ気なく答え、エリは荒木に近づいた。荒木は大人しく座り込んだまま、睨むように視線を上げる。


「あぁ。案外軽く済んだんだね」


 荒木の顔と足を見て、エリが呟く。何か言いたげに口を開いた荒木を無視して、彼女は言葉を繋げた。蒸し暑い部屋に不似合いな涼しい声だ。


「どうだった? 海やオーロラは見えた?」


「そんなこと、考える余裕もなかった」


 荒木は吐き捨てるように答えた。「そう」とだけ返し、エリは手提げ金庫のダイヤルをゆっくりと回す。


 俺も荒木も、彼女の手元を黙って見つめることしかできなかった。エリが何の目的でここに現れたのか、金庫に何を隠しているのか、俺たちにはまるで見当もつかない。荒木に報酬でもやるのかと俺は一瞬考えたが、エリがそんな親切な女だとは思えなかった。そもそも、こんな状況で金を渡されたって使う時間も自由もない。


 横目で荒木の様子を窺うと、彼はぐるぐると唸る犬のように歯を食いしばっていた。金庫から拳銃が飛び出してくるとでも思っているのかもしれない。


「ほら、荒木さん」


 ガチャ、とロックの外れる音がして、金庫が開かれる。俺は首を伸ばして、荒木は顎を引きつつ、黒い箱の中身を見る。


 そこにあったのは、札束でも金塊でも拳銃や爆弾でもなく、白くやわらかな、一輪の花だった。ワイングラスに似た形の、少し幼稚にも見える花。


「チューリップ?」


 思わず声が出る。花から三センチほどのところで茎を切られたチューリップが、飾り気のない金庫の中に横たわっている。


 殺風景な部屋と、武骨な金庫と、二人のヤクザと、足の指を潰された中年男と、真っ白なチューリップ。前触れもなく現れた明らかな異物に、俺は目が回りそうだった。


「どういうことだ」


 荒木も困惑を隠せない様子だ。チューリップをじっと眺めてから、宇宙人でも見るようにエリを見上げる。エリは短い茎を摘まんで花を取り出すと、何でもない顔でのたまった。


「綺麗なものを見ると、自分の心まで綺麗になった気がするでしょ?」


「……これを慰めにしろと?」


「だって素敵でしょ、チューリップって。妖精の家みたいで、これの前にいる自分がボロボロなわけがないって思うはずだよ」


 そう言うと、エリはチューリップにそっとキスをしてみせた。それから、「きみも」と荒木の口元に差し出す。荒木は尻でじりじりと後ずさったが、その動きを追うようにチューリップも近づいた。


「そんなに怖がらないで。毒を塗ったりなんかしていないから」


「しかし、なぜ君が私を慰めるのかが分からない」


「そんなの決まってるじゃない」


 そう言うと、エリはにっこりと微笑んだ。俺は息を吞む。


 黒ずんだ壁を背景にした笑顔は、目の形から唇の曲線、眉の角度までが完璧に整えられた……まるで、絵画のような笑顔だった。ピンク色の唇が、開く。


「きみが頑張ってくれたから」


 背筋が冷たくなった。荒木に視線を移すと、彼はぽかんと口を開けてエリに見入っている。数秒後にはハッと我に返ったようだが、エリを睨み直した瞳には、今までとは違う不自然な輝きが宿っていた。


