悪魔がシスターを好きすぎる
世界には三つの聖杯が存在する。それらは隠され、守られ、神の象徴として信奉されてる。
そして、全てを集めたものは神がどんな願いもかなえてくれると、人々の間に伝えられていたのだった。
カソックに身を包んだ青年が街を歩く。背には棺を背負い、首に十字架のペンダントを下げている。サファイアの様に青く美しい瞳、陶磁器の様に白くなめらかな肌、黒曜石の様に煌めく美しい黒髪は短く揃えられ風にさらさらと揺れていた。通行人が振り向き、見惚れるほどの美青年であったが、彼はそれらを歯牙にもかけず、宿屋を探しあたりを見渡す。そして、見つけた休息所に安堵の笑みを浮かべるのであった。
受付で代金を支払い、宿の二階に上り借りた部屋へ入る。家具はシーツがかぶせられただけの固いベット、木の机と、荷物入れにも椅子にもなりそうな木箱が一つだけだった。建物自体も木造の簡易な作りで、隙間風が吹くボロ宿だった。しかし青年は気にしたようなそぶりも見せず、背負っていた棺を大事そうに抱え床に下した。そして自分は、眠れば体の節々が痛くなりそうなベットへ横になり、夜までの時間を待った。
青年の名はベレトといい、聖杯を求めて旅をする巡礼者だった。その正体は悪魔であったが、未だ悪魔としての自覚が生まれていない幼少の頃、教会のシスターに恋をしたことが原因で天使に憧れ始めた。彼は将来憤怒を司る権威ある悪魔になるよう生み出されていたが、一途な恋がその道を外させた。毎日神に祈り、信仰を捧げ、400年もの間天使になることを夢見ていたある日、彼は聖杯を集めることを思いついた。聖杯が三つそろえば、神が願いを叶えてくださると現世では伝えられていた。つまり、杯が集えば神がその場に顕現するのではないかとベレトは考えた。神に会い、直接進言すれば聞き入れてくださるかもしれない。そう想像した。そうして、ベレトはシスターと共に過ごした教会を出て、世界を旅するようになった。
今回ベレトが訪れたこの地は聖杯の伝承の発祥とされており、今は無人となった町の中心の教会は聖杯伝説と密接にかかわっていた。伝承によると、強欲な人間が不老不死を願い聖杯に触れたところ、本当に死なない体になったという。しかし、多くの罪を犯していたその人間は町の人間に吊るされ、火あぶりに責められ、最後は生きたまま土に埋められたらしい。その罪人が土から這い出ないよう天使様に監視してもらうため、死体は教会の墓地に埋められた。だから街の教会は信仰の対象になれど、不死に身をやつした罪人の復活を恐れて町の人間は教会に近づかなかった。また伝承の影響が根強く、葬式の形式は火葬から海へ灰をばら撒くのが公然の葬儀だが、罪人だけは土葬とされ、かの教会の地に埋められると聞いていたのだった。
夕刻、ベレトは教会の墓地へとやってきた。教会の壁には多少のヒビや欠けも見られるが、無人であるわりには壁にくすみは見当たらず、建物内も蜘蛛の巣一つなかった。神の石像を囲むステンドグラスは美しく夕日を様々な色に変えて屋内へ届ける。教会を訪問したベレトは桃色と紫色の夕日に照らされながら屋内を見渡す。誰の仕業か分からないが、清潔感のある内装だった。調度品は少なく木の長椅子は中央のレッドカーペットを挟み三列づつべられていた。訪れたベレトはまず神の石像の前で跪き祝詞を唱え祈りをささげる。棺はベンチに立てかけられ、同様に神へ祈りをするように彼の隣に並んだ。
「天におわす我らが主よ。希望は救いと、絶望は罰と受けましょう。我ら命果てるまで、主の与えられた試練を乗り越え続けることを誓います」
ベレトが唱え終わった瞬間、空の色は急激に暗くなった。橙色の空は夜の漆黒が飲み込むように染め上げられていく。遠くでオオカミが吠える音が聞こえ、それは教会の墓地に住む怪物への威嚇のようだった。ベレトは顔上げその青い瞳に月明かりを写した。そして、窓の外をのぞくと、人間の死体が墓場から這い出ようとする姿が見えた。
彼らは伝承通り永遠の生を手に入れ死ねなくなった者たちだろう。ベレトの祈りに呼応し復活したのだ。彼らは駆逐すべきモンスターへと変質し、人としての尊厳を失った。
地獄にでも就職すれば「アンデッド」という種族に分類され、存在を否定される必要もないのだが。
「どう思う、シスター?」