「ほら。キスをして」


 エリがチューリップを優しく近づける。荒木はしばらく唇をわななかせてから、躊躇うような動作で花に口づけた。


「これでいいのか」


「うん。大切にしまっておくね」


 エリは見せつけるように花弁を撫で、金庫にチューリップを戻した。荒木はそれをぼうっと眺めながら、少しだけ芯を取り戻した声で訊く。


「なぜ、金庫なんだ」


 手早くロックをかけ、エリが顔を上げる。そこから笑みは消えていたが、部屋に入ってきたときよりもいくらか柔和な表情だった。


「これは、きみの大切な救いだからね。お金や宝石と同じくらい、しっかりと守ってあげなくちゃいけないでしょ」


 エリを見上げる荒木の両目に、さっきのような力は籠っていなかった。






 あとは同じようなことの繰り返しだった。毎日昼過ぎに石野がやってきて、荒木を拷問にかけて去って行く。夜にはエリがやってきて、白いチューリップに口づけさせる。


 俺はほとんどの時間この部屋にいて、荒木に食事を与えつつ怪我の手当てをした。荒木を死なせないための重要な役割だが、これだけなら楽な仕事ではある。

 とはいえ、そうそうお気楽な気分にもなれなかった。たまにグループのメンバーと交代して家に帰れても、エリが来る時間までにはビルに戻らなければならない。そのうえ、荒木の素性やエリの行いを知られないよう気を配ることも必要だ。


 しかし最もつらいのは、石野の暴走と荒木の憔悴を目の前で見続けなければならないことだった。振り返るとこうだ。


「知らない」荒木が言うと、石野はその頬を殴りつけ、倒れた腹を爪先で何度も蹴った。荒木の頬と腹には大きな痣が残り、それをエリが優しく撫でながら金庫を開いた。金庫の中にはしおれた最初のチューリップと、新しい真っ白なチューリップが入っていた。二人は真っ白なほうにキスをして、金庫のチューリップが増えた。


「私は一介の教師だ」荒木が告白すると、石野は手にしたニッパーを強く握った。荒木の右手の小指は飛び、俺は止血に追われた。現れたエリを荒木は睨みつけたが、エリは荒木を抱きしめて微笑んだ。チューリップが増えた。


「もうやめてくれ」荒木が懇願すると、石野は荒木の髪にライターを近づけた。火はすぐに消されたが、怯える荒木の顔を見て石野は大笑いしていた。エリは縮れた髪を優しく撫でてやり、荒木はその時間を泣きそうな目で受け入れた。チューリップが増えた。


「知っている」荒木がついに嘘を吐くと、石野は詳しい情報を求めた。途中までは流暢な説明が続いたが、深く突っ込まれると途端に言葉が続かなくなった。石野に呼ばれた数人が部屋に押し寄せ、荒木を好き勝手にいたぶる様を俺は見ていた。無造作に踵を振り下ろす石野の頬はわずかに紅潮していた。その夜、姿を見せたエリの名を荒木は小さく呼んだ。チューリップが増えた。


 荒木は何も言わなくなった。対照的に石野は饒舌だった。荒木の耳元で脅迫の文句や罵詈雑言を吐き散らかし、荒木の頬が引きつるのを見ては愉快そうに笑った。グループの売人五名をどこぞに埋めたという報告を、俺は前の晩に聞いていた。もはやこの拷問に意味はないように思えたが、石野はこの時間に固執していた。荒木は殴られ、折られ、火傷を負わされては水に顔を沈められ、両手の指を三本ずつにされた。


 痩せ細り、傷だらけになった彼の姿はまるで見るに堪えなかったが、毎夜現れるエリは嫌悪感ひとつ見せなかった。荒木は彼女の前でだけ顔を上げ、弱々しい声を発するようになった。金庫の中にはしおれた花が絨毯のように敷き詰められ、それらを踏みにじるように、美しく艶めく真新しいチューリップがその身を輝かせていた。






 そして、それは今夜も同じだ。エリが開いた手提げ金庫には、真っ白なチューリップが大人しく収まっている。俺はもうこの光景に飽き飽きしていた。ボロボロの中年男と得体の知れない美女がチューリップにキスしあうシーンなんて、映画の中でだってクサすぎる。

 穏やかな表情の荒木を横目に鼻をほじっていると、安っぽい着信音が耳に飛び込んできた。


「あぁ、ごめんなさい。すぐに済ませるから」


 どうやらエリに連絡が入ったらしい。彼女は荒木の頭を優しく撫でると、早足に部屋の隅へ向かう。


 エリが背を向けた瞬間、荒木の目が大きくなるのが分かった。その瞳には、蛍光灯の光が白く反射している。彼は苦しげに歯を食いしばりながらも、素早く金庫に背を向けた。俺が咎める間もなく、縛られた手でしおれた花弁を一枚ちぎり取る。エリが荒木に目を上げる頃にはさっきまでの体勢を取り戻し、ちぎった花弁を愛おしそうに指で撫でていた。身体じゅう傷だらけの男とは思えない、機敏な動きだ。


 俺があっけにとられている間にエリの通話は終わり、いつも通りの退屈なシーンに移った。部屋を出るその時まで、エリは荒木の手の中に気づいていなかった。


「おい」


 ハイヒールの足音が遠ざかるのを確認してから、俺は荒木に声をかけた。荒木はびくりと肩を震わせ、怯えた目で俺を睨む。俺は睨み返す気も起こらないまま、荒木の前に腰を下ろした。俺が攫ってきたのは、こんな幼稚な反抗心を見せる男ではなかったはずだが。


「見てたぜ。花びらを取っただろ。返せよ」


「……これはお前のものじゃない」


 荒木の声は震えていた。彼にとっての俺は石野ほど恐ろしい存在ではないだろうが、かといって好ましい相手でもないだろう。世話をしてやってるとはいえ、俺が彼を拉致しなければこんなことにはならなかったのだから。


「じゃあ、渡せよ。それがあの鬼畜女に見つかったらあんた、どうなるか分かんねぇぞ」


「どうなってもいい」


「そんな……」


 たかが花びら一枚のために、とはさすがに言えなかった。荒木にとってその花びらがどれだけの意味を持つかは何となく理解できたし、下手に怒らせて暴れられても厄介だ。そう考えると無理やり奪い取ることもできず、俺は説得の言葉を探すしかなかった。


「だから、分かんねぇかな。あんたに少しでも自由があるってバレたら、あいつはそれを理由にもっとあんたを痛めつけるかもしれないんだよ。で、そうするとあんたはいよいよ死んじまうかもしれなくて、そしたら……そう、エリが困るぜ。あんたの大好きなエリが」


「それでもいい」


「いや、いいわけねぇだろうが。あんだけ懐いといて、恩を仇で返すつもりか?」


「そうなってもいい。私が死ぬ間際まで、彼女が私の救いであってくれるなら、残された彼女がどうなろうと」


 ボソボソと話す荒木の唇は、渇ききってヒビだらけだった。俺は自分の顔が不機嫌に歪むのを感じながら、焦りを逃がすためにひとつ息を吐く。


「なぁ、先生。あんたも生徒に教えただろ、『自分勝手な行動は慎みましょう』ってよ。あんたの持ってるそれのせいで、他のたくさんの人が困るかもしれないんだぜ」


「生徒に教えたことなんて、もう覚えていない」


「あのなぁ」


「生徒たちも」荒木は俺の言葉を遮った。「私の教えたことなんて、覚えていないだろう」


 そんなことないと思うよ、とフォローを入れてみたものの、それに何の意味もないことは明らかだった。クソ真面目な教師の垂れ流すご高説なんて、生徒の心には大抵残らないものだ。実際この俺だって、四角四面な教師の言葉なんかひとつたりとも覚えちゃいない。それに何より、この教師は生徒に裏切られてここにいるのだった。