棺の蓋を開け、棺桶の中にいたアンデッドにベレトは微笑んだ。
ベレトは「ネクロマンス」の技術を持っていた。死んだシスターの肉体を常に持ち歩き、棺に入れて保存していた。ベレトはネクロマンサーではなかったが、他の悪魔にお願いして死者蘇生の魔法を教わった。曲がりなりにも上級悪魔だったベレトは、魔力が豊富で繊細なコントロール力も備わっていた。専門外の魔法も難なくできるようになった。
下手なネクロマンサーが死体を動かせば体の腐敗を悪化させたり、腐敗の進行を止めることができなかったりする。しかしベレトの死体保存能力は素晴らしく、没後400年を迎えたシスターの体は一切腐ることなく存在している。そこらのネクロマンサーよりずっと優れた技術を持っていた。なにせベレトはシスターのことが大好きだったため、シスターに尽くそうと懸命だった。死体は腐らせたくないし、棺の寝心地は良くしてあげたい。そうやってネクロマンス魔法を磨き続けた結果、悪魔界でも屈指のネクロマンサーになった。
魂が宿っていないため、シスターの死体は当然ただの肉人形である。しかし、ベレトにとっては大切な人に変わりない。ベレトはシスターの生前を思い出しながら見えぬ糸を繰り伸ばし、シスターは本物のようにベレトを可愛がる。冷たい手を伸ばしベレトの頬を両手で包んだり、頭を撫でたり、一晩中おしゃべりすることもある。その動きはとても死者には見えなかった。
シスターはカツリと黒いヒールを鳴らし棺から降り立った。腰ほどの長い黒髪がゆったりと揺れ、俯き隠れていた表情が現れる。瞳はペレトと同じ青く、しかし白目の部分は底の見えない漆黒だった。肌は不健康な真っ白さで、血が通っていないことがわかる。彼女を人たらしめているのはその表情豊かな顔だけだった。
「現世に囚われた哀れな魂。その鎖を砕いてあげましょう」
罪人たちを憐れみそういって微笑んだシスターに、ベレトは頷きポシェットから聖水を用意した。片手で収まるほどの小さな瓶に、神前で清めた少量の水が入っている。量は少ないが、純度が高いため効果は絶大である。
二人は教会墓地の門の前に来た。シスターはスリットからダガーナイフを取り出し両手に二本ずつ構えた。ベレトは門の外の安全地帯でシスターを応援することに専念する。もしもゾンビがこちらに来たなら聖水をかけて祈ればある程度の時間稼ぎができる。ベレトが悪魔でなければ、彼らはそのまま成仏はできただろうが。
鉄格子でできた扉を開き、シスターが墓地の中に足を踏み入れた。
何十体という数のゾンビが墓地の中を徘徊している。さらに墓石をどかし墓から腕を伸ばす人間の死体がいくつも見えた。まだ増えるつもりなのだろう。ずるりと上半身から這い出て、下半身を土のなかに置いていくやつらもいる。とことこと手だけが地面を歩いている。眼球のない骸骨が手を伸ばしふらふら墓地をさまよっていた。
町の人の噂通りなら生き返えったゾンビたちはほとんどが罪人なのだろう。情状酌量の余地なく地獄へ堕とされる。
「神のみもとへ帰らず、醜くも肉体に執着する愚か者たちよ。シスターと僕がその魂をあるべき場所に還そう」
シスターが目の前のゾンビを斬った。飛び散ったのは薄茶色のドロドロした腐敗した血肉と土が混ざった液体だ。斬られたゾンビは「キシャァアアア」と叫び声をあげて、シスターに反撃をしようとした。シスターを殴ろうと振り上げた腕は、しかし振り下ろす前にシスターが切り飛ばす。ゾンビが挙げた悲鳴に他の死体も反応し、シスターを排除しようと動き始めた。
「我が身を贄に力を授けたまえ、天使アズライール!」
べレトが詠唱するとシスターの足元に魔法陣が一瞬浮かび、彼女の体を淡い青色の炎が包んだ。その炎はシスターが持つダガーへと収束していき、魔法剣へと進化させた。シスターは一瞬こちらをみて礼を言うように微笑んだが、すぐにゾンビたちに向き直りその群れに突っ込んでいった。魔法剣の威力とシスターの剣術で敵は次々と葬り去られ、あっという間に全てのゾンビが一掃された。シスターに弔われた死者たちは肉体が灰になり風になびかれ大気へと溶け込んでいった。おそらくその魂は地獄へと送られたのだろう。墓地に残ったのはベレトとシスターだけだった。