「彼女と、この花だけだ」


 踏みつけられた枯れ葉のような声で、荒木は言う。


「今はそれだけが、私の救いなんだ」


 俺はもう、どんな言葉も思いつけなかった。この男に何を言っても無駄なのだと、それだけが直感的に分かった。


 こいつはあのみすぼらしい花びらを、しがみついてでも離さないだろう。過去の努力にも未来の希望にも縋れない彼を支えられるものは、もうそれしかないのだ。


「分かったよ」


 言うと、荒木は潤んだ目で俺を見上げる。俺はその表情を哀れに思いながら、手のひらを差し出した。


「お前のポケットに入れといてやる。ただし、俺以外の奴が来てる間は絶対に取り出すなよ」


「本当だろうな」


「嘘つくのはもう疲れた」


 俺を上から下まで眺めまわしてから、荒木はゆっくりとこちらに背を向けた。俺は指の足りない手から花弁を受け取り、ズボンの尻ポケットに突っ込んでやる。指先でそれをしつこく確かめると、惨めな男は安堵したように呟いた。


「ありがとう」


「……おう」


 こいつに礼を言われた自分が、やけにむなしく感じられた。






 翌日、石野は何も言わずに部屋に入ってきた。乱暴にドアを開け、威圧的な足音とともに荒木に近づいて、黙って一発頬を殴る。それからやっと口を開く。


「やあ、今日も元気そうだね」


 ひどい台詞だが、荒木は反応を示さない。殴られたままの顔の角度で、次の一撃をじっと待っている。


「ねぇ、たまには何か言ったら? ぬいぐるみを殴るだけじゃ、いい加減飽きてきちゃうんだけど」


 石野は荒木の胸ぐらを掴み、そのまま壁に叩きつける。荒木はぐっと声を漏らし、ずりずりと壁から滑り落ちた。慣れたはずの痛みにも身体を縮こまらせてしまう姿は、人間の生の美しさを象徴しているようにさえ見えてくる。俺も頭がどうにかなってきているらしい。


 荒木の顔に、石野のスニーカーがめり込む。「聞いてよ荒木サン。さっきさぁ、ガム踏んづけちゃって」道に吐き捨てるなんて最低だよね、と爪先を頬にこすりつけ、離す。荒木の頬には黒く変色したガムが貼りついていた。


「さて、今日はどうしよっかなぁ」


 その言葉を合図に、俺はスチール棚へ向かう。工具箱を手にして戻ると、石野はニヤニヤと笑いながら受け取った。鼻歌混じりに箱を開き、ノミやドライバーやスパナをわざと荒木に見せつけながら道具を選ぶ。間延びした時間がしばらく続き、やがて石野の手が止まった。


「あ、原点回帰といこうか」


 取り出されたのは、かつて荒木の足の指を潰したゴムハンマーだった。荒木の肩が僅かに跳ねる。石野は荒木を仰向けに引き倒すと、ハンマーをそっと彼の肩に当てた。


「どこがいいかな? ね、荒木サン。肩か、腕か、手か、太腿か……」


 ねばつく声に合わせて、ハンマーが音もなく移動する。荒木は胸を上下させ、すぅすぅと震えた呼吸を続けていた。石野はハンマーをで荒木の身体を撫でまわし、左足の脛までぴたりと止めた。


「うん、ここにしよう。どうせもう歩けないんだし、ここの骨くらい構わないよね?」


 嬉しそうに言い、荒木の顔を覗きこむ。荒木は頬をぴくりと強張らせ、覚悟を決めるようにもぞもぞと身体を動かした。石野はクスクス笑いながら、脛を軽く叩いて狙いを定めている。部屋の蛍光灯がチカチカと細かく点滅する。


 すぅ、と息を吐き、荒木が目を閉じた。ハンマーが高く振り上げられ、俺はその後に続く聞き苦しい音と悲鳴を想像し、


「うーん、やっぱりやめた」


 石野の声を聞く。彼女はハンマーを下げて荒木の肩を掴むと、そのまま彼をぐるりとうつ伏せにした。


「せっかくならもっとドカンと、背骨くらいは折ってやらなくちゃね」びちびちと身体をのけ反らせる荒木を押さえつけ、再びハンマーを振り上げる。その赤くなった頬には恍惚とした笑みが浮かんでいたが、次の瞬間、表情が消えた。


「あ?」


 自分の血が一瞬にして凍るのを、俺は感じた。


 荒木の手には、昨日のしおれた花弁が、あまりにもしっかりと握られていた。


「……なに、これ」


 ハンマーを放り投げ、石野は花びらを奪い取る。やめろ、という荒木の叫びは、彼女の耳にはまるで届いていなかった。俺は冷たくなった自分の指を握り込んで、音を立てないように深呼吸した。


 やはり、荒木は耐えられなかったのだ。恐怖に耐えられず、ポケットから花びらを取り出してしまったに違いない。それは仰向けに倒された後だろう。背中で手を縛られた状態ならバレることはないと、油断して……。


 クソが、と怒鳴りたくなるのを必死に堪える。石野はエリがここを訪れていると知らない。荒木とずっと一緒にいたのは、そう思われているのはこの俺だけだ。いや、俺以外の仕業だと弁解しても、見張り役の俺に責任が問われることはどのみち間違いない。

 クソ、どうしてこんな男のせいで俺が、どうしてあんな女のために俺が、どうして、組なんかのために。


「どういうこと」


 石野の低い声が響く。俺は慌てて背筋を伸ばしたが、彼女が睨みつけているのは俺ではなく、手の中の花びらだった。いや待て、それでも凄まれているのは俺かもしれない。息を吸い、申し訳ありません、の「も」を口に出すと同時に、石野の声が震える。


「エリの口紅だ」


 は、と思わず息がかすれた。口紅? 俺が気づかなかっただけで、花弁にそんなものが残っていたのか。しかしどうしてエリのものだと分かる? ブツブツと、石野の独り言が続く。


「シャネルのアリュール、九十番……あたしがエリにあげたやつ。なんで? なんでこんなところに……なんで」


 石野は再び荒木を仰向けにさせると、馬乗りになって荒木の首を掴んだ。


「なんでお前が持ってるんだよ」


 俺は唾を飲み、黙った。口紅の色だけでブランドやシリーズを言い当てることなど、普通ならそうそうできないだろう。それはエリのものではないかもしれないとか、一度冷静になってくださいとか、そうフォローを入れることならいくらでもできる。しかしもう、それをする意味は感じられなかった。どのみち石野は止まらない。止めようとすれば、俺が被害を被るだけだ。


 石野の視線がこちらに向かないことを確かめながら、俺はズボンからスマートフォンを取り出した。一言だけ、メッセージを送る。


「これは何? 何かの花? ねぇ答えてよ荒木サン、こんなところに花が咲いてる? エリがここに来たの? アンタに何をしたの? 答えろよ、アンタ、何者?」


 石野が上擦った声で荒木を問い詰める。しかし荒木は青い顔で彼女を睨んだまま、口を開こうとさえしない。石野は苛立ちを露わにして唸ると荒木の頭を床に四回叩きつけ、立ち上がって勢い任せに股間を踏みつけた。犬の鳴き声のような悲鳴とともに、荒木の顔から一気に汗が噴き出す。


 もはや言葉はなかった。石野は花びらを放り捨て再びハンマーを手にすると、荒木の脛めがけて躊躇なく振り下ろした。ゴ、と骨の折れる音がして、俺の想像通りの絶叫が耳に突き刺さる。


 石野は息を弾ませながら、痙攣する荒木の目の前でペンチを取り出した。左手の爪を挟み、一気に剥がす。荒木は嗄れた喉から叫び声をひりだすと、うっとえずいて胃の中のものを吐き出した。俺が朝に与えた塩むすびだ。


 石野はときどき声にならない声を上げながら、荒木の爪を剥いでいく。髪をふり乱す横顔からは、彼女が何かを理解したことが見て取れた。荒木とエリの繋がり、エリと組の繋がり……どこまでを正確に把握したかは分からないが、自分が裏切られたということははっきりと分かっているだろう。俺の存在など気にも留めない様子でペンチを握る手は、ほんのわずかに震えていた。