墓地のちょうど中央にある祭壇に白い光を放つ聖杯が現れた。月明かりが聖杯を照らしていたが、聖杯は自らの力でも発光しているみたいだった。純白の清廉な光が聖杯から放たれ、神聖な雰囲気を醸し出している。ベレトとシスターは二人で聖杯に近づき、お互いに顔を見合わせた。ゴブレットはベレトの片手におさまるほどの大きさだった。
「ねえ、シスターがこれをもっててよ」
ベレトは聖杯に触れようともせず、シスターに渡すことにした。聖杯を持つことは様々な意味や幸福を孕む。強欲な人間を不死にしたように、それ単体で大きなを秘めている。しかし、聖杯の叶える欲に興味がなかったベレトは純粋にシスターにプレゼントしようとした。聖杯は曇り一つない透き通った水晶でできており、装飾に百合の花が気品良く描かれている。芸術品としての価値は十分にあった。いずれ三つの聖杯を手にするのはベレトだが、それまでの間彼女にこの聖杯を眺めて楽しんでほしいと思うのは欲張りなのだろうか。
「ありがとう。とても嬉しいわ。でも、棺の中に一緒に入れて大丈夫かしら。割れたりしない?」
心配そうにシスターが首を傾げた。困ったように眉尻を下げ、聖杯を見つめている。
「大丈夫だよ。僕はシスターの入った棺を世界一大事に扱っているからね。魔法で異空間で仕舞う方が危険だ」
ベレトは胸を張って主張した。この世で1番大事なのはシスターである。聖杯だって本当はシスターに褒められたいから集めているんだ。秘宝と呼ばれるものであっても、シスターより大切なはずがない。だから世界で最も安全な場所はシスターの眠る棺のなかであることは間違いはなかった。
「もう、ベレトったら」
そう照れるように頬をおさえたシスターにベレトは胸が締め付けられる感覚を覚えた。可愛いらしい仕草をするシスターにベレトは微笑む。
神様。僕はシスターとの出会いに感謝しています。これが運命というものでしょう。僕はこの永遠の命を使って、貴方に信仰を捧げ続けるでしょう。
シスターは僕に優しかった。今は隠している角も当時は丸見えだったのに、臆することなく教会に迎え入れてくれた。おかげで僕は思いやりを知りました。温かさを知りました。幸福を知りました。
そして、幸福が終わることも知りました。
「おやすみ、シスター。良い夢を」
「おやすみ、ベレト。また明日会いましょう」
朝日が昇り始め、聖杯を抱いたシスターは棺に戻る。箱の中で彼女が目を閉じたのを確認してから蓋を閉じた。教会のステンドグラスから優しい朝日が舞い落ちる。棺の表面を右手の指でなぞった。教会には僕しかいなかった。シスターなんていない。棺の中身は、シスターの遺品である死体と、彼女を蘇らせるための聖杯(道具)だけだ。ネクロマンスで動くシスターは本物じゃない。そんなの400年も昔からわかっている。それでも彼女がくれた幸福と温もりと神への感謝を忘れたくなくて、彼女の死骸を自分の眷属にした。自分の意志で動かせる傀儡人形に仕立て上げた。
しかし、この長い間抱き続けた虚しさとあと少しでさようならすることができる。聖杯があと二つ揃えば願いを叶えることができる。僕は天使になり、その権能でシスターの魂を手に入れる。肉体にシスターの魂を返せば、シスターは生き返ることができるんだ。肉体は僕の支配下にあるままで。朽ちぬ身体と天使が管理する魂。シスターは不死を得ることができる。そうすれば、僕たちは永遠に一緒にいられる。死が僕らを分つことなく、共に生きることができる。僕はもう、シスターに置いていかれることが無くなるんだ。
ベレトは愛おしそうに棺を撫でたあとゆっくりと抱え、背にまわし背負った。背中にのしかかる重みがシスターの命の重さだと思うと愛しく感じる。シスターと自分の出会い、運命に対する強く確かな喜びを思い出し、噛みしめる。最後に石像の前で両手を組み、神に感謝の言葉を捧げた。窓ガラスから差し込む淡い黄色の光が教会を満たし、ベレトの輪郭を優しくなぞる。白い肌は死者のように青くない。ベレトの細い指が互いに絡み、その手に鼻頭を近づける。それは宗教画の様に静謐で美しい光景だった。
ベレトは教会の両扉を開き、外へ出る。ほんの少し振り返り、閉じる扉の隙間から石像がみえた。完全にしまった扉を背にして、ベレトは大きく足を踏み出し歩き始めた。
そして次の聖杯を求めて、また旅をはじめるのだった。