 一方で、荒木はどんどん動かなくなっていく。悲鳴をあげる体力さえ失った身体はそれこそぬいぐるみのようになり、ときどき隙間風のような息を漏らすばかりだ。虚ろな目で天井を見上げる顔には、ガムと吐瀉物がへばりついている。


 ひとしきり爪を剥がすと、石野は血まみれのペンチを荒木の腹に叩きつけた。それから工具箱を漁り、今度は錐を取り出す。荒木はペンチの衝撃で老人のように噎せていたが、左胸に錐を突きつけられるとヒュ、と息を呑んで静かになった。


「荒木サン」


 石野が呼ぶと、荒木の唇がぎこちなく開いた。返答を待たず、石野は短く言い放つ。


「アンタ、死なないと駄目だよ」


 錐の先が、荒木のシャツを突き破る。その直前で、石野の手は動かなくなった。痩せた、爪のない指が、彼女の手首に巻きついている。


「どういうつもり」


「返せ」


 潤いを失った高い声が、石野の声に重なる。指先に溢れる血が泡のように膨らみ、弾ける。


「花を、返せ」


 荒木の目から、子供のような涙が流れ落ちる。そして、それと同時に、一発の銃声が部屋に響いた。


 石野の身体がぐらりと揺れ、倒れる。


「もっとちゃんとした計画を、上の人たちが考えてたんだけど」


 ドアの方向から、涼やかな声が聞こえてくる。首を回すと、エリが構えたピストルをゆっくりと下に向けていた。ひどいにおい、と鼻を押さえながら、彼女は俺に歩み寄ってくる。


「メッセージありがとう。ご苦労さま」


「いえ、すぐ来てくださって助かりました……あの人が」


 俺が荒木に視線を移すと、エリは「ああ」と彼に近づいた。荒木の上には、こめかみを撃ち抜かれた石野が濁った両目を見開いている。石野の血は荒木の血を呑みこみながら広がって、鉄くさいにおいを辺りにまき散らしていた。


「あ、気絶してる」

 ハイヒールの爪先で荒木の額をつつきながら、エリが呟いた。死んでるんじゃないですか、と俺が尋ねると、さぁね、と首を傾げた。


「どっちにしろ、もう長くは生きられないだろうから。ここに置いておいていいでしょう」


「捨てていくんですか」


「拾っていく意味がある?」


 無表情のまま、エリは荒木から離れる。ドアに向かう途中でチューリップの花びらを踏みつけたが、彼女は気づいていない様子だった。俺はそのあとに続く。


「あのチューリップ、結局なんだったんですか」


「心の支えくらい作ってあげないと、時間稼ぎにもならずに逃げ出しちゃうから」


「俺の信用、全然なかったんですね……」


 当たり前でしょ、という声を背に、俺はドアノブに手をかける。細くなっていくドアの隙間からは、ちょうど荒木の姿が見えた。


 あの男は、あとどれだけの間生きていられるのだろう。そのわずかな間に何を考え、何を見ながら最期の瞬間を迎えるのだろう。それとも、もう二度と目を覚ますこともないのだろうか。


 ……どうでもいいか。


 ドアを閉める瞬間、しばらく白のチューリップは見たくないな、と思った。






「おい、おせぇぞお前ら」

「悪い悪い。こいつが途中でパンなんか買うからよ」

「違ぇよ。お前が寝坊してきたんだろ」

「はいはい。だからお前らはいつまでも下っ端なんだっつの」

「何だよ、大塚のくせに偉そうに。あ、そういや途中さ、あの中学の前通ったぜ」

「あ? 中学?」

「ほらあれだよ、二年くらい前。一緒にあそこの先公ラチったろ?」

「あぁ。あったな、そんなことも」

「あいつ結局どうなったんだ? 海にでも沈めたのか?」

「わざわざそんなことするかよ。まぁ、さすがに死んでるだろうけどな」

「まだ生きてて、どっかですれ違ってたらどうする?」

「さぁな。別にそれでもいいよ。……もう顔も覚えてねぇしな」



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